兵庫県・尼崎にある園田競馬場。数年前に新年早々そこを訪れた筆者は、どこか懐かしいノスタルジックな空気という以上の何かを感じとる。窮屈な「当たり前」が花粉のように広がる私たちの世界を、思わぬかたちで異化する「特区」の力がローカルな競馬場にはあるのではないか? 競馬場から外界へと駆け出す異端のエスノグラフィ。
Written by 川上修生
煙草ひとつとっても
2018年。あの時は新年早々、園田競馬場に行ったところから一年が始まった。馬始めの結果などさておき、ときめいたことをいくつか思い出して記そう。
まず、第一に、入場した途端に感じる場内のひなびた雰囲気である。
これぞ地方競馬!というにふさわしく年季の入った場内は、すでに30年を数えていた当時の平成の世にあっても、昭和ノスタルジックなものを伝える歴史遺産とまで言って良いかもしれない。
そのような空間であるがゆえ、慣習やルールも遺産のように残されている。
このご時世、街中や娯楽施設でも、狭い狭い喫煙エリアが設定され、それ以外の場所は禁煙というのが通例となっている。
しかし、ここ園田競馬場ではそれが全くの逆。
競走馬に近いコース前のスタンドやパドックでは禁煙だが、それ以外の場所は喫煙可、というより喫煙のお咎めなしであった。
同じ地方競馬場でも、「クリーン」な場内を目指し、「標準化」した空間づくりを進める大井競馬場では、ここ数年の場内大改修で喫煙お咎めなしのエリアは一気に減ってしまった。
ここ園田競馬場こそ、「中央」の推進する施策、空気感から距離おいた、正真正銘の「地方」競馬場だな。
娯楽の王手飛車取り
なんて思っていると、今度は場内の隅っこのほうで、ダンボール(人によってはその上に座布団)を敷いてその上に正座やあぐらで、将棋をしているおっちゃんたちに遭遇した。
ときめいてくらくらした。
しかも、足の付いた立派な将棋盤を持ち込んでいる。そして、顔なじみと思わしき、対局を見守るおっちゃんも数人いる。
100円の入場料を払って、何しに競馬場に来たんだ…と思いかけたが、競馬に飽きたら将棋、将棋に飽きたら競馬と、娯楽をローテーションできるのは意外と快適なのかもしれない…。昔、オリンピック直後の北京を訪れたときに、多くの人が公園で囲碁のようなものを打っていた光景を思い出した。
どちらにしても、関西の将棋文化の根付き方は関東のそれとは比にならない。
こちらの光景も、私のような園田のファッキンニューガイは驚いたが、周囲の人は特に気にしていない様子。もちろん、主催者からのお咎めもない様子である。
可笑しさでもって、「おかしさ」に気づかせくれる場所
帰り際、園田競馬場の掲示物やパンフレットの類などに目をやると、最寄り駅からの行き来には無料の送迎バスを利用するよう呼びかけているのが目についた。
最寄りの阪急園田駅から20分ほど歩かねばならないため、無料の送迎バスはファンにとってもありがたい。
しかし、裏を返せば、それは、大挙して駅と競馬場間の道を歩かれると困るという、近隣からの苦情に対する配慮なのかもしれない。
まして、我々の目的地は、時代の進行を問題にしない、ある意味で「特区」である。特区のテンションを外界に持ち込むな、ということなのか。
それでも園田競馬場は特区のままでいい。そこでは、競馬場外で出来上がりつつある常識のようなものは通用しない。
それは、ある意味、競馬場の外の世界のおかしさや脆さを気づかせてくれる場所でもあるということだ。
ただ野外でおっちゃんたちが将棋に熱中している光景でさえ物珍しく感じてしまうのは、自分たちの街の公園や路上でそんなことが起こりっこないからだろう。
でも、将棋ひとつに興じることのできない公共の場所って一体?
あちらこちらに立てられている「人に迷惑をかける行為はやめましょう」という看板を前に、考え込まざるをえない。
とりあえず、日常生活に疲れたり、嫌になったりしたときは、ぜひローカルの競馬場に行って欲しい――競馬場がその外の世界に飲み込まれ、一体化してしまう前に。