人生には何度も繰返しプレイすることになるゲームというものがある。1999年に発売された『聖剣伝説LEGEND OF MANA』をこれまで幾度となく周回してきた筆者は、ほとんど自分のあり方を規定するような〈教え〉をそのなかで獲得していった。ゲームから思想を読む!
Written by 田中資太
僕が誇張なしに何十周もし、今だに引っ張り出してプレイするゲームに『聖剣伝説LEGEND OF MANA』(1999年スクウェア。以下LOM)がある。幾つもの独立したストーリーで編まれたオムニバス形式のこの作品は、全体としてみると荒削りで未完成なところも多いのだけど、一つ一つのストーリーや言葉に、子ども時代の僕を考えこませ、クスリとさせ、あるいはホロリとさせるようなものがあった。それはまるで、他人にはガラクタでも自分にとっては宝物であるモノを詰め込んだ箱のようで、今でも時折開いて眺めたくなってしまうのだ。
そうしたガラクタのいくつかに絞って、少し話をしたいと思う。システムや全体像が知りたい方は自分でプレイされるも良いし、あるいは最近(2018年)有名なゲーム実況者であるshu3が上質なやりこみ動画を上げているので、それを御覧になるのも良いだろう。
鳥乙女は沈む船の悪夢を見るか?
再プレイしながら自分にとってのこのゲームの意味を考えると、一つにはこのゲームは初めて自分に「自由」についての観念とそのための条件について考えさせてくれたものだったと言える。
例えば鳥乙女(セイレーン)たちの物語がある。セイレーンと言えばホメロスの『オデュッセイア』に出てくるような、「自分に近付く人間はこれを悉く惑わす」恐ろしい海の怪物として名高い。しかしそうしたセイレーン像とは異なり、LOMの善良なセイレーンたちが歌うのはそれが彼女らにとっての自然であり掟だからであり、そうしなければ生花でできた彼女たちの羽は枯れてしまうのである。
それで彼女たちは人間が船を海に浮かべてからというもの、歌う「自由」と船を沈めてしまうのではないかという「恐怖」とで板挟みになり、葛藤することになる。船を沈めてしまった一人のセイレーンは、自責の念から幽閉の身に甘んじ、鳥カゴの中から友人と言葉を交わす。
「私たちが自由に歌っただけで沈んじゃうような船なんて、全部沈めてしまおうよ!今の世界なんて、リフジンくんだわ。」
「私も本当は、ほんの少し、わかってる。だけど、怖いの。追手に追われて、敵と戦って、命がけで求める自由って何?」
「私は私であるために生まれて来たの。それが、自由。」
LOM内・セイレーンの台詞
初プレイ時に小学生だった僕は考えこんでしまった。確かに船を沈めるのはマズい。でも彼女たちは歌うことが自然な在り方で、しかも後から海に来たのは人間のほうだ。「船が沈むから歌うな!」というのは結局人間の側に肩入れすることにしかならない(しかも作中のこの人間たちというのがまたガラの悪い、嫌な感じの奴らなのだ)。「秩序」というのは結局、誰かにとっての「秩序」であるにすぎないとしたら、そのために別の誰かの「自由」を奪う権利など誰にあるだろう?
