日本列島の南方にある少し変わった都市・鹿児島市街地。鹿児島出身の筆者は、幼い頃から見慣れた鹿児島市街地の空間を「視線」や「まなざし」という言葉を手に、あらためて考えようとする。その思考は、薩摩が歩いてきた近代史を逆向きに歩きなおす試みへと接近していく。
Written by 黒岩 漠
重力に包まれた都市
九州南部の最大都市・鹿児島市街地には、不思議な気配が漂っている。精神的であり、なおかつ空間的でもあるような都市の気配が、そこではかなり独自のあり方をしているのだ。試みに、天文館あたりを歩く人に「鹿児島の中心はどこか?」と訊いてみるとよい。もしかするとその人は、当の天文館の地(最大の繁華街)でもなく、鹿児島中央駅(旧・西駅;交通の中心地)方面でもなく、そっと東の方角を指差すかもしれない。天文館にかぎらず市街地のどこできこうと、東を指差す薩摩人はいるのではないだろうか?――鹿児島市街地の東、そこには錦江湾という名の内海が広がり、その中央にはあの巨大な火山、桜島が、まるであぐらをかいた巨人のように雄大にたたずみ、煙草の煙をモクモクとふかしている。
鹿児島市街地を歩いていると、建物のあいだから時折顔を出す桜島に、何度も視線が吸い込まれそうになる。いや、それが建物か何かに隠されているときですら、桜島は、都市空間における視線の流れに大きな影響を与えているかもしれない。その圧倒的な存在感は、ある種の重力を帯びており、人びとの視線と精神を自らへと引きつけるのである。桜島、あの偉大な火山は、強力な重力をともなう、都市空間の外部にして中心であって、鹿児島市街地は――そこに生きるあらゆる人びとの営みは、いわば、その古き巖(いわお)のまわりにこびりついた、細やかな苔にすぎない。そう思えるほど、この南方都市の空間には、あの火山が欠かせないものとなっている。
そのことをはっきりと認識するために、僕は生まれ育った鹿児島から10年以上離れ、またいくつもの都市をめぐり歩く体験をする必要があった。たとえば港町・横浜を歩いているとき、そこで感じていた「何かが足りない」という感覚、あの正体は、何てことはない、桜島が足りなかったのだ。鹿児島以外に桜島がないことなど当たり前だが、それほどあの山の重力は、長い年月をかけて僕の身体に刻まれていたのである。かつてヘーゲルは、あまりに自然が強大なところでは、精神はそれに対抗できずに育まれないという旨のことを書いたことがあったが、逆に言うと、桜島という、強大であり、ときには凶暴ですらある自然を意識することをとおして形成された精神にとっては、その不在は、まるで月の消えた夜のように物足りない何かであったわけである。
しかしまた、その10余年は、次の点に気づくのにも十分な時間であった。つまり、鹿児島市街地にとっての錦江湾という海は、一言にして「開けていない」のである。桜島という存在のために、ほかの湾とも違い、どこか遠くの世界へと通じているという感慨を、錦江湾は起こさせにくい。鹿児島市街地にとっての錦江湾とは、実はそのような意味では海ではなく、島津家が仙巌園にて見立てたとおり、大きな池のようなものなのだろう。
桜島を見ると不思議と安心する。自分が育まれた土地に戻ってきたという情感が沸く。しかし、錦江湾を池にしてしまうほどのその存在感は、鹿児島市街地において、その中心から視線を反転させることを困難にもしているだろう。要するに、視線を自身が引き寄せるために、市街地から見た周縁地域としての北薩や大隅、薩摩半島外海側などといった地域への薩摩人のまなざしを希薄にさせているのである。
ところで、そういったまなざしの希薄さはまた、長年のあいだ九州南部から南方の島々にかけて、支配的勢力として振る舞ってきた薩摩、その歴史意識にも影を落としてはいないだろうか? 自身の暴力をともなう中央性と加害性を忘却させるような方向へと、現在の薩摩人にとっての桜島は機能してはいないだろうか? もしそうであるならば、錦江湾が実際に大海へと、薩摩が関わってきたさまざまな地域へと、続いていることを身体に刻み込むのが一番よい。そのためには、屋久島や奄美大島に向かう船に乗って、桜島にじっくりと見送られる体験を反復してみるのもよいだろう。その重力からの離脱訓練は、薩摩を相対化するための視線の修練ともなるはずだ。
しかし同様のことは、船に乗って鹿児島市街地から出るまでせずとも、その都市空間の内部にいるままに行うことも実は可能である。つまり、都市空間に流れる別様の視線に気づくこと、その微かな視線への気づきには、この精神的な重力圏からの解放までもが賭けられているのだ。以下では、そのような気づきを求めて、鹿児島市街地とその歴史を歩いてみたい。
不在のまなざし
天文館から中央公園の方に抜けていくと、公園沿いの向こう側に大きな石の鳥居が見えてくる。そこは、北九州から鹿児島まで九州西部を縦断する国道3号線の最南端であり、幕末の薩摩を当初率いた藩主・島津斉彬を祀る照国(てるくに)神社の正面である。幕末の薩摩は、斉彬が推し進めた近代化の激流に乗るようにして、日本列島を駆けめぐる政治的舞台へと躍り出た。身分の低い武士であった西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利通)らを登用したのも、この斉彬である。反射炉、ガス灯、地雷や水雷にいたるまでを製造させ、関東での黒船騒ぎ頃には蒸気機関船を自分たちで造ろうと試みていた、この開明的君主の軌跡は、薩摩人にとって「照国大明神」として奉るのに十分なものであっただろう。その思いはまた、西南戦争の敗北によって独自の近代化路線が閉ざされてしまった歴史を省みると、より一層のものにもなるだろう。
だが、この照国神社の巨大な鳥居を、今回はあえてくぐらずに歩こう。そして、鳥居の前で進む方向を右へと直角に曲げる。そこから神社の駐車場を横目に歩いていくと、すぐに近代軍装に身を包んだ大きな像(斉彬からすると甥にあたる島津忠義の像)が建っているのが見える。そのすぐそばの小さな路地を、今回は曲がっていく。すると、そこに二つのお地蔵さんが並んでいるのが目に入るのではないだろうか?
