近年、困難な社会状況に置かれてきた、カンボジアに生きる2人のラッパー。その地点からヒップ・ホップを通して我々に訴えかけるものは何か。そして、彼らのメッセージの行く先とは? 異国の音楽を通してみる現代社会批評・後篇。
Written by 祖父江 隆文
闘争の果ての沈黙
しかし、人びとが排撃の的となるのは、こうした肉体的な弾圧によってだけではない。法的な空間の規定とそれを実行する強大な力が、人びとの生活の基盤そのものに降りかかってくる。その具体化の一つとして現れるのは、今世紀以降特に問題化してきた土地紛争である。Dymey-CAMBOは、次のように歌っている。
រឿងអវិជ្ជមានកើតឡើងគ្រប់ទិសទី
あちこちで良からぬことが起きている
ឃើញទិដ្ឋភាពនូវរឿងជម្លោះដីធ្លី
目にするのは土地紛争の光景
រាស្ដ្រស្រែកទ្រហោយំទឹកភ្នែកស្រក់លើធរណី
人々は泣きわめき涙を地に落とす
លើកដៃឡើងសំពះអង្វរគេគ្រប់នាទី។
何時も拝み懇願する
Dymey-CAMBO,សង្គមនេះ 2019年。以降「この社会は」と表記。歌詞は全て筆者邦訳。
移住・労働を強いたポル・ポト政権の後、それを打倒したベトナムを後ろ盾とする社会主義政権を経て、現在の市場経済社会に転換してきたカンボジア。その過程で人々が暮らす土地は、私有を禁止されたり、国家管理の下で新たに所有権の対象になったりと、その生活の場から離れたところで複雑に変遷してきた。そうして整備されてきた現状の法秩序の下で勃発する、土地を巡る争い——「発展」のための所有を推し進める企業や国家権力が、かつてからそこで暮らしてきた住民に退去を迫る。法的効力を新たに突きつけられることで、突如として生活を営んできた住居や田畑、森が、「開発」用の区画へとよそよそしく転換させられる。
ម្ចាស់ដីត្រូវជាប់ខ្នោះ ឯចោរប្លន់រស់យ៉ាងស្រួល
地主が捕まり追いはぎが自適に暮らす
ភាពយុត្តិធម៌កើតឡើងយ៉ាងរអាក់រអួល
正義もろくに果たされない
គេមានលុយមានអំណាចគេអាចទិញឬក៏ជួល
買うか貸すか それができるのは金と権力があるやつだ
前掲「この社会は」。
そして、ここでも住民の抗議は弾圧によってかき消される。こうして、日々の闘争が織り成す不協和音が行き着くのは〈沈黙〉である。キア・ソクン(គា សុគុណ)の「クメールの地」は、批判精神を備えるはずの「知識人」もその状況下にいることを歌っている。
អ្នកណាដែលចេះដឹងគឺគេវៃចូលអន្លង់
知識のある者とは須らくおとなしく穴に入り
បំបិទមាត់ អ្នកឆ្លាតចង់បានតែពួកល្ងង់
口を閉ざす奴の事 狡猾な者は愚衆だけを求める
គេរំលោភមិនតវ៉ាព្រោះតែខ្លាចជាប់ជង់
不正を働き戦わない 罠にかかるのが怖いから
Kea Sokun, ដីខ្មែរ 2020年。以降「クメールの地」と表記。歌詞は全て筆者邦訳。
政権人気を脅かす野党の解体、批判的なメディアの解散——あらゆる方面に向けられる〈沈黙〉こそが、国家の「安定」を保つ秘訣であるというわけだ。そうして強いられた〈沈黙〉を前に、人々はなす術を失って行く。Dymey-CAMBOはそのことを鋭く感じ取っている。
ក្នុងចិត្តធ្លាប់ក្លាហានក៏ប្រែទៅជាលើកផ្លាក
勇敢だった心も看板替え
មិនហ៊ាននឹងគេទេព្រោះខ្លាចតែតៃសាក។
恐れて勇気を出さず ただ朽ち果てる
គេដាក់សម្ពាធកៀបសង្កត់អ្នកទន់ខ្សោយ
やつらは弱者を脅し迫る
យើងគ្មានអ្វីតបតនឹងគេឡើយ
それに返すものは何もない
前掲「この社会は」。
「栄光の時代」への眼差し
「この社会は」と「クメールの地」では、以上のように、カンボジアで生きる人々が置かれた凄惨な状況が告発されている。しかし、これらの曲はそこに留まるのではない。2人のラップのローカルな社会状況に対する訴えは、彼らのより普遍的な批判へと結びついて行くのだ。
では、このラップの批判を起点として、彼らはどこに向かっていくのか。それを検討するために、少々遠回りだが、2人のラッパーが権力に圧せられた要因でもある、カンボジアの国境ないし領土に関する彼らの意識に、ここで触れておきたい。そこにこそ、この2曲が、ある種の問題性と同時に、卓越した思想をも孕んでもいる点があるからだ。
そもそも昨今報道されている国境問題とは何かというと、フランスの植民地支配からの独立を経た20世紀後半から現在にまで続く、カンボジア—ベトナム間における国境策定に関する外交情勢を直接的には指している(例えば下記リンクを参照)。前編で述べたように、2人のラップもまた、この国境問題や、それに関連して政府を批判することがテーマであると報道機関や警察当局らに理解されていた。
