押井守が唱える「映画の時間」。この観点を受け取りつつ、筆者の好みに従って敷衍しながら映画を語り直すエッセイ。『2001年 宇宙の旅』や『ブレードランナー』、押井作品やジブリ作品の時間をめぐりつつ、時間の芸術としての映画を考える。できれば映画は映画館で観ておきたい。
Written by まひろ
押井守の映画論
『うる星やつら』や『機動警察パトレイバー』、『攻殻機動隊』などのアニメーション監督として知られる押井守には、映画評論家としての顔があり、その著作は映画というメディアの快楽を考える上で、ずいぶん参考になった。その中でも、「映画の時間」にまつわる押井の次の発話には、筆者自身が映画を愛好する理由を明確に言い当てられたような感慨がある。いわく、「『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』に流れる重たい時間というものは、映画じゃないと実現できない、僕が大好きな時間。『だから映画を見ているんだ。だから映画が好きなんだ』と気づく瞬間。映画が醸し出す、独特の映画のなかだけで成立する時間というのかな。これは映画だけに流れる特権的な時間だと思うよ」と(押井守『押井守の映画50年50本』、立東舎、2020年、119頁)。
「映画のなかだけで成立し、流れる特権的な時間」。映画を好む方なら少なからず首肯できる表現なのではないだろうか。わたしたちが映画に夢中になり、意識が画面の中に没入していくとき、映画の中の光景と映画を見ている自分の意識の区分があやふやになり、ただ画面を眺め続けることに集中する時間が、そこにはある。もちろん、全ての作品からそのような幸福な時間がもたらされるとは限らない。むしろ、映画に夢中になる前に睡眠という別の幸福をもたらす作品のほうが経験的には多いようにも思える。それでも、映画を愛好する者は、他に替えようがない「映画の時間」を求めて、また次の一本へと手をのばし、あるいは映画館へと足を運ぶ。本稿では、押井守の作品や映画論を端緒に、「映画の時間」がもたらす映画的快楽について考えていきたい。
「映画の時間」とはいかなる時間なのか
押井守が考える「映画の時間」とはいかなる時間なのか。実際の押井の語りをいくつか拾ってみよう。
『2001年宇宙の旅』の最大の功績はあの音楽を用いて宇宙の時間を描いたこと。あの滑るように動く宇宙船。映画で描かれる宇宙は「宇宙船を動かすこと」で成立するのだけど、あれだけ優雅に動く宇宙船がかつて映画に存在しただろうか?
同上、16頁。
宮さん〔筆者註、宮崎駿〕のアニメは、いわばあの人の主観で任意に切り取られたシーンの連続なんだけど、残念ながら1種類の時間しか流れていない。オープニングからラストまで常に一定のリズムで動いている。あれは宮さんの生理的な時間であって、演出された時間ではない。出崎さん〔筆者註、出崎統〕の映画は時間に種類がある。客観的な時間だけじゃなくて、主観的な時間を任意に作り出している。そのための方法が独特なカメラワークとトメ絵の使いかた。あとは、主観的な時間に突入するためのさまざまな演出的なテクニック。
同上、105頁。
押井の語りから、「映画の時間」とは、映画が上映されている時間(客観的時間)において、様々な技法によって視聴者の生理的時間感覚に訴える演出や、客観的な時間経過ではなく、作品内の起承転結や物語の起伏によって演出された作品内的時間意識(主観的時間)などの複数の時間意識を指すものであることが窺える。それら複数の「映画の時間」の中でも、押井が特に重視しているのが、作品の内的整合性に基づく主観的時間であるといえるだろう。
押井が例に挙げている通り、『2001年 宇宙の旅』が描いたのは、客観的な宇宙空間における人間の生活時間ではない。そうではなく、宇宙空間という設定の中で人間を含む諸種の事物を動かし、その描写された時空間を特定の角度からの視界(画面)に落とし込むことで、『2001年』は宇宙的時間を創造したのであった。このとき、わたしたちは宇宙空間で滞在した経験などないにも関わらず、宇宙で過ごす時間をリアルに想像/創造することができるようになった。これは、映画というメディアが人類にもたらした偉大な効用である。この場合の創造とは、既存の事物の配列や布置を転換することで生じる未知の体験とみなしておく。筆者はこの体験こそが、映画的快楽の源泉であると考えている。
押井作品のなかの「映画の時間」
筆者が押井作品のなかで最も強く新たな「映画の時間」の創造を感じたのは、『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993年)である。押井は本作品において、横浜のベイブリッジへの1発のミサイル・テロによって、自衛隊の事件への関与を疑う警察が首都圏に非常事態宣言を発令し、東京で警察対自衛隊の内戦が勃発するのではないか、という非日常の世界(「TOKYOウォーズ」)を描いてみせた。しかしやがて、産出された非日常すらも作品内の時間経過(主観的時間の推移)によって「日常」へと溶解していく。そうして視聴者は、もはや何が日常で何が非日常かを区分することができない「例外状態」を画面の中に見出すのであった。実に優れた演出の仕方である。
けれども、物語の筋を上記のように簡素にまとめることは、むしろこの作品の意義を損なってしまう。ぜひ一度、この作品を観て、現代日本の東京を舞台に創造された「例外状態」を体験してほしい。筆者がこの作品から得た「例外状態」の光景を最も上手く言語化しているのは、飛鳥川強の次の解説である。
環状八号線や東京駅や渋谷駅前、新宿の大ガードの下に戦車が配置されるいかにもなカットの一方で、渋滞にはまっている戦車、犬や猫と戦車が同居する空間、戦車の前での記念撮影などの日常的な描写がたんたんと積み重ねられていく。やがて夜になり、人影の消えた街角に雪が降り始める。雪景色の中、国会議事堂を遠景に戦車が静止している。
