読むことへの滞留

〈読む〉とは何か? それはいかなるかたちで僕らの生に介入してくるのか? 1945年に生まれた市村弘正の自伝的考察『読むという生き方』(平凡社、2003年)は、〈読まれてきたもの〉と〈生きられてきたこと〉が交差する様を示す。年長者の残した貴重な考察に対する自伝的評論による応答!

Written by 黒岩 漠

まえがき

2003年に出版された市村弘正『読むという生き方』は、〈読む〉という観点から書かれた自伝である。読むということそのものが、一つの生き方として描かれている。本記事はこの作品を取りあげるのであるが、市村弘正がいかなる人物であるかをここで云々することはしない――それは、彼がこれまでに書いてきた、物書きとしては決して量多いわけではない文章、微細なものを丹念に注視し、余計なものを削ぎ落として書かれた彼の批評的文章を〈読む〉ことをとおしてしか、意味あるものにはならないからである。

何よりも先に〈読む〉ということそのものについて考えなければならない、と思っていた。〈読む〉ことが、いまあらたに時代から要請されていると考えたのだ。それで、これまで事あるごとにめくってきたこの市村の作品を再び手にとった。だが、この作品を、何か大学のレポートのように要点をまとめ、あるいは知った風な口で評論を書いてよしとすることは、この作品の性質、そして作者の気質そのものから、あらかじめ拒まれてあった。読むということが「生き方」として示されている以上、それを〈読む〉態度もまたそれに見合ったものでなければならない。

考えあぐねた結果、市村の作品に対する何らかの解釈を示すというような書き方ではなく、その読解を背景に、僕自身の貧しさ極まる経験から〈読む〉ということを考える――これを本記事の方針とした。この、〈読む〉ということを仮宿とすることしかできない、経験の乏しさを生きてきた人間の記録をいくらか晒すことで、祖父母ほども歳の離れた者の生きたあり方への「遠くからの応答」としたい(以下では、『読むという生き方』からの引用は頁数のみを示す)。

終わらないということから

日本の敗戦の年に生まれたということ。生を意味づける線分に「戦後零年」の始点を付与されることによって、その時代感覚にある偏りをもたらす偶然性を受けとるということ。それが私の生の条件だ。そこでは個別的な生にたえず時代が覆いかぶさり、「生後」と等置されるように「戦後」という観念が貼りつけられ、生の節目は、あらかじめ歴史的社会的に特定され局限されたものとして、現われざるをえない(7)。

このような語り出しを見るとき、僕の生は、「始まり」とはちょうど真逆の、「終わり」の印が書き込まれた年に始まったことに思いをめぐらさざるをえない。その年は、僕の生の記憶にはまるで登場しない昭和天皇の死んだ年、すなわち「昭和」の終わりの年であって、ベルリンの壁が壊され、天安門で大弾圧のあった年でもあった、という。物心がついた頃、大人たちはさまざまに「終わり」を語っていた。「終わり」がもたらす諸々の範疇に投げ出されるということ。それが僕の生の条件だ。

「かつては激動の時代だった」――大人たちの口端からは、そのような感慨がしばしば溢れていた。バブルの頃は景気がよかった、学生運動は間違っていたが世界を変えるという情熱がそこにはあった、高度成長は日本人の底力を証明した、戦争は悲惨で食べ物にいつも困っていた――「昭和」を生きてきた者たちは、自分たちが生きたという激動の全てを(どれほど馬鹿らしく思えるものであれ)僕らに記憶して欲しいように見えた。映画や音楽についても、「すでに偉大なる時代は終わった」というのが彼らの見解であるようで、「平成」に生まれた僕らは、かつての同時代的「経験」を自慢され、その不運な欠如を哀れがられ、「ゆとり世代」などと名づけられてその言葉の意味も分からぬままに叱責された。まるで、上映終了後の映画館に遅れて入ってしまったような気分が、僕の生を包み込むことになる。「大きな物語の終焉」という言葉を知ったのは、20歳になった頃であった。

【当時、はじめて連れて行ってもらった映画は1995年の『ゴジラvsデストロイア』であった。ところがそれすらも、ゴジラ・シリーズの「終わり」を告げるものであったのだ。】