これは別にゲームのなかでなくとも、人間と人間のあいだにだってよくあることだ。学校のクラスにおける「秩序」のことを考えてみればいい。「スクールカースト」なんていうクダラナイものは、クラスで強い者がその立場を正当化するための「秩序」でしかない(僕は別に酷いイジメを受けたことはないが、女の子たちがパンツをわざと見せて反応を楽しもうとするくらいには気弱な小学生だった)。
誰かを虐げ、排除し、屈服させることで成り立つような「秩序」なら、セイレーンたちの言う通りそんなものは「リフジンくん」で、ブチ壊してやったって文句を言われる筋合いはないはず。そのせいで「私が私である」ことができないような秩序ならば。
彼岸までも交わりえぬもの
「自由」の主題がもっと極端な形で展開されているのが、四人の幼馴染(人間の司祭と騎士、猫の僧兵、悪魔)の物語だ。
なぜ司祭と悪魔が幼馴染なのか、という疑問はひとまず措こう。司祭の女の子は代々聖職を務める名家に生まれ、予め敷かれたレールに疑問を持っている。「わたし、司祭になんてならない。だって司祭は悪魔と友達でいたらいけないんだもの」。悪魔は司祭のために、そして悪魔である自身の根源的な欲求のために、世界を破滅させようとする。「生きるんだ!そんなに嫌な世界なら、いずれ俺が滅ぼしてやる!」 悪魔の在り方は初めから破綻していて、その点で実は誰よりも人間的なところがある。破滅させるべき人間のなかには、当然司祭も含まれるはずだから。「望みが叶うというのなら、無数の悪魔を解き放ち、世界を混沌に陥れたい。そのために今はただ、オマエという呪縛から逃れたい」。騎士は自身の信念(と恐らくは妬み)に突き動かされて悪魔を殺そうとし、僧兵は二人が一緒にいてくれれば世界は破滅せずに済むのだと司祭を説得する。
そうして事態は司祭の選択に委ねられることになるのだが、司祭は悪魔とともにある道を選ぼうとはしない。自分がともにあることで、悪魔は自由ではなくなるからだ。世界の秩序という出口のない檻のなかで、司祭は唯一つ、自身も幼馴染たちも自由であることのみを求める。それは悪魔が世界を滅ぼすのを受け入れるということであり、騎士(or僧兵)が悪魔を殺すことを受け入れるということだ。彼女にとって、それ以外に出口はない。何せ悪魔とともにあって世界を破滅させるのを止めさせるという選択は、悪魔の存在の根本を否定することだからだ。
セイレーンたちの「自由」が、少なくとも潜在的には人間と共存可能なのに比べて、悪魔の「自由」はそもそも人間と共存しえないものだ。その意味で後者の「自由」はもっと極限的なもので、悪魔と人間とのあいだにはどちらかが勝つ以外の結末はありえない。そのような極限形態において、司祭のように悪魔の「自由」を尊重してやることはできるのだろうか。僕としてはまぁ、流石にそこまでは尊重できないとおもう。それは他者が「自由」であることを侵害するからだ。それでも、司祭と悪魔の物語もまた、極端な形でとはいえ、「秩序」の影には往々にして打ち砕かれ拉がれている者があることを認識させてくれる。そのことを忘れ、一つ一つの「自由」が許容可能か吟味することなしに、物言わぬ「秩序」の壁のみを崇めるとき、それは「檻」となるのだ。
作り手の「自由」、あなたの「自由」
LOMにおけるメインのシナリオライターの井上信行氏は、『アルティマニア』において本作の基本的な主題について語っている。
「このゲームでつらぬかれている(つらぬく予定の、笑)思想は、「多様な種族」「多様な価値観」「多様な信仰と死生観」、これらがときに対立しながらも、少しずつ前へ向かって、対立のない新しい世界が見えないものかと歩んでいくというところです」。
こうした主題を体現するような物語がセイレーン編と四人の幼馴染編だと思える。井上氏はLOM発売後すぐにスクウェアの方針に反発して退社したという。詳しい状況は分からないが、氏自身もまた「自由」の精神を強く持っていた人であったことを推測させるエピソードではないだろうか。「自由」の精神とは、いつでも自分が所属するところから「離脱」することのできる精神でもあるのだから。
他にも愉快な海賊ペンギンとそのオカシラ(セイウチ)のダンディズムとか、ぐまぐまとか、下村サウンドとかイメージとしての世界とかいろいろと語りたいことはあるのだが、それらはすべて思念としてこの文面に込めておこう。その思念の波動に触れた人が、自身の眼前にその世界を展開させ、自身でその世界を歩き回ってみてくれることを願って。
したらな!!