被写体の鳥たち:写真集『フクロウ URAL OWL』の魅力

宮崎学の写真集『フクロウ URAL OWL』(1989年)は、フクロウという繊細で雄大な野鳥の魅力を最大限に引き出した傑作である。しかし同時に、最近の野鳥写真界隈は撮影することの困難に向かい合っている。これからの野鳥撮影はどうなるか、野鳥撮影の歴史にも触れつつ考える。

Written by natsu

ある写真家が見つめたフクロウ

2021年の夏、写真家の宮崎学氏の個展「イマドキの野生動物」が東京都写真美術館で開催された(以下の参考リンクを参照)。宮崎氏は、これまで生き物の生だけでなく、死後の経過をまとめた写真集『死-Death in Nature-』(1994年)など、生物のリアルと向き合った写真を多く残してきた。

他方、地元である長野県でフクロウを追う写真家としても活動しており、代表作に写真集『フクロウURAL OWL』(1989)がある。

動物写真で初めて土門拳賞をとったこの写真集は、残念ながら現在は絶版。最大の特徴は、夜行性で臆病(繊細)、人が近づくと姿を隠してしまうフクロウの素顔を捉えるため、3年という月日をかけながらフクロウとの距離を縮め、さらに自作のロボットカメラを営巣の撮影に活用したことだった。遠距離からモニター映像で確認し、スチルカメラをリモコン操作するという技術は、デジタルカメラが普及し始めたばかりの当時としては画期的な手法だったといえる。

【出典:宮崎学『フクロウURALOWL』(ハンディエディション)メディアファクトリー、12-13p。そこには次のようなキャプションが付いている。「フクロウの飛翔 秒速10メートルで飛ぶフクロウの翼の動きを見ることは不可能だ。1秒間に8回のマルチストロボが、その動きを見せてくれた」。】
【出典:同上、24-25p。「フクロウの水平飛行 消音装置により、羽音はしない」というキャプションが付いている。このように、この写真集はページをめくるたびに、暗闇からフクロウが現れてくる。】

こうしたこだわりの技術で撮影されたフクロウは、この写真集を手に取った者を、まるでその鋭い爪で捉えられた獲物のように、その魅力で捉えて離さない。いや、誰よりもフクロウの魅力に深く捉われたのは、宮崎氏自身であったのだろう。この写真集に付けられた文章が、そのことを伝えている。

フクロウほど魅力があふれる鳥はいない。まるい顔に、まんまるの眼。この顔は表情がゆたかで親しみ深く、文句なく知的である。顔だけではない、フクロウは姿もいい。ふわふわの羽毛につつまれた丸みのある形だが、なんとも愛らしい。それでいて、猛禽類がもつたくましさも感じられる。…その生活のすべてが神秘のベールにつつまれていて、その生き方を私たちに想像させるだけである、これもまた不思議な魅力である。

同上、2pの「猛々しく、愛らしく」より。

こうして、漆黒の闇から現れ大きな翼を広げたり、ネズミを捕獲したりする姿などフクロウらしい力強い写真の数々が並べられるのがこの写真集だ。しかし、この写真集のもう一つの見どころは、フクロウが抱卵してから雛の巣立つまでを追うドキュメンタリーである。

【出典:同上、44-45p。キャプションには「”いのち”が育つ巣穴の1か月 卵がフ化してから最後のヒナが巣立つまで、ほぼ一カ月かかる」とある。このように、巣が空になる瞬間までが記録となっている。】

樹木の穴の中でのフクロウの様子は、簡単には観察できないものだ。なぜ巣の中の様子を撮ろうと思ったのか、宮崎氏は次のように説明している。

樹洞のなかでのフクロウのありのままの行動は、私たち人間にとっては想像だけの世界であって、正確にはだれも見たことがないからである。“知らない世界を見てみたい”これが私の写真家としての基本姿勢であり、そのための撮影技術を磨くのはあたりまえのことであった。だから、ハイテクやメカ開発はそれにともなう撮影技術の延長戦にあるのである。

同上、94p。

生物学的資料価値があるのは当然のこと、宮崎氏が撮ってこられたような生物写真の魅力の一つは、人間とは全く異なる姿でありながら、人のそれと似た営みをする生き物のリアルな姿や行動を目撃することで感情が揺さぶられることだと思う(以下の参考リンクで、宮崎氏の作品の一部を垣間見ることができる)。

しかし、この写真集刊行以来30年、カメラ機材の発展やSNSなどの普及とともに、生物写真の在り方も大きく変わってきた。特に身近な野生生物の代表格である野鳥については、実はというと、この写真集に収録されているような写真を公に発表すること自体が近年難しくなってきている。それはなぜか…?

そこで以下では、その理由とともに、日本における野鳥写真の始まりを振り返りながら、これからの生物写真の在り方を考えてみたい。

日本で最初の野鳥写真家・下村兼史から「撮影マナー」が出てくるまで

最初に “野鳥写真”を撮影した日本人は野鳥愛好家で研究者でもあった下村兼史(1903-1967)とされている。彼は1920年代当時に日本に普及したガラス乾板用の大型木製一眼レフカメラを使用し始め、その後は野鳥の生態記録を多く残したほか、鳥を被写体とした風景写真も多く撮影した写真家である。

【2018年開催「100年前にカワセミを撮った男 下村謙二展」、愛用していたとされるグラフレックスと同型の実機展示。筆者撮影。】

当時のカメラは、いくら高価であっても、シャッター速度は最大1/1000秒(明るさ次第ではあるが、今日の鳥の撮影では歩き回る鳥で1/250秒、飛翔や羽ばたきには1/2000秒以上が推奨とされている)。カメラの運搬に約5kg、加えて木製三脚とガラス乾板を割れないように持ち運ぶ。当然ながら撮影できる枚数は限られており、遠隔操作する無線などはない。

