ある日、喫煙所で立ち聞きした衝撃の事件。そこから筆者は、いくつかのドラマ作品や出来事に思いを巡らせる。都市の日常に秘かに染み渡る暴力の影。遍在するアシッドが消えない傷を残していく。都市に現れつつある新たな暴力の形態について報告する走り書き的エッセイ。
Written by 東亜茶顔
エクセの喫煙室で
乾いた冬のある日、新宿のエクセルシオールカフェで行き詰まる作業にイラつきながら、狭い喫煙室へと入っていった。チェのグリーンメンソールに火をつけ、どうやって原稿をやっつけようか思案していると、一人は金髪、もう一人は黒髪の男性二人組が入ってきた。当時、よく見かけた男たちで、(人のことは言えないが)昼間からカフェに入り浸っており、普段喫煙所で聞く話からして、歌舞伎町の夜職に間違いないだろう。
その日も彼らは仕事明けか起き抜けのけだるいムードを漂わせつつ、マルボロだかメビウスだかを吸いながら仕事の愚痴を言い合っていた。どこの誰が指示を聞かないだの、誰がバックれただの、飛んだだの、新宿界隈ではよく聞く話題なので聞き流していた。
そのうち、タバコも吸い終わったのでそろそろ出ようかと思った頃、金髪の方が話を始めた。
こないだ○○でキャッチやってる○○さんに誘われて上野に行ったんですよ。
狭い喫煙所でこれまで何度も彼らの話を聞かせれていた身にとって、彼らが歌舞伎町界隈以外の話をするのを聞いたのが初めてだったので、思わず足を止め、2本目のタバコに火をつけた。
で、上野で働いてる○○さんの知り合いと合流してまあめっちゃ飲んで。途中で帰ろうかと思ったけどまあ帰れないじゃん。そっから朝までコースになって、居酒屋からキャバクラ、その後その知り合いの人の馴染みのとこでずーっと飲んでて。正直クソエグっててキツいなーと思いながら、始発くらいまで飲んで、じゃあ始発で帰るかってなって駅行ったのよ。それでボーッとしてたら、急に叫び声が聞こえて。
バッて見たら、俺らくらいの歳の奴が顔押さえてうずくまりながら叫んでて、それを別の男が見てるわけ。最初殴られたのかなって思ったんだけど、血とか出てないっぽいし、なんか煙っぽいの出てるわけ。そしたら○○さんが「おいやべえぞ!何してんだ逃げろ!」って叫んで、まあ全力で走ったよね、駅と違う方向に。
走ったせいでマジエグったんだけど、○○さんも知り合いも「あれはやばい」って走りながら言ってて。「なんすかあれ?」って聞いたら、どうも○○さんの知り合いがその瞬間見てて。喧嘩っつうか詰められてるみたいな感じだったっぽいんだけど、詰めてる側が何か液体かけてたって。喧嘩とかよく見るけど、あんな手使う奴はマジやばいし、○○さんそいつと目が合ったらしくて、まあ速攻現場離れなきゃってなったらしい。
この話を聞いている間、思わず吸うのを忘れていたタバコは、半分ほど灰になっていた。慌てて灰皿に落として2、3回吸っている間に、「クソやばいね、それ」と言いながら二人組は席へと戻っていった。追いかけるように自分も席に戻ったが、その後二人組は各々の作業なのか暇つぶしなのか、特にその話題を続ける様子はなかった。こちらも作業に戻っているうちに、出勤時間にでもなったのか、夕飯を食べに行ったのか、彼らはいなくなっていた。
アシッド・アタックという言葉を知ったのは、その後すぐのことだった。
ドラマ『トップボーイ』のなかで
アシッド・アタックという言葉を知るきっかけになったのは、イギリスのドラマ『トップボーイ』だ。2011年にチャンネル4で始まり、2シーズンで打ち切られたものの、カナダ出身の人気ラッパーのDrakeが放映権を買い取った。2019年にNetflixでシーズン3が放映され、新シーズンの制作も決定している。
ストリート出身のラッパーをメインに、演技経験のない素人も多いキャスティングで、ひたすらリアルにこだわってドラッグディールをめぐる悲喜劇を描き出す名作だ。大注目のラッパーLittle Simzも主人公と良い仲になるシングルマザー役で参加している(Little Simzについては下記記事も参照)。
アシッド・アタックが出てくるのはシーズン3で、ラッパーのDave扮するモーディーが、同じくラッパーのKano扮するサリーに、刑務所内でアシッド・アタックを受ける。2人は異なる団地を根城にするギャング同士で、麻薬ビジネスをめぐって対立関係にある。
