ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』からは、20世紀のやつれた天使たちの姿が浮かびあがる。悲惨が貫徹したような現代史のなかで、天使たちはどのようにイメージされてきたのか?――その系譜を探る。前編。
Written by イサク
僕らの時代の〈天使〉たち
僕らはいま、どのように〈天使〉なるものの存在を想像することができるのだろうか? いや僕らの時代に、いまだなお〈天使〉は存在するのだろうか? 現代という名で呼ばれる、この、開発と破局、不安と熱狂の時代のなかで、〈天使〉たちは、ついに僕らを見放したのではないだろうか? それとも、僕らの方が〈天使〉を…?
キリスト教どころか、何一つ宗教なんてものを信仰していない人間がこのような問いを抱えるという事態は、たしかに滑稽に見えるだろうし、見ようによってはいくらか不遜にも感じられるのかもしれない。
だが、おそらくはすべての形象がそうであるように、実は〈天使〉という形象もまた、その本来の文脈と世界観を離脱する力を持っており、もしかするとその本来所属する文脈と世界観よりも長く生き残って人類を触発しつづける、そのような可能性を持ったイメージなのではないか? 要するに、〈天使〉は、すでに(あるいはいずれ)その大いなる翼を震わせながらヘブライズム的世界観からの飛躍を始めている(あるいは始める)のではないか?・・・と、思うのだ。
その意味では、神なき世界にも〈天使〉は残る、とでも言うべきだろうか。だが仮にそうだとして、そのような世界で〈天使〉がなお天使であり続けるためには、人間の歴史とは切っても切れない、あの〈救済〉という観念との関係だけは失われることはないはずだ。たとえ〈救済〉の意味内容は変質したとしても、だ。(もしどのような意味でもこの観念との関係を失ってしまったなら、背中に羽の生えた人間など、ただの珍妙な鳥人間になってしまうだろう。)
だとすると、僕らが現代において抱き得る〈天使〉のイメージは、どのように〈救済〉の観念と関係し得るのか。そして僕らと〈天使〉との関係は、そこではどのようなものであり得るのか・・・なんてことを、ついつい真剣に考えてしまうわけだ。
宗教的な信仰心をほぼ持たない一人の人間が、何か神妙ぶってこのようなことを考えてしまうのは、僕が生まれる少し前に撮られた一本の映画、それを観ているとき、その内部に包み込まれるように過ごした静かな映画的時間のなかでのことであった。その映画とは、ヴィム・ヴェンダース監督による『ベルリン・天使の詩(Der Himmel über Berlin)』である。
この映画は、かつてはもっと強大であったろうにいまはすっかりやつれてしまった、僕らが生きる時代の〈天使〉の姿を描いている。いや、それだけではない。同時に、僕らの時代だからこそ持つことのできる新たな〈天使〉のイメージをも与えてくれるのである。そこで、ヴェンダースの監督としての作家性や本作の制作背景、断片的なストーリー構成などについてはまた別の機会に考えることにして、今回は本作の〈天使〉のイメージを注視することにしたい。
ベルリン・ただよう廃墟の記憶
本作『ベルリン・天使の詩』が最初に公開されたのは、まさに舞台となるベルリンで東西を分断したあの「壁」が壊される直前の1987年である。とはいえ、画面に映されるのは、ひたすら80年代のベルリンというわけではない。少なくとも、それだけではない。画面には、繰り返し何度も、廃墟となったベルリンが、第二次世界大戦で崩壊した死屍累々のベルリンの姿が、挿入されていくのだ。まるでベルリンという都市のそこかしこに、重苦しい過去へと通じる暗い穴が開いているかのように。
廃墟となった過去と「いまここ」が直結しているような、このベルリンを、後ろで髪を結い、黒いロングコートに身を包んだ〈天使〉たちが見つめている。彼らはさまざまな場所にいる。彼らの耳には、人間の心のなかで思っていることがそのまま聞こえてくる。彼らの眼には、世界はモノクロに見える。しばしば〈天使〉仲間で会って、最近見聞きしたものを教え合い、人間存在への愛を語ったりもする。〈天使〉たちは図書館を愛している。図書館には数多くの〈天使〉がいる。人間の耳に流れ込む静寂とは裏腹に、彼らには本を黙読する数多の声が聞こえている。
人間がただただ日々を安らかに過ごしているわけではないように、〈天使〉たちも人間の心の声に包まれて安らいでいるだけではない。「ねばってもどうせ破滅だ/親に見はなされ、女房に裏切られ/友達はいないし…」と絶望している中年男性が電車の席に座っている。本作の主人公・天使ダミエルがその男に優しく額をつける(演じるのは、『ヒトラー〜最期の12日間〜』2004年ではヒトラーを熱演したブルーノ・ガンツだ)。すると、男は、隣にいる天使の存在に気付くことのないまま、たちまち「まだ大丈夫さ」と気力を回復する。秘かな、そしてほんのささやかな〈救済〉というわけだ。
ところが、このささやかな〈救済〉を、〈天使〉たちは必ず成功できるというわけではない。彼らは、もはやそのような力を十分に持っていない。屋上から飛び降りて自殺しようとしている若者を、主人公の親友・天使カシエルは救おうとするが、結局、若者の自殺を止めることはできない。若者は飛び降り、その最期の心の声に耳を傾けながら、カシエルは悲痛な、しかし誰にも聞こえることのない叫び声をあげる。
