流行(モード)の都市

日本を代表するセレクトショップBEAMSが、40周年を記念して公開した動画『TOKYO CULTURE STORY 今夜はブギー・バック(smooth rap)』(2016年)。本記事では、この優れた映像作品から〈流行〉とは何かを考える。〈流行〉に乗りながらも、それに流されないための社会批評。

Written by イサク

ずっと捧げられるファンタジー

2016年10月、日本のセレクトショップの大御所BEAMSが、創業40周年を記念して一本の映像作品を公開した。小沢健二&スチャダラパーによる名曲「今夜はブギー・バック」(1994年)に導かれてすすむこの作品は、〈流行(mode)〉という観点から、いわばスタイリッシュに構成された文化史の試みとなっている。1976年、「AMERICAN LIFE SHOP BEAMS」が原宿にて開業されたその年から始めて、それは印象的な方法でもって、ここ40年の東京におけるファッションや音楽などのユース・カルチャーを俯瞰している。

【まずは観てほしい。】

豪華なキャストを招いて作られたこの作品は、〈流行〉を描くという点において、研究者や雑誌特集などを含むほかの作品の追随を一才許さないほどの出来を誇っている。40年間のなかで実際に流行った個別のものが描かれている、だけではなく、そこからは〈流行〉なる事象それ自体の本質が浮かびあがってくるのである。

それを可能にしたのは、この作品が選択した〈断片による構成〉という方法、特に、個々の断片性を喪失させないままにそれらを一つの流れのなかへと配置していくという意味での〈構成〉の技法である。ヒップホップ的、と形容してもよい。

内容は、豊かではあるが、決して突飛なものではない。冒頭の南佳孝のジャージーな歌い出しに始まり、SEIJI(GUITAR WOLF)や森高千里、野宮真貴、サイプレス上野と高木完、SUPERCAR、さらには初音ミク(ボーカロイド)や、アイドルグループのチームしゃちほこ(現TEAM SHACHI)、そしてtofubeatsなど、数多くのアーティストが変わるがわるに出てきて、それぞれの(あるいは、それぞれの時代の)スタイルで「今夜はブギー・バック」を歌い継いでいく。これらの歌手の一人ひとりが、ユース・カルチャーにおけるさまざまな世代の「ある頃」を想起させる。

さらにこの歌い手たちのパフォーマンスと同時に、それぞれの時代に流行した衣装を纏ったモデルたちが、次々に現れては画面の外に消えていく。このファッションにおける流行の流れが映像のもう一つの軸になる。

【出典:BEAMS40周年記念MV『TOKYO CULTURE STORY 今夜はブギー・バック(smooth rap)』(2016年)。】

しかし、〈流行〉という、川を流れる水のような事象を見事に掬いあげているのは、内容というよりも、むしろこの作品特有の形式である。

ひとつに、登場する歌手やファッションにはタグが付けられている。それらが、登場人物や流行のファッション・スタイルに付けられた名を示してくれるというわけだ。このタグを付けるというやり方は、個々の流行りものをより視覚的に分かりやすく伝えるために行われたのであろうが、しかし、大量のタグが次々と画面を横切っていくという異様な光景は、画面を流れるあらゆるものが商品であるということ、それら(彼/彼女ら)はすべてショーウィンドウの向こうに展示された、あのタグ付きの商品たちと寸分の違いもないということを想起させる。

消費者の欲望を喚起しようと躍起な広告の、あの飽くなき活動が商品に与える、魅力的な幻影(ファンタジー)!――この映像のなかで、かつての流行を自身の思い出とともに想起できる世代の者は、まるで万華鏡のように次々と姿を変える幻影が、いかに自らの過去に色を与えてきたかということについて、懐かしさとともに思いをめぐらすかもしれない。

【出典:同上。僕の世代であれば、たとえばこの「LA Celeb」とタグ付けされたファッションを見ると、そのような呼び方は知らなかったとしても、浜崎あゆみやその他多くのイメージが想起される。この作品は、そのような想起を上手く活用することで、〈流行〉の流れを総括している。】

もうひとつの形式における特徴は、全編に施された、切れ目のないワンカット風の編集である。カメラはゆっくりと上下左右に移動しながら、次々とかつての流行りものを映していく。それは、1976年から始まる40年もの時間の流れを連続したものとして意識させるだけでなく、同時に、次々に現れては消えていくという流行の商品の〈はかなさ〉や〈移ろいやすさ〉を考えさせる。これも上記の同様、映像の制作者たちが意図した結果ではないだろう。しかし、短い映像のなかで流行の経過を表現しようと創意工夫がなされたことによって、〈流行〉なるものの本質がそこに浮かびあがってきた、その結果なのである。

以上、二つの形式がこの作品の〈構成〉形式である。タグ付けという形式が個々の流行りものの断片性を維持しているとすれば、それらを結びつけて総合的な枠組みを与えているのが、ワンカット風の編集のなかに全てを詰め込むという形式なのだ。そして、前者がヒップホップ的であるとすれば、後者は、実はBEAMS的と呼んで差しつかえないものなのかもしれない――なぜか?

