歌舞伎町の東急:再開発の裏にある道理

歌舞伎町に新たに建たんとしている摩天楼「新宿TOKYU MILANO」。戦後、歌舞伎町に東急が入ってきた歴史を振り返りながら、この摩天楼の影に隠れる再開発の価値を問う!

Written by 東亜茶顔

歌舞伎町の新たな摩天楼

南口に東急ハンズはあるが、東急電鉄は通っていない。そんな新宿は歌舞伎町の再開発に、「東急」と名のつくビルが名前を連ねたのは、たしか2018年前後のことだっただろうか。

私が『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)を2回も観に行ったのは新宿ミラノ1だったが、少し歌舞伎町奥に足を運ばぬうちに、気づけば「VR ZONE SHINJUKU」に変わっていた。こちらは一度も行かぬまま消えたが、思えば全て同じ場所だった。

ずいぶん目新しい箱モノが増え、ホームレスも酔っ払いもまばらになり、代わりにフィリピン人やタイ人らしき女性やニューハーフ、外国人観光客、新宿BLAZEへの各ジャンルの客が目につくようになった。

ホームレスや酔っ払いが昼間から溜まっていた小汚い広場は、ゴジラに見下ろされながら幾分か小綺麗になった。そのゴジラの向かいに、相対するにはずいぶん心許ない外壁の摩天楼が立たんとしている。あのあたりで大学生時代から行っていた箱モノは、ヒューマックスパビリオンだけとなった。

「歌舞伎町一丁目地区開発計画(新宿 TOKYU MILANO再開発計画)」(https://www.tokyu.co.jp/image/news/pdf/20180622.pdf)は、東急電鉄と東急レクリエーションといった東急グループを中心に、地上48階・地下5階、高さ225mの複合エンターテインメント施設を建設する計画だ。完成すれば、新宿東宝ビル(ホテルグレイスリー新宿)の130.25mを大きく上回る。

【建設中の新宿TOKYU MILANO。久米設計(https://www.kumesekkei.co.jp/designstory/shinjuku_tokyu_milano_development.html)による。アングル的にわかりにくいが、現時点で隣のAPA HOTELや、西武新宿PePeよりも高い。】

中に入るホテルや映画館は東急グループが、そして劇場とライブホールはTSTエンタテインメント(https://tst-ent.co.jp/mashup/company/)という、東急レクリエーション、ソニーミュージックエンタテインメント、そして東急電鉄による合弁会社が企画・運営する。まさに東急づくしの施設となるわけだ。

加えて、この再開発は単なる箱モノ作りだけにとどまらず、職安前交差点の改良や西武新宿駅前通りのリニューアル、空港連絡バスルートの形成にまで至る。

しかし、このエリアはまさに西武新宿駅のお膝元、西武線沿線にあたる。また、新宿には電車や地下鉄が数多通っているが、東急の名前はない。そもそも東急のお膝元は渋谷の南平台町だ。

では、一見何の関わりもないように見える新宿に、なぜ東急グループがこれほどの大開発を仕掛けているのだろうか?

大東急の面影:小田急線と京王線

実は、現在こそ別会社だが、新宿を走るもののうち2路線はもともと東急の傘下にあった。小田急線と京王線だ。

1942年、東急の実質的な創業者である五島慶太の経営下にあった小田急電鉄は、京浜電気鉄道(現在の京急)と共に東急(当時は東京横浜電鉄)に吸収合併された。1944年には陸上交通事業調整法により、京王電気軌道(現在の京王電鉄)も東急と合併した。これにより小田急・京王両路線は戦時統制下における「大東急」の一翼を担うこととなった。

戦後、五島の公職追放や戦後処理などを受けた分割再編成の中で、1948年に小田急・京王・京急は東急からの分離独立の道を歩むこととなった。こういった経歴から、両路線の乗り入れる新宿と東急の戦前からの由縁は見て取れるだろう。

新日本興業による吸収合併

しかし、由縁だけで開発に至るわけではあるまい。現在へと繋がる東急による歌舞伎町での開発には別の理由がある。もうしばらく戦後会社史を覗いてみよう。

1946年、「大東急」と時を前後して、千代田区内幸町に新日本興業株式会社が創設された。当初は映画劇場その他娯楽施設の経営が目的で、四日市市にキャピトル劇場を開業し、その後、名古屋市、姫路市、金沢市、浜松市、豊橋市および大阪市に7劇場を開業するなど、地方を中心に事業展開していた。1948年からは地方展開をやめて東京へと集中し、翌年には株式上場もはたした(https://www.tokyu-rec.co.jp/company/history.html)。

新宿区役所が牛込から歌舞伎町に移った1951年、東京急行鉄道がアイススケートリンク「東京スケートリンク」の経営と製氷業のために「東京製氷株式会社」を設立していた。1953年、この東京製氷が新日本興業と合併し、本社を歌舞伎町へと移転したことで、同社は東急グループへとつながりを持つこととなった。