そうした限られた条件の中で、人気に敏感な野生の鳥を撮影するために、下村氏は工夫を凝らした。藁で撮影用ブラインドを制作したり、カメラを置いたまま遠くからシャッターを押すための独自の装置を用意したりした(この装置で初めてセルフィ―を撮った日本人とも言われている。)。その結果、野鳥の姿を近くで捉えることに成功した最初の人物とされているのである(以下の参考リンクも参照)。

さて、それから約100年余り、カメラの軽量化と技術向上、携帯搭載カメラの普及により野鳥写真のハードルは下がり、誰もが撮影に挑戦できるようになって、たしかに野鳥撮影は簡単になった。

しかしその結果、やがて被写体である鳥と人の距離感が問題視され始めることになる。繁殖中や子育ての様子をおさめるため、録音した鳴き声で誘いこんだり、縄張りに近づいたり、ストロボ光をたくといった行為が野鳥のストレスとなり、繁殖の妨げになることが懸念され始めるようになっているのだ。

また、特定の鳥を撮影したいがために私有地へ侵入したり、三脚で公園を占有したりする人もいる。こうした状況から、90年代後半、各国の野生動物保護団体やカメラメーカーで「野鳥と人に配慮した撮影マナー」を提言していく流れとなった。以下は、アメリカの野鳥保護を目的とした団体が出している提言からの抜粋である。

“Nesting birds are particularly vulnerable and need extra considerations…Never use drones to photograph or record video footage of nests. They can cause injury and stress to the nestlings and parents”

営巣中の野鳥は特に敏感であるため、より配慮が必要である。…撮影目的でドローンを使用しないこと。雛や親鳥を傷つかせたりストレスを与える可能性がある。

“Show respect for private and public property, and consideration for other people”

私有地・公共の場では他の人々に配慮すること

“Be thoughtful about sharing and captioning your bird photos/videos, whether for print, online, social medias.…Was the bird baited for the purpose of scientific and the photo/video taken under the strict supervision of researchers? If so, it’s important to explain as much.”

印刷物・オンライン・SNSに拘わらず撮影した野鳥の写真、ビデオを共有するときに配慮すること。…野鳥が科学的な目的で餌付けされたのか、写真は研究者の厳密な監視のもとに行われたかどうか。そうした十分な説明をすることが重要である。

全米オーデュボン協会(アメリカの野鳥保護のほか、自然環境保護を目的とする団体)の撮影マナーの提言(https://www.audubon.org/get-outside/audubons-guide-ethical-bird-photography)。和訳は引用者。

また、最近ではSNSで珍鳥の出現情報を流すことでカメラマンが群がり、近隣住民にとって不愉快な状況になって、クレームに発展するケースも増え、情報発信に関連するマナー事項も追加されている(ポケモンGO!の状況に似た様相だ)。

また、並行して写真コンテスト等での選考基準もマナーに対応し、撮影マナーに抵触する/したと考えらえる写真を除外する傾向が高まっている。

【公園にて、茂み奥のカルガモの親子の姿に立ちどまり携帯などで撮影する人々。餌付けにより、警戒心が薄くなっている。筆者撮影。】

近づくと飛び立ってしまう手の届かない存在であり、人には模倣できない美しい羽の色と声を持つことで神聖視されてきた野鳥。人がカメラで野鳥のリアルな姿を追い続ける姿勢は、下村氏の時代から不変であるといえる。そうして記録ないし芸術の手法としての写真を考えたとき、あえて表現を抑えるマナー提言の方向性に違和感を覚える人もいるだろう。

また、実はマナーの定義についても議論がある。人が近づくことで野鳥が警戒しストレスを抱えるという事実を根拠づける科学的な研究はまだ少なく、種によって度合いが異なりストレスを感じない野鳥もいるため、絶対的基準がないからだ(たとえば、ツバメやドバトは人前で育雛するが、カラスは周囲の状況には繊細である)。現在の提言は、どちらかというと写真公表によって人の撮影欲求を掻き立てることを防ぐという意味合いが大きいといえる。

ここで、改めて宮崎氏の「フクロウ」を眺めてみる。被写体の鳥を警戒させずに撮影する…という点では、宮崎氏がフクロウに照明機材と自身の存在を慣れされていくため環境改変に年月をかけた過程や、ロボットカメラの技術を用いて営巣の様子を撮影した方法は理に適っていたといえる。しかしそれでも、現在の提言に照らし合わせれば、それらの写真は科学的な目的だけではない上に、環境改変はマナーに抵触したものと判断され、公表は難しかっただろう。

宮崎氏がこの写真集のハンディエディションで追記した「あとがき」は、こうした現状と照らし合わせると印象的であった。

このように、時代と共に機材面での変化はあったが、自然界に対する私たち現代人の心の変化は恐ろしく後退してしまったように感じられてならない。それは「フクロウURALOWL」という写真集が出ても、その後の類似作品の発表が続いてこなかったことである。

前掲、108p。

宮崎氏が懸念するほど、人々の生き物に対する関心は失われているだろうか。生息地の減少に比例して未知の存在となる野生の鳥たちと、その姿を追いかける人々。この両者の境界線の定めるマナーの存在は、被写体の鳥と人の距離を保つために存在するが、その結果人々の鳥に対する関心を失うリスクを伴う両刃となっているのかもしれない。

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