めちゃくちゃ映画邦題記

日本で外国映画が公開される際、時折、めちゃくちゃな邦題が付けられることがある。「そんな邦題で本当にいいの?」と思われるような邦題作品を取りあげる本記事は、一部作品の邦題の付け方を批判するというよりも、斜にかまえて楽しんでしまってもいいのではないかと訴える。

Written by イサク

前口上

洋画を日本で公開する際、日本のマーケティング担当が邦題というものを付ける。これがなかなかに難しい作業だということは想像に難くない。「どのような邦題にしたら、お客さんがより来てくれるだろうか?」「どの程度の『意訳』なら、ファンから文句がでないだろうか?」、悩みは尽きないだろう。一つの事例として、たとえば『アルマゲドン(Armageddon)』(マイケル・ベイ監督、1998年)のように、原題をそのままカタカナにして問題なさそうな場合は、何一つ悩む必要はない。だが、たとえば『Apocalypse Now』ならいかがだろう? そのまま『アポカリプス・ナウ』とか、少しひねって『黙示録のとき』などと付ければよいだろうか? いや、いまいちピンとこない――はたしてこれは、あの、『地獄の黙示録』(フランシス・コッポラ監督、1979年)となるわけである。なかなか味わいのある良い邦題ではないだろうか? 意味はよく分からんが。

さて、かくの如く、苦労の絶えない(だろう)邦題問題なのであるが、なかには、なぜそのような邦題にしたのか、全く訳が分からない代物もある。いや、正直に言おう、結構な数ある。完全に余計に思える手の加え方や、むしろ、作品そのものを貶めてしまっているんじゃないかと思ってしまうほどのものまである始末。責任者を呼び出して、説教の一つでも食らわしたくなる――そんな気持ちになったことのある映画ファンは、この列島にかなりの数いるのではなかろうか? 

とはいえ、本記事では、顔を真っ赤に、怒り心頭、一刀両断…なんて騒ぐのではなく、変な邦題を肴に一献傾ける程度の余裕を持ってのぞみたいものだ。あくまで、この記事の筆者が首を傾げただけのこと。なかなか上手くいかない世の中に、一つ映画の邦題でもクサして楽しもう、というのが今回の趣向である。

んー、それでよかったの?編

ディズニーのアニメ映画などは、原題から大きく変えた邦題が多いことは知られている。いいものもあればクソのようなものもあるわけだが、まずはそういったクソ邦題界隈における有名な話から紹介しよう。

2004年に、アメリカである青春コメディ映画が話題になった。ジャレッド・ヘス監督『Napoleon Dynamite』という題名のその映画は、田舎のパッとしない高校生たちの青春を見事なコメディに昇華しており、アメリカでは共感する者多数、カルト的な人気にまでいたった作品だ。主人公の冴えない高校生の名前が、なんと派手なことにもナポレオン・ダイナマイトであって、それがそのまま原題になっているわけである。

ところが、この映画は、日本で劇場公開されることはなかった。日本では海外コメディは、なかなか劇場公開されないものなのだ。とはいえ、それはまぁいい。問題は、DVDとして販売された際の邦題である。その名も『バス男』である。これは、若い世代では知らない方もいるだろうが、当時日本で流行し、漫画、映画、ドラマなどにもなった小説(というか、ネットの匿名掲示板のあるスレッドまとめ)『電車男』にあやかっているのである。映画のなかでナポレオンがスクール・バスに乗るシーンは、確かにある。恥ずかしいことにも、高校生にもなって小学生たちとスクール・バスで学校に通うハメにあっているのだ。ただ、そのような描写があるというだけでそれ以上の何物でもない。おそらく主人公が『電車男』と同じく「オタクっぽい」ということから、このような邦題が付けられたのであろうが、これでは間の抜けた二番煎じでしかないし、作品への愛も微塵も感じられない――そういった多くの批判を映画ファンから食らった結果、邦題は『ナポレオン・ダイナマイト』に戻される運びとなったのだ。

このように、日本で作品を展開させていくのが仕事の人たちが、思慮の浅い邦題を付けてしまって作品を傷つけてしまうケースは他にもある。特に僕が印象深く思い出すのが、アルフォンソ・キュアロン監督の『ゼロ・グラビティ』(2013年)である。この作品では、宇宙空間に投げ出されるという極限状態への恐怖が、ディティールの豊かな演出と驚くべき映像クオリティで描かれている。端的に言って傑作である。