このお地蔵さんの片方には頭がない。首がもげている。これは、おそらくは事故ではなく意図的なもの、というよりある歴史的暴力によるものではないだろうか。つまり、明治政府のすすめた廃仏毀釈による仏像破壊が、かつてこの小さなお地蔵さんをも襲ったのではなかっただろうか。
薩摩藩では、もともとの仏教信仰の希薄さもあり、天皇を中心とする国家神道の輪郭を明確にするために行われた廃仏毀釈――仏教弾圧をともなう神道と仏教の分離――が激しく実行された。民衆層では京都人しかまともに認知していなかったようなミカドという存在を、政治の場へと引っ張り出した張本人の一つが薩摩であることも、その激しさに関係していただろう。いまでも列島の各地には、首や腕がもがれた仁王像などが残されている。徳川の世を打ち倒して中央集権的な富国強兵へと邁進した歴史が、事物に対して吹き荒れた暴力の痕跡として残されているのだ(以下の鹿児島県HPの記述も参照)。
こういった文脈が想起されるとき、頭をもぎとられたお地蔵さん、その不在のまなざしは、鋭い批評性を持ったものとして虚空に出現する。斉彬の近代化事業から西南戦争を経て、富国強兵の明治時代へ、さらには対外戦争へと続く歴史を、そのまなざしは静かに、しかし批判的に貫くのである。暴力の痕跡として、あるいはまさに不在であることをとおして、声低く、しかし確実に、このまなざしは語りかける。そうであることによって、それは、仏教受難という範疇にとどまらない普遍性をも獲得するだろう。つまり、打ち捨てられてきたもの、置き去りにされてきたもの、打ち砕かれたもの――そういった、いわば敗者からの視線が、この不在のまなざしに束ねられるだろう。この密やかなまなざしは、幕末明治に近代化を先導した薩摩が、その渦中で用いた諸々の暴力を穿つ。しかし同時に、それは、たんに薩摩の近代史を批判するのではなく、照国神社などといった大きな政治的記念碑よりもはるかに、かつて独自の近代化の道を断たれ、自身もまた敗者となった薩摩の歴史へとあたたかな救済と慰めを与えてくれるものでもないだろうか。批判と救済は、しばしば同時に現れるものであった。
見下ろすまなざし
場所を変えよう。鹿児島市街地において、おそらく最も綺麗に、雄大なる桜島の全景を見ることができる場所は、実は照国神社や首無し地蔵のすぐ近くにある。言うなれば、それらの「上」にあるのだ。照国神社や鶴丸城跡(島津家の居城で現在の黎明館など)がその麓にある城山――西南戦争の最終地でもあるこの城山の頂上には、現在、城山観光ホテルが建っている。そこからは、鹿児島市街地と桜島の浮かぶ錦江湾が一望できるだろう。
鹿児島の人間はすっかり慣れてなかなか気づかないのであるが、鹿児島県外の人間のなかには、眼前に広がる光景に違和感を抱く者もいるらしい。つまり、旧藩主の城や神社を見下ろす位置にホテルが建っているなどということは、ほかの地域ではあまりお目にかからない光景なのだ。それに驚いた者が、いくらかこの鹿児島の歴史を知っていたとしたら、次の事実を知ってさらなる驚きを見せるだろう。終戦後、この鹿児島最上位のホテルを建てたのは、奄美群島のひとつ、徳之島出身者である。
奄美大島を中心とした南西諸島は、長年のあいだ、薩摩の支配下にあった。薩摩藩は、これらの島々をプランテーションとしたのだった。島民は、薩摩藩の役人に鞭打たれながら、砂糖の生産に従事した。かつての島の文化と生活は根こそぎにされ、黒糖の薩摩藩との専売――薩摩側が圧倒的に強い不公正な取引――で得た日用品を生活の頼りとした。生産した砂糖を舐めたり、秘かに所有したりすることがバレたときには、子どもであれ容赦なく吊り上げられ罰せられた。この抑圧と搾取の歴史を、南西諸島を自然豊かな観光地程度に思っている現在の薩摩人が想起することはあまりない。だが、ときには想起してほしい。鹿児島の郷土料理として知られる鶏飯(けいはん)ですら、薩摩のふんぞり返った役人をもてなすために奄美の島民が用意した物ではなかったか? それには貴重なものであった鶏がふんだんに使われ、島民が、そして、島に流されるような薩摩の小役人もまた本土ではほとんど食べることのなかった米とともに料理されている。