【かつてスケートリンクがあったシネシティ広場(筆者撮影)。奥にはHUMAXと東宝ビルが見える。】

また、新宿コマ劇場と同時期に竣工した新宿東急文化会館が、1956年に開業。渋谷ヒカリエも東急文化会館の流れを汲んでおり、新宿と渋谷は同日の開業だった。東急文化会館の運営は、株式会社東急文化会館が担っていたが、この会社が1966年に新日本興業に吸収合併された。この3年後、新日本興業は東急レクリエーションへと商号変更している。

要するに、東急と名のつく企業が歌舞伎町の開発に絡んでいるのは、東京製氷と東急文化会館の合併による、新日本興業の東急グループ入りが理由というわけだ。

MILANOに至る道

戦後の歌舞伎町開発以来、東急グループはコマ劇前広場周辺を保持してきた。ここでは東急が具体的にどのような開発を展開したかを見ていこう。

新宿東急文化会館の中には、ミラノ座と新宿東急という2つの映画館があり、これらが2006年に新宿ミラノ1・2となった。後に知ったことだが、ミラノ座は1997年の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の第26話に実写映像が使われた(http://www.owlapps.net/owlapps_apps/article?id=3046055&lang=ja)こともある。ミラノ座周辺の空間が秘めたエヴァへの索引は、私の冒頭の思い出へと繋がったわけだ。

【1959年の新宿東急文化会館(wikipediaより)。私が行っていた頃とは違い、当時の広場は自動車ロータリーになっていて、今よりも空間的に狭く感じる。】

また、1981年に開業したシネマスクエアとうきゅうは、「単館ロードショー方式」の草分けとして、ミニシアターを商業ベースに乗せる先駆けとなった。

映画館の他にも、スケートリンク(1957〜1967)、ボウリング場(1967〜2014)、日本初のメダルゲーム独立店舗(1971〜2014)などが入居する複合型娯楽施設となっていった。1965年には総合レジャービルである新宿ミラノ新館が開館したこともあり、コマ劇場前広場の周囲はレジャーランド化していった。

こうしたレジャーランド化は、コマ劇周辺の商売にも影響していった。歌舞伎町商店街振興組合(http://www.kabukicho.or.jp/)が運営するFacebookアカウントには、

昭和32年12月。やがて、東急ミラノとなる前のこの地にあった東京スケートリンク。昭和42年に閉鎖(のちにミラノボウルに変わる)されるまで、歌舞伎町の基幹施設として、近隣では貸し靴やで生計を立てた方々が結構いたそうです。(今の割烹「あそう」とか)

建物の写真は西武新宿通り側からのもの。慰安所的な施設だった芙蓉会館(後のグリーンプラザ)が見える。

2019年、令和最初のクリスマスに東急レクリエーションがシネシティ広場にスケートリンクを期間限定で復活。これはノスタルジーなのか、それとも何かの仕掛けなのか。

歌舞伎町商店街振興会:https://www.facebook.com/kabukicho.jp/photos/a.203004813046536/3078507228829599/

・・・という投稿がなされており、遥か昔のスケートリンクの時代から、この地の箱モノが近隣の商売にまで影響を与えていたことがうかがわれる。

クリーンな歌舞伎町?

余談だが、芙蓉会館は初代振興組合理事長である藤森作次郎がオーナーだった(https://kabuki-cho.blog.ss-blog.jp/2007-11-27)。藤森は、1962年、第43回国会で「ぐれん隊防止条例」(現在の迷惑防止条例)の参考人として衆議院に呼ばれた際、「この条例によりまして新宿は非常に静かないい町になりつつあるわけであります」としつつ、更なる厳罰化を望んでいた(https://kokkai.appri.me/content/66050)。このことからも、新宿を明るい娯楽に満ちた街にしたいという思惑が浮かび上がってくる。そしてこの方針は、どうやら現在にも続いているようだ(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69255)。

東急文化会館と並び、同エリアの象徴だった新宿コマ劇場の設立には、阪急東宝グループ(現:阪急阪神東宝グループ)の創始者である小林一三が関わっている。小林は鉄道企業家として五島慶太の直接的な師匠にあたる人物であり、渋沢栄一が興し東急グループ成立の母体ともなった、田園都市株式会社の経営に関わっていた(https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000218087)。このため、五島は彼から経営上の指導やアドバイスを受けたとされている(https://www.jstage.jst.go.jp/article/kotsushi/60/0/60_KJ00010037405/_pdf/-char/ja)。鉄道企業家として名を馳せた師弟は、新宿歌舞伎町でいみじくも手を組むこととなったわけだ。

だが、はたして彼らの求める先にあるように、新宿は「クリーン」な繁華街であるべきだろうか?歌舞伎町の名付け親である石川栄耀は「都市は人なり」と宣ったそうだが、人々の欲望をCome cleanする街として成立してきた以上、欲望の善悪を白黒ハッキリするのは野暮だろう。それこそ街の名の通り、ケレン味たっぷりかぶいた人々が集える曖昧さ、余地が残っていることが歌舞伎町を歌舞伎町たらしめているのではないか。そして、その余地にこそ人々は流れ込むと私は信じたい。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次
閉じる