余談だが、2人とも実力派ラッパーで、Kanoはグライム黎明期から活躍していて、Daveは新進気鋭の若手だ。このあたりの立ち位置も、ドラマのギャング抗争に演じるラッパーの世代間闘争のニュアンスを含ませているわけだ。
さて、『トップボーイ』の話に戻ろう。さすがに刑務所内なので、洗剤か何かを混ぜたものを使っている描写だったが、そもそも受刑者がこんなものに容易に近づけるのはセキュリティが甘いだろ、というツッコミはある。また、サリーが釈放直前という設定もあってか、刑務官による追及も、証拠や目撃者が出なかったとしてあっさり終わる。このあたりはリアリティにこだわりつつも、ドラマ的な演出だ。
染み渡るアシッド・アタック
だが、アシッド・アタックがイギリスで社会問題になっているのは事実だ。犯罪組織がらみの脅迫などで使われるらしい。ドラマよろしく、ものにこだわらなければ入手も簡単で、証拠も出にくいからか、銃やナイフを使うより刑期も短くなりやすい。
さらに、元大英帝国下にあったインドやパキスタン、バングラデシュなど南アジア圏でも問題となっている。こちらでは、どうやら女性の被害が多いらしい。結婚やら家庭やら、あるいは人間関係やらのトラブルのはてに、女性を醜くせんと男たちはアシッドをぶちまけるようだ。
日本を見れば、2021年8月24日、白金高輪駅で男が硫酸をかける事件が起きたことは記憶に新しい(https://bunshun.jp/articles/-/48250)。どうやら犯人は無口で大人しいオタク、といったタイプだったようだが、思い込みや執着心が強くキレやすい部分があったという。
詳しい事情はわからないが、被害者男性は過去に犯人と些細なトラブルがあり、職場近辺でつきまとわれたらしい。正直、動機は報道を見ていてもよくわからない。凶器に硫酸を選んだ理由は農学部出身という犯人の経歴と結びつけられて報じられるが、たとえ思い込みであれ、怨恨を晴らすためにアシッド・アタックを選んだのはなぜだろか? いまアシッドは、新たな暴力の手段として世界中の都市に遍在しはじめているのではないか?
残される傷
アシッドは、入手の容易さも相まって誰でも使えてしまう。距離感を考えたら、刃物よりも使う時の恐怖心は薄いかもしれない。だが、アシッド・アタックのミソは、消えない傷を残すことだ。一度当たれば、皮膚はケロイドのように爛れ、失明や体内へのリスクすらある。
暴力をふるう手段はさまざまあるが、殺害よりも、醜い傷や障害を残すことを狙う点で、アシッド・アタックは特徴的だ。現代人は、多少の知識と度胸さえあれば、容易に他人に傷を残せる。
ある暴力の手段が手元にあると、どこか暴力的な気分になったり、実際にその暴力をふるってみたくなったりする。暴力はそれをふるうための手段を介して触れたものに染み渡り、傷を残していくのかもしれない(アシッド・アタックの現状について詳しく知りたければ、たとえば以下の記事が詳しい)。
駅のホームで帰りの電車を待ちながらこの記事を書きつつ、ふと、いつも外出時に持ち歩くペットボトルに目をやる。寒いし乾燥していたあの日を思い出したからか、妙に喉が渇く。少し酸味の効いた味が喉を伝って染み渡る。
少し水分を取りすぎたのか、催してきた。駅からの帰り道にある公衆便所に入ると、放置されたスタバのカップにどうやら液体が残っているようだ。それにしても、このむせ返るような臭いはどこからくるのだろう。
そういえばアタックはしていなかったが、最近見かえしていたNetflixドラマ『ブレイキング・バッド』でも、死体をアシッドで溶かして隠蔽しようとするくだりがあった。たしかあの時使った一連の道具や薬品は、一介の高校教師と職もないようなヤク中の2人で十分用意できる代物だった。ホームセンターで買い物の連絡をするシーンが脳裏をよぎる。アシッドでシチューにした死体は、トイレに流していたと思う。
この記事も書き途中だが、そろそろ、編集者とのミーティングの日が近い。散々ダメ出しされたから、コロナは気になるが、電話より直接会った方が話は早そうだ。その前に今日は買い出しに行かないといけない。家には足りないものがたくさんある。
流しにペットボトルの残りを捨てると、少し泡立ってシンクを流れていった。