そこに、さらなる「終わり」の言説が重なる。どこかの予言者が、世界は20世紀の終わりに終末を迎えるとか何とか、大昔に予言していたらしく、それをテレビや雑誌がしきりに取りあげていた。まだ10年程度しか生きていなかった僕は、近く自らの生を含む一切が終わるということを素直に受け入れた。当時、こんな与太話を信じる必要のなかった大人たちにはきっと理解できないだろうが、僕――そして同世代人には、きっと同様の過去を持つものがいるはずだが――は、この「終わり」を確かに約束された未来として生きた。友達にひどい意地悪をしたあと、「どうせ世界は終わるんだし…」と謝罪をしなかったことも何度かあった。小学校からの下校中には、最後の日はどうやって過ごしたいかという話題をいくらか寂しげに話し合った。阪神淡路大地震やオウム真理教事件(ないし、それへの大人たちの反応の様子)も、「終末」をよりはっきりと意識させる方向に機能していたように思う。「終わり」に向けて、しかも生ききった先に迎える個体的な「終わり」ではなく、かつて恐竜が辿ったのと同じ意味での「全滅」に向けて生きるということ。振り返って見ると、これは、僕がいままでの生のなかで手にした唯一の「信仰」であったかもしれない。

【出典:Getty Images。ノストラダムスの肖像画。世紀末期の日本における「大予言」ブームは、このフランスのルネサンス人の名をあらゆる子どもたちに記憶させた。】

来るべきものとしての「終わり」は、いまではいかに馬鹿げたものに思えたとしても、僕の生の始点に置かれた「終わり」とは異なり、自身のために真に必要とされるイメージだった。言うなれば、「終わってしまえ」という気分が、家庭を超えて広がる世界へと繋がる限られた切符だった。だから10分程度のショートフィルムであったはずの人生が、どうやら2時間あまりの長編として用意されていそうだと気づいたときには、ちょっとした安心だけでなく、明確に失望をも覚えた。必ず終わるべきであった世界、それへの窓口すら消えてしまった世界のなかで、人生の続編が始まる。生は、「終わらなかったもの」として受けとられるしかない。

結果、二つの「終わり」は、連続的で均一的なものとしての「戦後」の概念がちょうどそうであるように、「終わるべきものが終わらない」という漠然とした感覚を与え、また気安く(しばしば懐かしむような調子で)「終わり」を語る気分屋たちに対する激しい抵抗感覚として僕の内部に残留していくことになる。のちにハンナ・アーレントの仕事を知って、本来は繋がるべき「始まり」へともはや繋がらない「終わり」、すなわち恒常的「終わり」としての「荒廃」をめぐる考察に触れたとき、内面を煙のように漂っていた残留物は、はじめて思考として結晶化を始めた。「終わりなき日常」というどこかで聞いた流行り言葉を、僕はそのような文脈で再度飲み込んだ。

敗戦の年に生まれた者にとって、しかも「生後」と等置される均質な「戦後」という時空に、認識の裂け目を入れ込もうと抵抗してきた者にとって、敗戦が、一方で、「言ってみれば『古典古代』と同型の範例的位置をもち、同型の認識と行動の源泉としての相貌をもつもの」(8)であると同時に、他方で、大日本帝国からの「はやがわり」に端的に表れているような、「範例であるどころか『道徳樹立』を要請する事態」(9)として受けとられるという緊張――そこにあるような両義的な認識姿勢を、僕らの生まれた時空に対しても持つことができるのだろうか? 僕らの時代では、「終わり」も「終わらなさ」もともに一義的なものとして積み重なっているだけであり、両義的な膨らみを持つことはないかのようだ。逆に、〈読む〉ことが要請されるとすれば、まさにその空虚さの地点においてであろう。そこでは、自己の生きられた空間だけでなく、そこからは上手く見えてこないさまざまな質の生を、歴史的な広がりのなかから手繰り寄せていく必要もあるだろう。しかし、その作業を開始するためには、いましばらく限られた手持ちを確認する必要がある。

歴史と自然

戦後零年に生を享けたことに加えて、もう一つの偶然は、私が職人の家に生まれ育ったということである(10)。

トウリョウ(棟梁という言葉を知らなかったので、ずっと頭領だと思っていた)と呼ばれていた父のもとには、実にさまざまの業種の職人が出入りしていた。大工、建具師、経師、畳屋、左官、瓦屋、桶屋、ペンキ職人などなど。一棟の家をつくるために結集する彼らは、私たち家族など無視するかのように出入り自由だった。とても両親と子どもたちだけで要塞をつくるわけにはいかない。その意味で家は外側に、世間に開かれていたともいえる。黙読のための「個室」空間など、全く想像の外であった(11-12)。