この映画の最後、主人公ライアンは、どうにか地球に帰りつき、着陸した湖から地面へと這い上がり、地面の存在を噛みしめる――その瞬間、画面に映される「Gravity」の文字。何を隠そう、本作の原題は、この『Gravity』なのである。視聴者は、最後のこの瞬間に重力という巨大な力、それに包まれているという安心を感じることとなる。原題は、その瞬間に上手く当てられている。「あっ、この感動のための、このタイトルなんだ」とそこで感得するのである。

ところが、宇宙空間のシーンが大半を占めるという理由からだろうか、邦題は真逆のものにされてしまったのだ。このような作品の場合、タイトルそのものが演出のなかに組み込まれている。何を考えてのことか、邦題を付けた者たちは、そのわずかな追加で作り手たちの意図を阻害してしまったわけなのだ。「Gravity」は宙に浮くしかない。

そのサブタイトルいる?編

原題から邦題に変える際に、タイトルはおおむねそのままに、そこに新たにサブタイトルを付けるというパターンもある。そしてこの場合、特に近年は「足されてよかった」ということの方が少ない、と僕は思う。

たとえば、微妙なところからいくと、アカデミー賞作品賞などを受賞した、現代の名監督ポン・ジュノの2020年日本公開の作品『パラサイト(英Parasite)』は、ご存知のとおり、邦題では「半地下の家族」という副題が付けられた。これは、家族をテーマの一つにした作品であることを伝えてくれるものではあるが、やはり蛇足である気がしなくもない。また、低予算映画の名手ショーン・ベイカー監督による2018年日本公開映画『フロリダ・プロジェクト(The Florida Project)』は、フロリダのディズニー・ワールド近郊に住む若い母子家庭の生活を描いた名作。原題は、フロリダにおけるディズニー建設計画の開発段階の名前に由来するらしいが、もしかすると貧しさのイメージとつながる「project(公営団地)」の語感も意識されていたかもしれない。いいタイトルである。邦題は、そこに「真夏の魔法」という気の抜けた副題を付けた。余計である。

余計なサブタイトルを付けたというのとは少し違うが、2010年代を席巻した大人気シリーズ、マーベル・シネマティック・ユニバース作品でも邦題問題は生じた。一つは、タイカ・ワイティティ監督の原題『Thor: Ragnarok』(2017年)である。日本のマーケティングの方々は、この「ラグナロク」が日本人には分からないだろうと判断した(普通にゲームや漫画でも見かける言葉なので、最近の若者なら分かる人も多いと思うのだが)。そこで彼らが思案して付けたのが、『マイティー・ソー バトルロイヤル』である。これでは、劇中で描かれる「ラグナロク」の意味がまるで出てこない。おまけに、特にバトルロイヤル感の強い作品でもないのだから、いよいよ救いがない。

もう一つは、世界的に大ヒットしたジェームス ・ガン監督の大傑作『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(Guardians of the Galaxy)』(2014年)の続編で、原題はシンプルに『Guardians of the Galaxy Vol. 2』(2017年)という。ところが邦題はというと、「Vol.2」ではなく、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』となる。そもそも一作目は、世界的には大ヒットしたが、日本ではマーケティングが失敗して(と、やはり考えるしかないのだが)そこまでのヒットを記録できなかった。そこで続編が出た際、「Vol.2」というタイトルだと、ただでさえ一作目で失敗したのに二作目であることが明確なタイトルだと余計に客が集まらない…と考えたのだろう、「リミックス」などという言葉に置き換えられたのである。

だが、第一に、原題の「Vol.2」は、前作で登場した、ある重要な作中のアイテムに関連して付けられたものである。その関連を、「リミックス」という副題は、まるで星を包み込むようなエゴで台無しにしてしまっている。そして第二に、そもそも意味が分からないという難点がある。「リミックス」とは、ヒップホップやR&Bといった音楽ではよく使われる言葉であるが、それは一般に「再編集版」を意味すると考えてよい。なので、これだとまるで一作目の再編集版のようにきこえてしまうのだ。実際、僕も最初は、「Vol.2」の邦題だと気づかず、「一作目の一部劇中歌変更版、とかかな?」などと思った記憶がある。ひどい話だ。

他にも、たとえば『フォレスト・ガンプ/一期一会(Forrest Gump)』(日本公開1995年)の「一期一会」はウザくないかとか、あるいは『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男(Darkest Hour)』(日本公開2018年)は副題が説明的すぎてみっともないとか、いくらでも一言したくなる邦題サブタイトルは出てくるだろう。このサブタイトルの病は、多くの場合は、副題で変に説明的情報を盛り込もうとするところから生まれるように思う。結局、いつ頃からか付き出した、テレビのワイドショーやコメディ番組のゴテゴテとしたテロップと同じく、視聴者を馬鹿だと思っている振る舞い――ひいてはそう振る舞うことで、本当に視聴者を馬鹿者にしてしまう――の一種なのであって、要するに、現代という「分かりやすさ」時代の共通した心性に由来しているのではないだろうか?