小野寺徹ほか編『押井守論』、日本テレビ放送網株式会社、2004年、273頁。
本作品においては、「映画の時間」により多くの時間軸が見出される。例えば、東京に戦車が出動し、警察と自衛隊が対立することが、なぜ「例外状態」となるのかを鑑みれば、アジア・太平洋戦争後の日本社会における戦争/平和認識の形成という時間の流れが思い起こされる。
あるいは、この作品が『機動警察パトレイバー』というシリーズものの劇場版であることに着目すれば、個々のキャラクターの成長や、明るみになった過去、「例外状態」でしか表れない激情からも、作品の内的時間経過や大過去とでも呼ぶべき時間の層を見出すこともできる。時間の創造とは、現在的時間はもとより、過去や未来をも創造する行為であるといって良い。
接続される時間の快楽
作品において「映画の時間」が創造され、その時間を体感するわたしたちにはいったい何がもたらされるのだろうか。押井はなぜ、「映画の時間」にこだわるのだろうか。
「映画の時間」には、複数の時間軸が存在することはすでに述べた。だが、このことはもっとつきつめて考えたほうが良いと思う。すると、このような逆説が思いつく。「映画の時間」の中に複数の時間軸が内在しているのではなく、複数の時間軸を映画というメディアを媒介に接合しているのが「映画の時間」の正体なのではないか。その接合によって、時間が、事物がつながるという体験こそがわたしたちに快楽をもたらしているのではないだろうか、と。
映画に内在している時間軸は破格に多い。作品内において展開される時間軸はもとより、監督自身の自分史や、映画というメディアの歴史、映画を構成している音楽や機材、字幕などの要素を取ってみても、それぞれに時間の流れがあると共に、それら自体が固有の時間軸を構成している。映画を見る人は、おそらくその中の何かが “つながっている” ことに気がつく。そのような接合の連関が映画における独立した「主観的時間」を形成するのである。これは、映画をはじめからおわりまで総体的に体感した者にしか味わえない類のものだ。
この意味で、押井守が宮崎駿作品との対比の中で言及した「映画の時間」における生理的時間と主観的時間が生み出す快楽は決定的に異なる。前者について、押井は次のように語っている。
動かすこと自体が生み出す感動、みたいなものかな。飛んだり跳ねたり走ったりすることだけで、エモーショナルな何かを喚起できる力。そういうことができるのは宮さんだけ。
押井守『誰も語らなかったジブリを語ろう』、徳間書店、2017年、251頁。
宮崎駿が描写する映画内の生理的時間を演出した “動き” は、あきれるほどにわくわくさせられる。個人的には『もののけ姫』(1997年)ほど、映画内の “動き” を見ていてぞくぞくさせられた作品はない。ただし、それは瞬間的な快楽であり、その快楽を得るために作品の内的時間経過を必要とはしない。むしろ、それらの諸種の “動き” を緻密に計算し、作品の内的時間を演出するために布置することによって映画の「主観的時間」が創造されるのである。
一瞬一瞬の動きそのものには時間がない。時間は動きが組み合わされることで形成されるからである。どれほど見事なアニメーションのセル画があったところで、それらが複数枚なければ “動き” を描写できないことと同じことである。だからこそ、「映画の時間」は、作品の場面を切り取ること以上に、作品内の場面を接合することで創造されることによる意義が大きい。
そうした接合が複数の時間軸の関係性を形成し、それらを統合的に把握することによって、事物/事象が “つながる” ことを視聴者は体感できる。このとき私は、何かこの世界の隠れていた理を見つけ出したような深い快楽と感動を覚える。
文化の不成立:共有願望がなくなった社会で
これまでの論述を踏まえ、「映画の時間」とは、ひとまず映画の中に「主観的時間」を骨子とする諸種の時間を接合し、その “つながり” を視聴者が自覚的に見出すことで、映画特有の快楽を得る時間であると仮設してみよう。
この仮設の意義は、映画を媒介に視聴者が時間/事象の連関を捉えることにある。ところが、現代社会では急速にそうした連関を捉えることの意義や快楽が失われており、そのことによって “文化” という共有概念が成立しなくなるのではないかと押井は述べる。
「何かを他の人と共有する」という意欲そのものがなくなってるんじゃないか、と思ってるんだよね。細分化されたそれぞれのジャンルの中で共感構造があるかもしれないけど、実はそれも大したことない。それはネットで同じような言葉を使って満足しているというレベルだよ。果たしてそんなものが「文化」と言えるんだろうか。
押井守、野田真外『押井守監督が語る映画で学ぶ現代史』、日経BP、2020年、122頁。
“文化” とは、他者と何かを共有することこそがその存在基盤であるのならば、この場合の他者とは必ずしも同時代的他者を意味するわけではなく、より広義な意味での他者であって良いはずだ。映画は決して人類史の中で古い文化とは言えないが、「他者と何かを共有する」という点においては、これほど文化的であるメディアもあまり類がない。
わたしが映画館に行けば、大抵の場合は他に誰かがいて、わたしたちは共に映画の始まりから終わりまで同じ画面を見続けることになる。それと同時に、作品の中に監督がしつらえた「主観的時間」の流れにそって、作品の内的時間をも共有することになるかもしれない。映画は作品を通じて客観的/主観的時間を「共に過ごすこと」を伴う。言い換えれば、映画の中にはわたしたちが共有できる「何か」がある。「映画の時間」とは、その「何か」を見つけ出すための時間であるのかもしれない。