東京都杉並区西荻窪駅周辺に住む筆者が、その街で考えたことを断章形式で語る。西荻窪で考える時間、人と過ごす時間というものが自分の人生のなかであったということを、より鮮明に記憶するために、ある人間やある瞬間の写真集でなく、ある人間やある瞬間との交わりのなかで過った〈思索の写真集〉、その2。
Written by イサク

自分の店があまりに空いているものだから、ハイボール一杯と餃子数個でお隣の店を気ままに手伝いに来たお調子者をみた。資本主義的近代の強いる競争社会なるものは、これくらいの運営方針でいい。経済の利害以外の側面、競争よりも協働の生きる空間――。
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嫌悪を覚えるほどの軽薄さにも、慣れという法則は容赦なく自らを適用する。つまり、案外嫌いではなくなるのだ。
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人生の記憶というものは、自身のある意見がどれほど間違っていて、かつその間違いを薄ら自覚していたとしても、なおその意見を保持しつづける機会を与えるものである。記憶は、誤謬や誤解の「最後の避難所」になりうるのだ。
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政治の話を飲み屋でするなという戯言。民主主義者にとって、これほど手を緩めず攻略すべき要所はない。彼らは政治というやつを王様の仕事机ほど狭いものに考えてしまっているため、自分たちの獲得しうる大空の広さを前もって見捨ててしまっているのだ。
民主主義者は政治を恐れはしない。彼らにとって、政治はどれほど憂鬱な現状のもとですら口端にのぼる話題の一つである。そしてそのような者たちは、声高なアジテーションや説教くさい弁舌とは異なる、気の利いた政治の語り方というものを知っているものだ。
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距離の達人。距離というものを自らの哲学の原則としておいているわけではなく、ある種の身体的技法として、自然に、距離を持つということに長けている、そのような人物がいる。そのような人物は、相手に対して「冷たい」という印象すら与えることがない。そこで他人との距離は、「冷たさ」すら感じさせないかたちで見事に取りうるわけだが、この種の距離は、観察が要求するあの距離でもなければ、暴力のために用意された助走距離でもない。
いわゆる間合いというやつで、彼は自らの持つ暴力と他者からの暴力から、互いを守っているのである。このような距離のあり方からも、きっと何らか政治や認識態度についての理念を引き出すことができるのだろう。

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今年の三月に右膝を骨折して以来、たまに右膝が借り物のように思えるときがある。左膝はいままでどおりなものだから、余計に右膝の異質な感触が目立つ。予想もしないタイミングで音がなり、ときには就寝中に鈍く小さな痛みが残って、夜中に目が覚める。借り物の膝でも痛みは自分払いというわけだ。
足というものは不思議だ。どこかの哲学者が自らに移植された心臓について語ったような、他者ないし外部を自らの内部に抱え込む、というほどのことではないらしい。足の場合、むしろ自らの身体が自らに属していないというような感覚が別のかたちで強調される。
しかし、それはきっと老いにおける類似の感覚とも違う。ママならなさは、老いや風化が持つ時間的な幅を感じさせず、ひたすらに現在的自己へと向けて折り返される。借り物の右膝には他者がいない。大地すらもが、踏み締めることのできる対象にならない。消えないはずの足場が、半分だけ消えてしまった――。
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社会学や哲学など勉強したこともないという人間の持ち出しがちな、身勝手な社会学ないし社会哲学。もちろん学者や芸術家というものは、そのような安手のごっこ遊びに満足できないからこそ存在するわけだが、だからといってそれらを見下し足蹴にするだけでは、結局のところ、社会学や社会哲学の大衆社会における相場暴落に手を貸すだけになってしまう。
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従順な心がけとか、それなりの後悔に裏打ちされた身をあらためる態度といったものにも、賞味期限というものは付くものである。しかし、それは、その反省下手な者の真摯さを裏切るような事実ではない。たしかに真摯さというものが結局また失敗が繰り返されてしまう、という事態に紐づけられているわけではないとしても、真摯さというものをその一元的かつ一回的な達成にこそその証明と見るような浅はかさには、そもそも真摯さという理念そのものが馴染まないのだ。自身の決意に対してのちに裏切りと見えるような行為をしてしまったとしても、真摯さを諦める手はない。気をつけるべきは、常に安っぽい社会学と倫理学の方なのである。
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あれほど元気な様子であった人にも、表情の曇りが見え隠れするようになる。ふと気づくと口数が少なくなっており、手を動かすことに集中している。この観察は、二重の状況を反映していると考えた方がよい。つまりは、客観と主観と。その人が労働現場において蓄積していった疲れがだいぶ蓄積しているということ、それから観察者に慣れていった先に愛想の初回特典が尽きたという事態を、ついつい観察者側が見過ごしてしまっているということ。大抵はこの二つのどちらか、ないし両方である。したがって、前者の可能性ばかりを想定すると、何より自身が、相手との関係のなかで行き着いた現在地を見誤ることになるだろう。
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身勝手な人間、子供のように我儘な人間に、どうしようもなく惹かれてしまう場合がある。その身勝手な言い分や気分屋の振る舞いに、どうしようもなく心が惹き寄せられてしまう。無為自然や天衣無縫を求めた過去の人たちも、きっとそんなときがあったはずだ。たとえそういった観念と身勝手さの間にどれほどの距離があろうとも。いや、両者は小さな道で通じているのだ、と思う。
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若さの持つ暴力性は、しばしば周りよりも自分に対して向けられる。その暴力から身を守るために、若さはより一層の暴力を要求する。
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若い知人の近況報告をきいていた折、最近の自分を捉えて離さない次のような寓話を、あたかも助言のような調子でやってしまった。有名な話だ。
あるところに、立派な大木があった。それはそれは立派な木であった。そこを一人の建築家が通りかかる。皆が大木を誉めそやすなか、その建築家は大木に価値を認めない。曰く、ろくに建築の材料にもならない駄目な木だから、こんなに大きくなるまで放っておかれたのだ、というわけである。その夜、建築家の夢に大木が現れた。大木は次のように語りかける。君はそう言うが、まさに役に立たないからこそ私は長生きできたのだ。役に立つ木であれば、あんなに若くして切り倒され、君たちの用のために利用されてしまう。私は役立たずであるからこそ、いまその天寿を全うして終えようとしているのだ、と。いわゆる「無用の用」の寓話である。
僕も、国家や社会や勤務先といった強い場所から、無用と思われたい。無用とされながら、存在することを許されたい。そうでないと、他人のために人生をすり減らしてしまうことになる。長生きしたいわけではないが、だからこそ、自分の生を、自分と、それから少数の周りの人のためだけに使いたい。
しかし、自分にとってすら、自分が無用な日も確かにあるようだ。そういうとき、僕はどうすれば――よいのだろうか?
そんなことを考えていると、ふとバートルビーの顔が浮かぶ。「せずにすめばありがたいのですが」――あんなことも、こんなことも。彼は物語の最後で死んだのだったろうか? それは良い死だったろうか?