城山観光ホテルから桜島と市街地を一望する視線は、こういったかつての植民地支配の歴史という影のなかを走っている。その影がこの視線をより際立たせるのである。いまや天皇や総理大臣すら宿泊するこのホテルを創立したのは、アジア・太平洋戦争後から活動した徳之島出身の実業家・保直次(たもつ なおじ;1916-2012年)である。彼は、復員後に天文館で飲食店やパチンコ店を始めるところから事業を展開させていった。そして1961年に城山観光ホテル(株)を設立、2年後に城山の高台にホテルを構えた。
この建設計画が持ち上がったとき、薩摩人たちからは反対する声が激しくあがった。城山は、西郷が死んだ地であることもあり、薩摩人のいわば聖地でもあるのだから、それはある種当然の反応であった。また、実際に建設されたホテルから市街地を眺めまわしてみればよい。斉彬を祀る照国神社や黎明館(旧鶴丸城跡)を、山の上から「見下ろせる」ことに気づくだろう。この目線の位置もまた、反感を呼ぶには十分なものだったろう。創立者の保は、イタリアのナポリを訪れた際に、高台から眼下に広がる地中海とベスビオ火山を見て、それを錦江湾と桜島に重ね、城山へのホテル建設を思いついた――この思いつきの結果は、鹿児島市とナポリの姉妹都市提携と「ナポリ通り」という道の名前に残っている――というが、その発想は薩摩の外の人間であるからこそよくできたものであったかもしれない。
さて、保がこのホテル建設計画を相談に行ったのは、鹿児島市長(当時)の平瀬実武(ひらせ さねたけ;1901-1994年)であった。この人物もまた興味深い。鹿児島市下荒田出身の平瀬は、市内ではよく知られた銭湯の倅であり、また鹿児島市初の革新市長とも呼ばれ、その人柄から人気を集めた人物だ。彼は保からの相談を受け、反対の声を押し切り、城山にホテルを建てることを許可した。そのときのことを彼はのちに次のように語ったが、そこには興味深い歴史的思考が表現されている。
保君は奄美(徳之島)の出身だ。島津三百年の間、圧政に苦しんで来た人々の代表だ。かつての被支配者が、支配者を上から見下ろす。支配者が被支配者になる。これは歴史の原則。私の哲学でもある。そう信じて建設を許したわけだ。
『西日本新聞』鹿児島県版、1989年1月19日付;引用は下記リンクから。
この平瀬の歴史哲学は、おそらく彼が旧制七高時代にヘーゲルやマルクスから学んだ理論を、いわば実践主義的な薩摩的思考によって噛み砕いたものとでも言えそうだ(薩摩的思考についてはまた別の機会に)。支配者と被支配者の立場が逆転するという事態は、ブルジョワジーが王族貴族から政治権力を奪取した過去――そして、いつかプロレタリアートがブルジョワジーから政治権力を奪取する、とマルクス主義においては予測された未来――を想起させると同時に、薩長を中心とした勢力が徳川幕府体制から政治権力を奪取した自分たちの過去をも連想させる。しかも、これまで支配的位置にいた薩摩人(しかも市長!)の口から、かつての被支配的位置にいた者について、口籠ることもなくこの言葉が発せられるという点に、薩摩的思考において考えられる最良の部分が表現されているかもしれない。というのも、永遠のものなどないし、目指すべきですらないという思考――逆に最近は、国家や企業をまるで永遠に存在するものかの如くに考える風潮があるようだが――こそが実践主義の核心であり、また人工物よりも自然物の強大さを知る精神によって与えられるものだからである。城山の高台からの、あの視線は、奄美と薩摩の関係史とこの歴史哲学を想起したときにはじめて、その秘められた意味を教えるだろう。