アンチ・デモクラシー・デモテープ Vol.4

右や左という記号が、政治の言葉としてまるでポップな交通信号のように飛び交う現代。皮肉な気持ちは、もはや紙とペンに向かうしかない。そうして民主主義を挑発するかのように書き連ねられていった膨大な断章群から、ほんの一部を選んであらたに並べなおしたものを、「デモテープ」というタイトルでここに公開!

Written by イサク

兎と亀

現代における保守思想の目覚ましい堕落は、たんに保守派を自称する人間たちの勉強不足、思考不足に起因するのではない。

そのことは、本来、保守派と革新派は、最終的に目指すところについてのおおよそ同じイメージを共有しており、ただその理想の地へのたどり着き方について意見を異にする二つの〈方法〉であったことを想起すれば、すぐに察しがつくだろう。

その共有された目標とは、まさに近代的価値観、つまりは自由であり、平等であり、博愛であるだろうし、あるいは戦争もなく、差別もなく、貧困もない理想郷であってもかまわない。近代を克服するための何かでもあるだろうし、これまでの人類の歴史に終止符を打つものでもあるかもしれない。重要なことにも、この「ここではないどこか(ユートピア)」の形姿をめぐって、保守派と革新派はそれほど対立してこなかったのだ。

こうした目標を前に、革新派が急進的に変化を求めるのに対して、保守派は漸進的なやり方を主張する。すなわち、はるか遠くにある人類の理想社会を遠望しながら、革新派が大きな機会を逃さずに一気に跳躍しようと企図するのに対して、保守派は、小さな機会を一つ残さず捉えながら、一歩、一歩と我慢強く、あらゆる苦労を背負って、その亀のような前進を維持しようとするのである。

このことから本来の保守思想には、二つの性格が必ず備わっていなければならないことになる。一つは、保守思想においては、小さな一歩の積み重ねをとおして、はるか遠い目的地へと確実に、しかも決して怠けることなく進んでいかなければならないのだから、その一歩、一歩を台無しにするような愚行、愚策は断じて許すことがないという性格である。確実に踏みしめたはずの一歩を元に戻したり、後退させてしまったりする反動的な政策や態度は、本来、保守思想そのものの有効性を否定する最大の敵なのである――この点に思い至ると、僕らは現状を見ていつも驚愕するはめになるのだが。

もう一つの性格は、理想の強さである。保守派にとっての理想社会へといたる道程は、何百年、あるいはそれ以上の時間を要するものである。ということは、跳躍を旨とする革新派にまして、保守派は、より強く、より激しく理想社会のイメージを持ち、それを維持し、継承し続けていかなければならない。つまり、それだけ保守派の方がユートピアについて深く思考実験を重ね、いずれ行き着くべき場所のイメージを鍛えていなければならないのである――この点についても、僕らはその欠如に日々落胆するわけだが。

ところで、この二つの性格を考えると、現代において保守思想が堕落した理由は明らかである。現代において、理想は、現実の名のもとに抑圧され、真剣に考慮されることがあまりない。現実が既成事実と取り違えられ、その可変性が無視されているのだ。そして、仮に理想のイメージを手に入れたとしても、それに向けて歩みを維持する粘り強さやそれを支える情熱も、さまざまな要素、特に商業主義によって広げられたあの〈お手軽さ〉の精神によって毀損されている。そのようなところでは、真の保守思想を獲得することはあまりに困難であり、代わりに、本来敵であるはずの通俗的な既成事実主義者や感情的な反動派が、しばしば自らを保守だと誤認するまでにいたるのである。

蟹歩き

右に進みすぎた人間からすれば、あらゆる他者が左にいるように見えるようになり、左に寄りすぎた人間からは、この世界の大部分が右に取り込まれているように見える。では真ん中に立った人間には? そこが真ん中だという保証は彼自身にはできないため・・・というよりも、現代という基準喪失の時代には思想における「真ん中」という言葉が何らかの意味を有することがほとんどないため、結局、彼には何も見えないのである。まともな視界を手に入れるための唯一の方法は、いい加減横移動ばかりすることをやめ、時代の重力に逆らって上方への移動を覚えることだ――少なくとも、どこかの伝説にあるように、翼が溶けて地に落ちたりする羽目になるまでは。

狼と羊

革命は革命家が起こすものではない、革命家とは、人びとの起こした暴動に便乗し、その混乱のなかで政権獲得を狙う者たちにすぎない――という、二〇世紀において幾人かの思想家が指摘していた状況は、おそらく革命を志す者たちにとってこそ深刻な問題であったことだろう。

革新思想の最大の武器は、多くの人びとにとって現状が悪いものであればあるほど、状況が理想から遠ざかれば遠ざかるほど、その負の広がりを大きな躍進の機会へと切り替えることができるという点にある。既得権益にありつく裕福な人びとと数多くの貧しい人びとの格差がはっきりするほど、つまり、普通の人びとが社会的、経済的構造によって追い詰められるほど、人びとの不安を不満へと引き揚げ、状況を一変させるような機会を狙うことができるのだ。

このような逆転劇に開かれている点こそが、保守思想に対する革新思想の強みであり、ある種のしなやかさであって、現状がひたすら悪化しているように思われるところでは、保守派は絶望するか、嘘の繁栄広告をばらまくかしかできないのに対して、革新派は、そこに理想郷へと一気に距離を詰める機会をみるのである。

このような機会は、特に専門的な軍事力による革命を期待できない場合は彼らにとって必須のものとなる(言うまでもなく、そのような軍事力による革命は革命後に嫌というほど代償を払わされることになるのだが)。

ところが、大衆を味方につけなければならないという、まさにこの要請ゆえに、彼らはしばしば大衆にとって利害対立者になる。というのも、革命家ないし革新派にとっては状況の悪さこそが跳躍のバネになるのだから、大衆に、いかに現状が醜悪であり、おかしなものであるかを伝えるばかりでなく、現に大衆が生活のうえで追い込まれ、ついには情勢の流れのなかで武器を手に取るような事態にいたるのを、彼らは望むことになるからだ。

跳躍は必ず破壊を必要とする。多くの人びとがより激しく搾取され、ついには激怒とともに破壊へといたること――これが破壊者としての革命家の秘かな願望である。彼らがいかに誠実な心情を持った者であったとしても、自らの安息を求める大衆からその偽善を疑われることは、いわば彼らの宿命なのである。

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