だが、馬鹿にされていたとしても、そう腹ばかり立てる必要はない。変な邦題サブタイトル文化は、ちょっとした楽しみの機会をも、僕らに与えてくれているのだ。つまり、かつての邦画洋画の名作を素材に、新たに余計なサブタイトルを付けて楽しむことができるのだ。実際に、昔の映画タイトルは「分かりにくい」ものばかりだ。そこでたとえば、『羅生門〜行方不明の真相〜』なんてどうだろう? あるいは『タクシードライバー 男が拳銃を手にするとき』とか、『ワイルドバンチ バトルロイヤル』とか、『キューポラのある街〜純情もある街〜』などはいかがだろう?

楽しみは尽きない。

正気ですか?編

とはいえ、残念なことに、楽しんでばかりいるわけにはいかないケースもある。そこでは、日本のマーケティング側が邦題によって観客を馬鹿にするあり方はより激しいものになり、また作品そのものを貶めるあり方も一層深刻になる。そういった場合であると、邦題を付けた人間の顔がありありと浮かんでくるかもしれない――もしかすると、ニヤけた、物欲しそうな、間抜けた面として。

ここで一つだけ取りあげるのは、先ほども登場したショーン・ベイカー監督作品である。ベイカー監督の2012年の映画、原題『Starlet』は、ロサンゼルスに友人と愛犬とともに暮らす若いポルノ女優ジェーン――この役を巧みに演じる女優は、モデルとしても活躍しているドリー・ヘミングウェイで、彼女はなんと、あの小説家アーネスト・ヘミングウェイの曾孫である(!)――が、ひょんなことから、孤独に暮らす老婆セイディと知り合うことから始まる、まるで異なる世界を生きる二人の人物の交流物語である。泣ける、という作品ではないが、不思議と目の離せない美しい映画だ。そして物語でも重要な役割を果たす、ジェーンが飼う愛犬の名前が「Starlet」――売り出している最中の、のちの成功を予感させる女優、という意味もある――であり、それが映画のタイトルになっているわけだ。

さて、この『Starlet』という原題は、確かに邦題をただ『スターレット』とするだけでは何のことか分からない。SF映画と勘違いしてしまう者も現れるかもしれない。もっとも、このようなときにこそ、最悪、お得意のサブタイトルで説明式をしてもよいとは思うのだが、日本のマーケティングの人間はそうはしなかった。はるかに予想を超えるかたちで、この作品を「説明」したのである。すなわち、『チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密』――これが邦題となったのだ。

このふざけた仕事に対してどうにか推測を働かせてみるに、おそらくは日本の長寿ドラマ『家政婦は見た』(1983-2008年)、というか、その頃に流行っていたドラマ『家政婦のミタ』(2011年)によって再度注目を集めていた『家政婦は見た』を意識したのだろう(なぜひっかけようと思ったかはまるで分からないが)。そして、「ポルノ女優と未亡人の秘密」という副題は、いまだ無名に近い監督の作品を、どうにか煽情的なタイトルでもって手に取ってもらおうという親心(?)の産物なのだろう。しかし、このようなタイトルは、作品の雰囲気や思想にまるでそぐわない。ベイカー監督の作品は、常にまるで異なる世界に住む他者との関係が主題となっているが、そこでの他者との出会いと付き合いは、片方の消費しやすい、ステレオタイプのイメージを押し付けることとは真逆の営みとして描かれているのだから。

結局のところ、めちゃくちゃ邦題の問題性の根源は、まさにここにあるのではないか? 作品を他者との交流の場としてとらえず、たんに売り上げだけを、しかもしばしば的の外れた感覚から追及してしまうということ。その際、そのように決められた邦題が、日本列島の情報媒体ではずっとそういうものとして残ってしまうという側面を無視してしまっていること。要するに、この空間・時間の両面にわたる他者感覚の欠如が、このような奇天烈な業界を生み出しているのだ。

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