そこら中に変態的な監視宣告ポスターが張り出されている昨今。皮肉な気持ちは、もはや紙とペンに向かうしかない。そうして民主主義を挑発するかのように書き連ねられていった膨大な断章群から、ほんの一部を選んであらたに並べなおしたものを、「デモテープ」というタイトルでここに公開!
Written by イサク
定時運行
満員電車というやつは、ひとの人間性を恒常的に低下させる。さらに、そうして自らが受けた抑圧を、混雑のなかで周りの人間に当たり散らすことによって気を晴らそうとする者は、そうすることでより急激に人間性を低下させる。
実はというと、この社会において、人びとは人間であることすら望まれてはいないのではないか? もしかすると、人びとが社会と呼ぶものの本性が、そこに剥き出しの形姿で現れているのではないか?――このような考えに取り憑かれる者がいたとしても、仕方がないのだろう。
実際に、通勤電車の持つ機械工場的リズムは、人間における〈生の時間〉を均質で空虚なものへと加工するライン作業を連想させる。ところが、このベルトコンベアに乗せられた〈生の時間〉は、社会と呼ばれる――実は構造的会社界とでも呼ぶべき――巨大な構造体の部品規格に見あった大量生産品にはなれたとしても、その生を過ごす個人の望む完成品とはほど遠いところへと運ばれる。人びとは、満員電車から降りて自宅に帰り着いたとき、心の底から「疲れた」と思いながらコートを脱ぐわけだが、それは純粋に身体と精神の疲れというだけであって、しばしば誤想されるような自らの生の充実へと向けたやり甲斐といったものとは微塵も関係ないのだ。彼らの〈生の時間〉は、いまだあの機械のなかに乗ったままである。行き先に待っているのは、「不幸」という名のついた、周囲に何もない寂しい終着駅だけだ。
大量の人間が詰め込まれて運ばれるという点において、満員電車は、一九世紀の奴隷船や二〇世紀の絶滅収容所行き列車の家系に連なっているとみるべきである。そして、かつてのより悪辣だった御先祖様がそうであったように、そこでは、人間はただ経済や政治の目的のための生産力――大抵の場合は多少のトレーニングで代替可能な――であるだけでよいのであって、どのように取り繕おうと、根底においてはやはり〈人間〉であることを求められてはいないのだ。この線路は続く、いくつもの終着駅を生み出しながら、どこまでも――真に社会的な場所へと向かうであろう別の線へと、人びとが〈乗り換え〉を試みる、その時までは。
狂人の街頭演説
みなさん、いわゆるリベラル派の人間たちが、ファシストに常に対抗してくれるとは限らない! それどころか、ときには手を組んで人びとに攻撃を加えてきさえするという数多の例を、近代の歴史は教えてくれるのであります。
彼らが、あるいは彼らの好む「人権」や「平和」の思想が、ファッショ的抑圧や虐殺に対してあまりに弱々しく無力だから、という理由でそのようなことが起きるのではありません。そうではなく、ファシズム化の危険は常にわれわれの近代国家においては潜在的にあるのであって、リベラルはその危険な土台をファシストたちと強く共有してしまっているのです!
だからこそ、たとえ社会秩序のイメージのぱっと見た中身においてはファシズムと激しく対立しているように思える場合でも、その形式においては驚くほど似通っているといったことが、われわれの時代ではしばしば起きてきたわけではありませんか!
リベラルは、ファシズム的傾向や国家主義的傾向と共通の土台のうえで、しかもそういった連中とある程度の「適度」な距離を維持することによって、現代の問題多き秩序に一定の安定したバランスをもたらすことに成功してきたのです!
いずれ、リベラル派とファシストがお手てを繋いで、われわれに殲滅戦を仕掛けてくるときがくるかもしれないというある種の危機感が、われわれのなかの注意深い者たちのあいだですら解消されてしまったとすれば、そのときは大変なことになってしまうでしょう!
こういった類の予感は、常に、ちょっとした、大抵は大した問題ではないと思われているような事態において予告されているものです。現代における過剰な喫煙者弾圧運動がまさにその顕著な一例ではありませんか! ・・・きいてください、みなさん、きいてください!!