だが、こうした国境問題には、ある種のカンボジアの歴史観や、それに付随する近隣国に対する人々の嫌悪感が絡み合ってもいる。要点を述べるに留めるが、例えば、クメール民族が多く暮らしてきた地域が過去の侵略で失われ、独立を経てもなおベトナムに属すると認定されたことへの批判や、またその責任は「カンボジアの領土を奪おうとするベトナムの操り人形」であるフン・セン政権にあるという批判が、一部の王族や野党政治家たちによってなされてきた。つまり、上述の外交政治の文脈でなされる批判は、カンボジア国内や国境周辺に暮らすベトナム人を「我々の領土を侵犯する民族」と見なしさえするような人種主義と重なりもするのだ(こうしたカンボジアにおける反ベトナムの情勢については、例えば下記リンクを参照)。
昨年、国境策定についての政府の対応を人種差別的言動を伴って批判する活動家や、彼を支援する市民が社会秩序の混乱・政権転覆を助長したとして逮捕されたのは、こうした情勢の中においてなのである。
ここで改めてソクンとDymey-CAMBOの韻文を見ると、こうした国境・領土に関する混沌とした情勢を反映しているかのようなライムも見受けられるのも確かである。ベトナムとの実際的な国境をめぐる問題のみならず、約10世紀前のアンコール王朝時代に築かれたかつての広大な領土が、今ではその一部が他国に属しているために縮小していることを悲観していると思わせる歌詞もあるのだ。「クメールの地」は、次のような韻文でそれを端的に表現している。
ដីកម្ពុជាសល់ប៉ុនកំដាប់ដៃ
拳ほどに残るカンボジアの地
កាលពីមុនទូលំទូលាយធ្លាយទៅដល់ស្រុកថៃ
以前はタイに届くほど広大だった
តែឥឡូវកាន់តែតូចធ្វើអោយខ្ញុំនឹកស្រមៃ
だが今じゃ夢見ちまうほどに小さくなるばかり
2ヴァース目には、
ខ្ញុំអ្នកសៀមរាបរស់នៅលើដីប្រាសាទ
俺は古の寺院(アンコールワット)の地に暮らすシェムリアップ人
មានឈាមវរ្ម័នក្លាហានមិនបាក់ស្បាត
勇敢で恐れ知らずのヴァルマン(王族)の血が流れている
ឈរតំណាងទឹកតំណាងដីតំណាងសាសន៏
水を、地を、民族を代表して立っている
前掲「クメールの地」。
とある。こうした韻文を見ると、過去の王朝の栄光が、昨今の領土問題に対するソクンの嘆きと相まって、現状への批判に反映されていると見ることもできる。
一方、Dymey-CAMBOの「この社会は」の3つ目のヴァースは、次のように始まる。
យួននៅពេញទឹក ចិននៅពេញដី
ベトナムが水を 中国が地を満たす
តើតទៅមុខទៀតពួកយើងនេះនៅសល់អ្វី?
これ以上やったら俺たちには何が残るんだ?
前掲「この社会は」。
このリリックは、かつて多くのクメール民族が暮らしていた地域——メコンデルタや今日のホー・チ・ミンにあたる一帯——が、他の王朝の進出を許した時代を経て現在ベトナムに属していることや、華人のネットワークがカンボジア国内で大きな影響力を持ってきたことを嘆いているようである。
こうした領土の時代的な対比と、上で述べたような「領土への侵犯」にまつわる嘆きや憎悪という人々の感情とは、互いに密接な関わりを持つものであろう。つまり、ともすると現状の国境や領土にまつわる問題が、「クメール民族栄光の時代」の復活を求めるある種の羨望と、かつての「クメール民族の領土」を侵犯しているとする近隣国への敵対心に結びつく。こうした要素が、二人の曲にはあるのだ。
敵対すべき「人種」
だがそれでも、これらの曲が向ける批判の射程はより普遍的な問題をも含むものであり、またそうであるが故に、2曲の冒頭にある「立ち上がる」というフレーズが響くのだ、と僕は考える。ここまでで述べてきた「かつての栄光の時代への羨望」や、そこに由来する「近隣国への憎悪」というカンボジアの現状になされる理解の仕方は、ラップ・ソングを含む様々な社会批判の活動に対してもあてがわれてきた(例えば下記リンク参照)。しかし、たしかにそうした理解を促しかねないそれらの歌詞には、同時に別の、「カンボジアとその周辺の問題」という枠を超えた批判力が宿っていることをも読み取ることができるのだ。