4歳のとき、両親が離婚した。母に連れられて、二つ下の妹と三人で戻った鹿児島での生活は、それまでの都会での生活とそれほど違うものには感じられていなかったかもしれない。父と父方の祖父母の不在を除いて、一般的にそうである程度には閉じられた核家族を生きた。その家庭のなかに、読みとるべき匂いや音があっただろうか? 歯科医である母は、日中は不在であった。どこにでもある団地での生活は、学校を通した友人関係以上のものを与えなかった。生活に不足はなく、充分に幸福だった。家、学校、母方の祖父母の家を中心としたいくつかの小惑星を、県道や田舎道が結んでいた。その小宇宙の内部で読み解くべき印は、わずかであった。むしろそこで〈読む〉ということは、友人や先生や親戚の顔色を読むこと以外を意味しがたかっただろう。いや、そうであるのならば、必死に働き疲労している母の顔を、もう少し読んであげてもよかったかもしれない。

しかし、母の仕事による不在は、三人住まいの家の外部において、〈読む〉姿勢が問われる二つの空間を僕に与えることとなった。

そのひとつは、山である。鹿児島でも田舎の方に住んでいたことは、公園や舗装された道路のほかに、広大な遊び場を提供した。親の目がないことをいいことに、いまからすると随分危険に思える山遊びに明け暮れた。昆虫を捕まえることが最大の目的であったが、いくらかは山に入ることそのものが目的になっていただろう。山のなかの重く濃い匂いに包まれて、わずかな徴候にも目を光らせた。オオスズメバチやマムシと格闘し、収穫の少ない木には目立たぬ印を付けた。山中ではなかったが、イノシシに追いかけられたことも二度ある。いくらか神秘的に思えなくもない体験にも出くわした。山は、複雑なアラベスクのように、一読で理解することが困難なほど緻密に織り込まれたテクストであった。

【後年になって、黒澤明監督『デルス・ウザーラ』(1976年)を観たとき、そこに映っている人物は、山を駆けた僕らの偉大な先祖であるように思えた。ただ遊んでいるだけの僕らにおいて矮小なものであった経験は、そこではまさに「経験」としか呼びようのないものとして花開いていた。】

もうひとつの〈読む〉ことが試される空間は、祖父母の家であった。仕事で忙しかった母は、特に小学校低学年のときには、しばしば僕と妹を祖父母に預けたのだった。1917年生まれの祖母は、僕と妹が庭や裏山で目一杯遊んで帰ってくると、一日のほとんどを過ごしているテレビの前の椅子から立ち上がって、ライチやマンゴーを出してくれた。ライチは、いまでも最も好きな果物である。

祖母が出してくれる果物に、一つの歴史的文脈があることに思いが至ったのは、大学に入ってからのことであった。祖母は、大日本帝国下の台湾で生まれ育った。あれらの果物は、祖母が敗戦後の引き揚げまでを生きた台湾の生活を再現するものだったのだ。祖母が台湾生まれであり、そこで鹿児島生まれの祖父と結婚したことを、僕は知っていたはずであるが、ただ訊かれたら想い起こす程度の情報として頭の奥に留めていただけであったのだろう。大学の講義で大日本帝国の歴史を学び、またポスト・コロニアリズムという旗のもとに集められたテクストを読むなかで、はじめて記憶の断片が意味あるものとして結びついた。

それから、99歳を目前に祖母が亡くなるまでの間、機会を得ては祖母に話をきいた。祖母の父が台中州のある郡で首長をやっていたこと、ライチをリュウガンという果物の代用として買っていたこともそのときに知った。祖母の語り方は、失われた故郷を語るそれであった。親のように僕らを育ててくれた、見知ったはずの祖母が持つ、それまで僕の気づくこともなかった「戦後を貫く時間の異質性」(8)を生きてきたという経歴、そして、いまだ捨てることのできない故郷への情念に戸惑いを覚えた。自らの〈読む〉力の欠如を、これほど自身の実存に関わるかたちで痛感したのは、このときがはじめてである。〈読めなさ〉が腹立たしかった。異質な生のかたちへと続く認識の穴は、隣に空いていた。そのことに気づかされたときには、祖母の死は間近に迫っていた。

【ドキュメンタリー作品『湾生回家』(2016年)を観て、祖母が台湾で生きた帝国人としての立場と、引き揚げ後に生きた孤独とを想った。単純な善悪二元論でもなく、また加害と被害を差し引きするのでもない認識をするために、〈読む〉ことが要請されるのだ。】

(未完)

※本記事の続きは、不定期連載としていずれ本サイトで公開する予定です。

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