副流煙だの匂いだの、いろいろと喫煙習慣の問題は言われてきています。しかし、禁煙派の人たちが何を問題視しているかということではなく、何は問題視しないかにこそ、禁煙派の側が抱える問題は示されているのです。
排外主義的な禁煙論者たちは、たしかに子どもたちを危険に晒すという微かな有害物質には鬼気迫る勢いで関心を向けているわけだけれども、子どもたちの遊び場を奪い、毎年とんでもない数の人間を喰いちぎる、あの危険な四輪駆動機械には何の罪も問おうとはしていないではないですか!! していますか!? いないでしょう!
それはなぜなのか! おかしいんじゃないか! ・・・そうです、自動車は便利だからなんです。それ対して、煙草は享楽に過ぎないというわけなんです。煙草を許さないという彼らは、便利であったらあんな凶器でも許すんだ!! 彼らにとっては、便利さは妥協や協力が強制される基準の一つなのです! そこにファシストたちとの共通点があるんです。便利だったら危険な機械も許す、便利じゃないなら些細なもの、彼らが不快と感じるどんな些細なものも許さない! そこにわれわれの堕落が用意・・・ちょっと、みなさん、きいてください! 私の話をきいてください!!
木から落ちた猿
人間は本来的に闘争的であり、残酷な種族であるという見解は、これまでそれを科学的に跡づけようとしたあらゆる試みが失敗したあとでも、なお魅力的なものであり続けているようだ。
人類学者レイモンド・ダートの主張に始まり、ロバート・アードリーによる大衆的な人気を博した著書『アフリカ創世記』(一九六一年)を経て広く知られるようになったキラー・エイプ仮説――すなわち、人類の祖先が持っていた肉食習性が現在の人類における強い攻撃性、特に同族への攻撃性として残っているという、あの仮説は、すでに科学的には十分な根拠がないものとして退けられている。
しかし、この説が僕らの時代においてもなお噂の世界をさまよっているのは、いまだ無くなる気配のない戦争や血と硝煙を必ず要するかにみえる政治的闘争、残酷さを極めた殺人事件などを目にすると、こうも僕らが凶暴な理由を何かに求めたいという心理が働くからであろう。実際にも、人間の歴史をめくる気まぐれな指は、人間が他人の目を抉り、鼻や耳を削いだと思えば、今度は内蔵を引きずり出すような蛮行に喜びすら覚えている瞬間が、あるいは殺人のための技術を至高の域にまで高めていく様子が、繰り返し発見される度に、ページめくりを中断することとなる。そうして「これが人間か」という驚きは、その残虐性の所以を、遙かなる父たるお猿さんに求めて落ちつくというわけである。
その裏では、このキラー・エイプという魅力的な形象のもとで、人間たちは、自分たちの本来的な攻撃性、いまも繰り広げられている激しい同種間の戦争行動こそが、ほかの動物たちを出し抜き、この偉大なる文明を発展させてきたのだという確信にさらなる証拠を加えることに成功したと思いこむ向きもあるようだ。実際はというと、すでにほかの多くの動物たちも同族殺しをするという事実が指摘されているし、さらにキラー・エイプ仮説の由来であるアウストラロピテクスも、凶暴な肉食性というよりは腐肉食を含む雑食性であったという説の方が有力になっている。結局のところ、人間の場合、その殺しぶりがほかの動物たちより過剰であることもあれば、逆にそれらよりも、そのような生死をかけた対立を上手く避けることもあるといった程度の見解を持つことが穏当な線であるだろうから、キラー・エイプは科学的論理からはすでに滑り落ちたと言うべきであろう。
しかし、それでもなお、骨を武器として持ったこの猿を、それがたとえいかに科学的な誤りであったとしても、僕らの噂の世界から完全に締め出してしまってもよいのだろうか? 僕らに向けて何かを訴えるかのごとく、呆然と立つことのできる程度の小さな場所は、奴らにもまだ用意されていてよいのではないか? この想像上の猿が、かりに僕らに何かを訴えかけているとしたら、それは、人間たちが猿たちのリアリティから離れて自己のリアリティのなかに自閉することを勧める内容でもなければ、本来的に凶暴な存在として自己とその社会の歴史と現状をただただ肯定することを許す内容でもありえないだろう。そうではなくこの暴力的な猿は、一つの問い、一つの皮肉を、僕らに投げかけているはずだ――すなわち、「君たちの言うように、かつて猿から君たちに進化したのだとして、では君たちは一体いかなる存在に進化するというんだい?」という問いを。