その点を示すために、まず「この社会は」のリリックを改めて見てみたい。上記の「これ以上やったら俺たちには何が残るんだ?」という言葉からは、Dymey-CAMBOが現在進行形の事象をも問題にしていることが聴きとれる。このことを踏まえると、次のように考えてみることができる。ここでベトナムに加えて中国が登場するのは、上記の国境問題だけでなく、実は昨今のベトナムや中国企業もまた、カンボジア国内の土地や自然の多くを経済利用しているという状況が背景にあることを想起することが可能である、と(下記リンク参照)。「これ以上やったら」とは、国家間関係による地図的な国土面積の増減以上の何かを憂いている言葉なのだ。
このように、地図上の境界線やその中の領土そのものの問題よりも、別のいかなる問題が訴えられているかに注意して「クメールの地」を見ていくと、ある韻文に目が留まる。
កុំរវល់តែផឹកស៊ី ប្រយ័ត្នតែផែនទីនៅលើគេ
酒ばかり喰らうな 奴らの地図に注意を向けろ
សាសន៍មួយចំនួនកំពុងតែឈ្លានពាន
ある人種が侵略してきてる
前掲「クメールの地」。
ここで直接的に「地図」という言葉が登場する。しかし、それを手中にする「ある人種」とは? 終盤にその手がかりを与えてくれる次のような歌詞がある。
ដីខ្មែរតំបន់ទឹកតំបន់គោក
クメールの地 水と陸の領土
ឃើញតែសាសន៍គេចូលមកធ្វើវិនិយោគ
目に入るのは投資をしにくる人種ばかり
前掲「クメールの地」。
「発展」の名の下で起こっている〈クメールの地〉の破壊は、必ずしも特定の国籍や民族に属する者によってなされるのではない。それは自分たちが生きる場に「投資をしにくる人種」によってもたらされる。実際、カンボジア全領土の約7~8パーセントという膨大な土地を管理下に置き、経済的に利用する権利を主張して、多くの住民を土地紛争に巻き込んできたとある企業は、特定の他人種ではなく、カンボジア与党議員とその妻によって経営されている(下記リンク参照)。その「人種」が持つ「領土」を地図に書き込んでいけば、そこに残された〈クメールの地〉は「夢見ちまうほどに小さくなるばかり」であるのが確認されるだろう。
そうであるならば、Dymey-CAMBOの批判もまた、特定の国家やそこに属する人種を問題としていると見るべきではない。その精神は、「富者は愉快に暮らし 貧者は死んだみたいに暮らす(អ្នកមានរស់សប្បាយ អ្នកក្ររស់ដូចជាស្លាប់)」(「この社会は」)という歌詞に集約されている、と考えるべきなのだ。
国家の領土の枠組みを超えた、「富者」たちの新自由主義的な志向性によってもたらされる、終わりの見えない苦悶。そこから国や人々を守るために「立ち上がり、庇護者となる(ឈរកើនជាម្លប់)」(「クメールの地」)。彼らのラップが現在のカンボジア社会と共振するのは、かつての王朝の栄光にすがりついたり、特定の民族を非難することによってではなく、この点を以てすればこそ、なのではないか。
灯火の行く末
こうして2人のラッパーの韻文を見てきたこの地点からなら、前編の序盤で問うた、2人が綴った「立ち上がる」という言葉が何を表すかを改めて考えることができるだろう。この言葉からは、自分たちの暮らしが、その範囲を超えた所に源を持つ巨大な力によって文字通り土壌から奪われてきたという苦難の経験、加えて、それに異を唱える人びとが、「開発」のために伐採される森林の木々のようにことごとくなぎ倒されてきたという挫折の経験を見るべきなのである。
如何ともしがたい法律や経済の情勢が、国内外の政府や開発企業といった動力と結びつき、利潤に従って自分たちの生活圏を次々に狙い撃ちしてくるおぞましさ。そのいつ襲いかかるかも知れない、あるいはこちらから突破を試みる度に絡めとられてきた不可視の網の目を、今一度断ち切らんとするための、批判の意志――彼らのライミングが力を持つのは、その位置においてなのだ。
そうであるが故に、僕が街中で耳にした「この社会は」のhookは、それを聴く人々によって空間に放たれるたびに増幅する、点在的であると同時に集団的な批判力になり得たのであった。
だが、この状況下のカンボジアで僕が一瞬垣間見たラップの潜在力は、国家権力によってより惨たらしく圧せられることになる。その帰結の一つが、Dymey-CAMBO事件から約1年4ヶ月後のソクン逮捕なのであった。そして、弁明の余地がほぼない一方的な裁判を経て、彼は昨年12月に18ケ月の禁固刑を言い渡されている。(追記:ソクンは逮捕から約1年の今年の9月に釈放された。)
Dymey-CAMBOは、脅迫を受けて「この社会は」を消去した後、自らと家族の安全を考慮して社会批判をラップすることは辞めると宣言した。曲はその後再びネット上にアップされたが、彼が今後記していく歌詞に、2年前ほどの潜在力が宿るのかどうか。そして、酌量を求めず刑を受け入れるつもりであるソクンが、今後どのような活動をしていくのか。これからのカンボジアン・ラップ、そしてそれを取り巻くカンボジア社会に思いを馳せながら注視していく他はない。