Written by イサク
はじめに
僕らは孤独だ――いや、そうではない。しかし、そうではないとしても、僕らは、孤独をいつも側に感じとることができる。街角の隅に腰をおろして、耳を澄ませてみればいい。家でテレビを観ながら、ふと我に返って、画面の向こうの賑わいと自身との間にある空白を感じとってみるといい。孤独はいつでも聞こえてきて、身を包む。孤独は、常に潜在的にともにある僕らの生と死の条件であり、僕らの時代における世界の存在様態そのものと関係している。したがって、孤独は、色鮮やかな、と形容したくなるほどに多様な側面とさまざまなグラデーションとを持っているだろう。
この度、【断章まとめ】企画の第一弾として、本サイトのさまざまな記事のなかから、孤独をテーマにテクストを集め、再配置してみた。僕自身が書いたものも、他人が書いたものもある。加えてそこに、長年読み継がれてきた『人生論ノート』(1941年)の著者・三木清の有名な孤独についての断章を二つだけ引いてきた。それなりの意図のもとに並べたわけだが、この並びにとらわれずに、個々の読者が断章の間を自由に行き来し、まだ見ぬ孤独の相貌を浮かび上がらせてくれることを願いたい。
断章
孤獨は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤獨は「間」にあるものとして空間の如きものである。「眞空の恐怖」──それは物質のものでなくて人間のものである。
三木清『人生論ノート』より。
これは、現にあらゆる政治共同体で実践されている、人びとの支持を集めるための秘訣である。陰謀論という怪物が歩きまわるのは、このような〈不安〉という名の霧の世界である。いや、この霧によって、世界は、すでに「世界」と呼ぶには値しないのかもしれない。かつて「世界」という語が持っていた個々の人びとや事物のあいだにある空間としての響きは、現代においては濃い霧のなかに隠されてしまっている。そこでは僕らは、孤立した人間として生きるか、大衆という同一性のなかに融解することでしか生きていけないのであって、そのことがまた循環して著しい〈不安〉を各所に発生させているのだ。 まさにこれが、このようなかたちでの「世界」の問題であるとすれば、陰謀論とはそこでの目立つ徴候の一つにすぎないのであって、陰謀論的思考へと人びとをすがらせる状況そのものは誰に対しても等しく広がっているのである。
自己内対話を可能性として留める孤独とは区別して孤立があるのだとすれば、その孤立がそれでもなお持っていた世界への信頼までもが失われてしまう事態が〈孤絶〉である。孤立においてすでに世界との繋がりは失われてしまっているけれども、それでもなお自らにとって外在的なものとして志向されうる世界が、〈孤絶〉においては一切の信頼を失ってしまい、敵対的なものとして現出することになる。この孤独から〈孤絶〉にいたるまでの暗いグラデーションのどこかに、彼らは投げ出されている。そこでは、青い空や光輝く海といった外的自然の見せる美しい光景のみが、最後の信頼を保つのである。
すなわち、「もはやみんなと一緒に生きていくことはできない」という諦念に続くのは、「でもこれでいいんだ、もう隠さなくていいんだ、何一つ省みるべきものはない、私は、私らしく生きることができるんだ」という喜びの宣言なのだ。愛する者たちとともにもはや生きてはいけないという事態が、社会的抑圧からの解放へと転化される。孤独が自由と呼び変えられる。人びとを傷つけてしまう氷の魔法が、力強く解き放たれて美しい氷の城をつくりあげる。
だが、そのような直線的な見方は大事なことを見落としている。生はその始まりから死へと絶え間なく歩を進めているのであり、その過程は不吉や不穏が充満していくようなものではない。写真集を見返すたびに感じるのは、個々の写真が、ある一瞬においてそうであったという断片の集積としてよりも、「自殺」という全体に対する部分の連関として見えてしまうということだ。「なぜ…」の答えを、それぞれの写真の細部に否応なく探し求めてしまう。物語が完成するためには決定的に必要な、だが見つかるはずのないピースを、写真に記録されたあらゆる細部から想起し、自らの頭のなかで完成させる。
存在をいかなるものとして考えるか、というとき、それは目には見えない深いところに流れる水脈のようなものを目指さなければいけないのだろうな、と思った。存在を考えるためには、あらゆる価値や信仰や思考を知ること、自身を知ること、そしてそうしたもののすべてを抱きかかえるような、なにか〈大いなる哲理〉のようなものを見いだす必要があるのだろうと思った。こんなふうに、見えないけれど動き流れていく水脈を掘り当てようとすること、見果てぬ哲理を追い求めていく態度そのものが、足元のおぼつかない私の生を肯定してくれるような気がした。
感情は主觀的で知性は客觀的であるといふ普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層眞理に近い。感情は多くの場合客觀的なもの、社會化されたものであり、知性こそ主觀的なもの、人格的なものである。眞に主觀的な感情は知性的である。孤獨は感情でなく知性に屬するのでなければならぬ。
三木清『人生論ノート』より。
抗いがたい大きな流れの中に身を置き、同質化し、鈍感であることに努める一方で発揮される拒絶の精神——カンボジアの都市部の人々が「日本人」との関係の中で経験していることをこのように見ることは、他方で、僕自身の経験を記述の対象にする際の起点となるようにも思う。両者の経験を突き合わせてみると、そこにはある類似性が存在するように思えるからだ。
しかし、この夢のなかでの出会いをとおして、彼は大きく成長を遂げる。自己の投影としてのミニラ、憧れの怪獣ゴジラに向けて努力し成長していく過程に、ということは、自己の内面の成長可能性そのものに、反射されるかたちで、一郎少年は成長していく。映画の後半、現実世界で彼を襲った誘拐犯二人を勇気と工夫でもって撃退するまでにいたる。孤独な少年は、親や同級生が側にいなくても、ただ夢のなかでの怪獣との出会い(というかたちでの可能性としての自己との出会いなおし)をとおして自己を変革するのだ。孤独な、しかし確かに他者(あるいは他者としての自己、その反映としてのミニラ)に媒介された成長である。〈孤独〉が、孤立や孤絶とは違い、いまだ辛うじて他者に開かれている所以はこのような関係にある。
かつて『許されざる者』では、結局最後は銃の腕前によって復讐に成功するのだったが、マイクはラフォにそんな姿は見せない。マッチョな振る舞い方の代わりにラフォに教えるのは、さまざまな動物たちとの付き合い方、動物たちへの気遣いの仕方なのだ。動物たちとの付き合いをとおして、ラフォの孤独は癒される。ラフォはいつも抱いている鶏に「マッチョ」という名を与えていて、マッチョはチキンというジョークになっているわけだが、物語の最後、ラフォはその「マッチョ」をマイクに与える。それは、ラフォがマッチョを目指すのをやめたことを意味するが、同時にマイクにとっては、動物との付き合いをとおしてメキシコの街に居場所をえて、新たに愛する人もでき、そうして長年生きてきた孤独についに終止符が打たれたことを象徴しているのではないだろうか。