本作では、さまざまなベルリンの人びとが〈天使〉の視線から断片的に描かれていくが、そこに一応の筋を与えるのが、ダミエルが〈天使〉としての悠久の時間に生きることをやめ、限られた生を生きる人間へとなることを決めて、ある一人の女性に、サーカスで背中に羽をつけて空中ブランコ乗りをやっていた女性に会いに行く、という物語である。しかし、この筋は、本作のあらすじと呼べるほど強調されてはいない。あくまでベルリンという都市、そこに生きる人間たち、彼らの心の声こそを〈天使〉の視線から断片的に描くというところに、この映画の主眼はある。
過去と現在が瞬間的に結びつき、廃墟となって現れる都市を見つめる〈天使〉たち。絶望する人間たちを救おうと手を差し伸べるも、もはやわずかな〈救済〉の力しか持っていないがために必ずしも助け出すことができるわけではなく、ただただ人間たちのあり様を見つめ、彼らの心の声に静かに耳を傾ける〈天使〉たち――このようなうらぶれた〈天使〉の姿を観ると、ヴァルター・ベンヤミンという名を知っている者であれば、すぐにその名を想起するに違いない。実際にも、本作が描く〈天使〉は、監督本人が名を挙げているライナー・マリア・リルケのほかに、かつてベンヤミンによって語られた〈歴史の天使〉のイメージをそのモティーフの一つにしているのだ。
ベンヤミンの〈歴史の天使〉
1892年、まさにベルリンに生まれた思想家ベンヤミンは、そのユダヤ系の裕福な家庭に育った幼年期をしばしば幸福な記憶として語っている。「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代(Berliner Kindheit um neunzehnhundert)」(最終稿1938年)と題された彼の自伝的エッセイでは、まるで冬の日のガス灯のように優しくぼんやりと灯るさまざまな幸福のイメージ、そしてときには親戚の家の薄暗い廊下のようなしっとりとした不安のイメージが、幼い頃の記憶のなかに沈澱した都市のなかで居場所を与えられていく。「これらのイメージからは、少なくとも、――そう私は希望するのだが――ここで話題となっている人物が、その幼年時代には恵み与えられていた庇護された安らかさを、のちにどれほど深く断念することになったかが、充分感じ取れるだろう」(同上、浅井健二郎訳『ベンヤミン・コレクション3』所収、ちくま学芸文庫)。
破局が訪れる――しかも人生のなかで訪れる個人的な挫折などといったものではなく、時代そのものを規定するような歴史的な破局が。20世紀半ば、ヨーロッパで「ユダヤ人」として生きたあらゆる人間に降りかかったのと同じように、ナチスの台頭とユダヤ人排斥の嵐は、ベンヤミンにもまた襲いかかった。1932年、翌年のナチスによる政権獲得を用意したこの年は、ベンヤミンにとっても決定的な意味を持った。実際に、上で引用した「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」という作品も、「一九三二年に外国にいたとき、私には、自分が生まれた都市に、まもなくある程度長期にわたって、ひょっとすると永続的に別れを告げねばならないかもしれない、ということが明らかになりはじめた」という悲哀に満ちた一文から始まっていたのであった。ベンヤミンは、この作品の最終稿を書きあげた2年後の1940年、ナチスから逃れる途上、絶望のなかで自殺する。
ベンヤミンの書き残した数あるテクストのなかでも、おそらくは最も引用されてきたであろう「歴史の概念について(Über den Begriff der Geschichte)」(1940年頃)は、19個のテーゼからなる小品で、彼が最期に残した「遺稿」と言ってよいものだ。そのなかの第9テーゼに〈歴史の天使〉は登場する。彼はここで、自身が所有していた、画家パウル・クレーによる「新しい天使(Angelus novus)」と題された作品に言及している。ベンヤミンはこの絵を手に入れて以降、戦火のヨーロッパをともに放浪しながら、たびたびこの絵を見つめ、ときにはこの絵の〈天使〉をモティーフに筆を走らせてきた。
この第9テーゼは、そのシリーズの最後のものとなる。「この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える」と、ベンヤミンは語り出す――。
その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつの破局(カタストローフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。
【ベンヤミン「歴史の概念について」、浅井健二郎訳『ベンヤミン・コレクション1』所収、ちくま学芸文庫】
僕らの社会が「進歩」と思っているものに、〈歴史の天使〉は止まることを知らない破局を見てとる。しかし、ただ見ていることしかできない。この無力な〈天使〉のあり方に、ベンヤミンは明らかに自身を重ねていた。そして、このテクストに触発されて『ベルリン・天使の詩』を作りあげたヴェンダースもまた、きっといくらかは・・・。
(つづく)