まるでヤング・アメリカン

1976年にBEAMSを創業した設楽悦三は、元々、段ボールを扱う会社を経営していた。前年、のちにBEAMSと並んで「セレクトショップ御三家」と呼ばれることとなるUNITED ARROWSを創業する重松理と新宿の飲み屋で知り合い、彼のプレゼンを受けて、アメリカン・ファッション専門のセレクトショップ「AMERICAN LIFE SHOP BEAMS」を原宿に開業することになったという。ファッション専門、とはいえ、店名に偽りなし。BEAMSが始めたのは、スタイルとしての「アメリカン・ライフ」をまとめて商品にしようという試みであった。60年代から団塊世代を担い手(あるいは客層)として勃興したユース・カルチャーを背景に、アメリカの映画や音楽、さらにはアメリカ風の考え方までを、衣服や雑貨とまとめてパッケージに詰め込んだのだ。そこでは、本来、売り買いなどできるはずのない「生活文化」のまるごとが商品となる。このBEAMSが打ち出した文化に対する総合性は、たとえば同時期に創刊されたメンズ雑誌『ポパイ』との深いつながりにおいても表現されているだろう。

もちろん、「生活文化」全体を売り買いすることは不可能である以上、そこにあったのはある種のファンタジーであったことは疑いようがない。人びとがその幻影のなかで陶酔しているかぎりにおいて、「生活文化」は商品となる。その幻影に関しては、創業者・悦三の息子であり、現代表取締役である設楽洋の次のような証言も考慮のなかに入れられなければならない。

当時、日本は学生運動が終わり、アメリカもまたベトナム戦争が終焉を迎えたときだった。それまでの暗い時代から、70年代に入り、西海岸のスコンと抜けた青い空にあこがれた

【出典:前掲・WWDJAPAN記事】

もちろん、70年代に入って、学生たちが訴えてきた問題や世界中の紛争が急に落ち着いた、などということはない。しかし、いつ終わるかも、はたしていつか終わるかも分からない「暗い時代」の現実を誤魔化すには、「西海岸のスコンと抜けた青い空」を思わせる幻影で身を包む必要があったというわけだ。わずらわしい現実に、かかずらいたくない、ただただ楽しく生きていきたい――いまなお現実がどれほどわずらわしいものであったとしても。こういった若者たちの健全な欲望――それは愚かではあったとしても、疑いようもなく〈健全な〉欲望である――をかき集め、BEAMSは、流行というファンタジーを司る有力な司祭の一人となった。原宿は、日本の流行の一大拠点となる。

踊りつづけるなら・・・

もしかすると誤解した読者もいるかもしれないが、本記事は、〈流行〉というものを、あるいはそれを導いてきた企業の一つであるBEAMSを、皮肉るつもりは一切ない。僕も、ファッショナブルとはいかないけれどもBEAMSは好んで使っているし、映画や音楽が提供するファンタジーには毎日どっぷりと浸かっている。「西海岸のスコンと抜けた青い空」を忘れることはできないし、酒や煙草によるものを含む、楽しく生きるためのあらゆる陶酔を生活のなかに取り入れている。流行することはないあらゆる名作名品があるということ、かつて流行したもののなかには、忘れられた貴重な精神が宿っていることもあるということ――たとえばこういった観点を忘れないかぎりは、流行を楽しみながらも、その濁流に飲み込まれることはないだろう。

【筆者撮影(サンフランシスコ)。カリフォルニアの空は、たしかに「スコンと抜けた」という表現にふさわしい青さを見せる。】

ところが、そういった見方はやはり楽観的に過ぎるのであって、実際はというと、流行は、一度飲み込まれてしまうと、そう簡単に濁流の外に放してはくれない。流行とはある種の熱狂なのであって、それが流行っている、その内部から、距離をとって見ることを困難にさせるのだ。

その最たる側面は、流行に乗ることを自己表現であるかのごとく思わせるという力に現れている。実際は、それは自己表現などではなく、したがってまた自己実現でもない。そこで実現されていることとは、自己を周囲に合わせて規格品へと化すということであり、そこで表現されているものとは、他者に向けた商品の代理広告である。流行は、流行に追従する者が主人なのではなく、実は自らが追従者たちの主人であるという関係を、彼らを陶酔させることによって周到に隠す。流行の外部にいる者から、追従者たちの陶酔が奇妙に写ることがあるのはこのためである。

酔うことを楽しむのは何ら悪いことではない。けれども、酔いは必ずさめなければならない。流行における熱狂が「酔い」であるとすれば、ここでの「酔いさまし」は批評(≒評論)である。本記事で取り上げたBEAMSの映像作品が素晴らしいのは、たんにこれまでの流行を楽しく紹介してくれるからだけではなく、40年もの期間を総合的に俯瞰する作品であるために、視聴者は個々の流行の内部から放り出されて、思わず流行に対する批評的距離――あるいは、パースペクティブと言ってもよい――を手に入れてしまうからである。

そのような批評的距離が意識されたとしたら・・・、「WHAT’S NEXT?」――この最後に投げかけられる問いも、「また流行を仕掛けていきますんで、懲りずにお金を落としてくださいませ」などという下品な商魂を忍ばせたメッセージではなく、よりカジュアルで、よりスマートなメッセージとして受け取ることができるだろう。すなわち、「次なる世界を作りあげるのは、若き君たちだ」というメッセージとして。そのときにこそ、流行の幻影は、わずらわしい現実から僕らを逃避させるものではなく、わずらわしい現実を本当に楽しいものへと変革するための武器になるだろう。

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