街を歩く時に多くの情報を与えてくれる地図。本記事ではそうした地図の中でも、利用者の視点を過去へと向けさせる二つのウェブ地図を、事例を交えつつ紹介。単なる現在地の確認や店のチェックに留まらない、街歩きをより楽しむための地図との付き合い方を考える。
Written by 祖父江 隆文
今歩いている場所には、かつてどのような空間が広がっていたのか。こうした思いを巡らせながら街を歩くことは多いと思う。本記事で紹介するウェブで利用できる地図サービス「地理院地図」や「今昔マップ on the web」(以下「今昔マップ」)は、そうした街歩きに伴う思索を深める手助けとなるだろう(両サービスの詳しい使い方や機能は、以下の公式ページを含むさまざまなサイトで既に紹介されているので、それらも参照してほしい)。
この「地理院地図」と「今昔マップ」は、分割した画面上に、過去に作成された様々な年代の地図や空中写真を並置して連動させたり、一つの画面でそれらを重ね合わせて比較することができるのが特色である。また、この「地理院地図」と「今昔マップ」は、通常の地図アプリと同様に、現在地と同期して地図や写真を表示することができるため、かつての地理の在り様を随時確認しながら街を探索することができる。
特に「地理院地図」には、標高図や地形分類図など多様な地図が用意されているので、それらの組み合わせ次第で自宅でもさまざまな方法で楽しめる。だが、今回は街歩きをする時に使うという用途に即して、先日訪れた川崎市内のとあるエリアを事例に、これらのツールを使う様子を手短に紹介する。
京浜工業地帯の一角である川崎市の湾岸付近を歩いていくと、夜光という場所にたどり着く。自分もそうだったように、この字面からは、工業地帯特有の臭気とともに放たれる工場の照明に彩られた夜の人工島の光景を連想し、またそれこそがこの地名の由来であると思う人もあるかもしれない。だが、この地区内に建てられているとある看板には、この名はかつてこの地で漁労をして暮らしていた僧が、夜な夜な海で光る弘法大師像を引き上げ、それを祀るために川崎大師平間寺を創建したことにちなむ、と記されている。
もはやそれ以外の姿を想像するのも難しい工業地帯・川崎と化す前の、それも漁業が行われていた頃にあったこの辺りの海岸部とはどのようなものであったか。この看板が記すエピソードの舞台である平安時代の、とまではいかなくとも、かつてあったであろう川崎の光景を想像してみたくなる。それを探っていくために、まずは「地理院地図」を閲覧してみる。
標準的な地図をスマートフォンの画面の右側に、1945年から50年の間に撮影された空中写真を左側に表示させてみると、現在の夜光一・二丁目にあたる場所は未だ埋め立てられていない、砂浜のような地帯であったと推測することができる。
「地理院地図」ではこれよりも古い写真のデータは川崎エリアでは参照できないが、「今昔マップ」では20世紀初頭頃からの地図データを利用できるので、今度はそちらを使ってみる。
先ほどの「地理院地図」での最古の写真が撮られた時期と概ね同じ年代の地図で比較すると、先ほど砂浜に見えた場所は、やはりある程度埋め立てが進んでいるように見える。
ところが、さらに古い地図同士を並置してみると、上のように、現在の夜光にあたる地帯には魚類の養殖場もあったことが分かる。
ここで市が発行した地名辞典やネットに公開している史料等を見ると、夜光を含む一帯は、元々明治時代までに塩田として干拓され形成されたのだという。また周辺の遠浅の海では、公害が深刻化していた1970年代初めでもまだなお海苔の養殖が行われていた。しかし、その時期のさらなる人工島造成に伴う埋め立て等に起因して、結局川崎の海での漁業は廃止されてしまった。
現在、夜光として認知されている地帯は、もとから埋め立てによって形成されたものの、工場地帯とは異なる世界がそこにはあった。だが、その後の土地の成り立ちや、そこで築かれた人々の生活は、やはり川崎の工業化という趨勢に飲まれたというわけである。
こうして過去の地図を参照しながら夜光の地を歩くことで、工業化によってその名の由来とともにすっかり忘れ去られたこの地の海辺や、そこで営まれていた人々の暮らしを想起するための一つの視点を得ることができる。そうすることで、例えば工業地帯の探索の行き帰りに見かける、元は魚屋や海苔商店であったと思わしき産業道路付近に点在する寂れた建物も、その視点が反応すべき徴を発していることが分かるようになるのだ。
このように、これらの地図サービスは、とりわけ変化が進む都市のような、かつてそこにあった世界に思いを至らすことが困難な空間を歩く我々に、現在にまで織り込まれてきた街の痕跡を見出すヒントを与えてくれる貴重な随伴者なのである。