サイモン曰く

ファロア・モンチの名曲“Simon Says”(1999年)の邦訳と解説を放り投げた筆者は、代わりに、この楽曲の背後にあるという怪しげな物語を語り出している。一体、サイモンとは何者なのであろうか? それは、この楽曲でサンプリングされているゴジラと関わるのであろうか? サンプリング的評論の試み!

Written by イサク

この記事で紹介するのは、はるか東方の国(もっとも、どの地点から見るかによっては西方にもなるのだが)に伝わる物語である。あらゆる民俗学者の努力にもかかわらず、この伝説の起源がいつ頃なのかは明確になっていない。優れた技術だけではなく、豊かな教養をも持っているファロア・モンチは、世紀転換期に大ヒットを記録した名曲“Simon Says”(1999年)をつくる以前、おそらくは幼少期に、この伝説を耳にしていたに違いない。以下で、その長年語り継がれてきたと思われる伝説的物語を紹介しようと思う。しかし、現在伝わっているこの物語も、不明瞭な部分が多くあるばかりか、明らかに後年に変質したと思われる箇所もある。完全な伝説は、すでに失われてしまったのだ。

 ※

サイモン師は言った、「みな起きよ!」

サイモン師は言った、「みな、起きるのだ!」

サイモン師は再び言った、「起きるのだ、愚か者ども!」

しかし、誰一人目覚める者はいなかった。みなは、サイモン師の言うことをきかなければならないということをすっかり忘れており、誰か他の者の言うことを、たとえば億万長者や専制君主や人気者の言うことを必死にきいて従っていたのだった。サイモン師の言うことをきくということは、遠い昔に結ばれた約束だったにもかかわらずである。仕方なく彼は、椅子に腰を下ろし、次のように一人で語り出した。

「何と言うことだ、どこの都も馬鹿者ばかりだ。愚か者たちが愚か者たちを支配し、愚か者たちが愚か者たちに感情移入し、愚か者たちが愚か者たちと殺し合っている。

二つの選択肢、搾取か丸裸か。まるで蜜柑が扱われるようなやり方が、いまや世間の唯一の現実になってしまった。

しかし、私がたんなる不平屋なのではないか?

私は、ケツを叩かれるべき不平屋ではないのか?

私は、実はチヤホヤされることに憧れているのか?

ちょっと待て、そんなことはないはずだ。

私は語るべきことのみを語る。愚か者どものケツを、ちょうど助産師が赤ちゃんにするようにパシっと叩いてやる。

私は路上にとどまり、語るべきことを語り続け、火のように燃え続けよう。愚か者どもを針のように叱り続けよう。

そのためには、この銃〔この部分は、より古い年代においては弓や石であったろうと思われる〕で太陽すら撃ち落としてみせよう。」

そうして、「立ち上がれよ、私」とつぶやくと、ゆっくりと椅子から重い腰を上げた。サイモン師がふと横に目をやると、そこには、まだ昨日乳飲み子を卒業したばかりといった顔をした幼い女の子が立っていた。女の子は、いつの間にか一人だけ目を覚ましていたようだ。彼女はサイモン師の独り言をきいていて、次のように述べた。

「おじさんは、自分が愚か者だということを信じたくないのね。」

サイモン師はギョッとして、思わずそそくさと逃げ出そうとしたが、少女の方を振り返って、「君はずいぶんと賢いのだね」と述べた。すると少女は、「誰かをお探しになっているの? お友達?」と尋ねてきた。

「私は、優秀すぎて左遷された警官のようなものなのだ。孤独な捜査を続けている。かつては心を許せる友人が一人だけいたのだが。お嬢さん、これ以上、私にかまわないでおくれ。」

そう答えると、サイモン師は再び、みなに向かって語り出した。

「みな起きたまえ。

聴いているものは、どうか手を挙げたまえ!

私とともに、声をあげたまえ。

さらに高く、あげていきたまえ。自らの生を、より高次な領域へとあげていきたまえ。

その歩みがなければ、すぐに滅びが訪れるだろう。」

しかし、手を挙げる者も、ともに声をあげる者も一人も現れることはなかった。サイモン師の声が聞こえていた者も実はいたのだが、彼のことを傲慢で説教くさい変人だと考えていたので、無視したのであった。やがて夜が訪れた。サイモン師は、孤独につぶやいた。

「やぁ暗闇、我が古い友人よ。

私の言葉は、古い建物や便所の壁にすら書き込まれることはないだろう。」

そういって、暗闇のなかをとぼとぼと去っていった。先程の少女は、それまでのことを物陰から全て見ていたが、「きっと彼は、いずれ滅亡が訪れて、そのときになって彼が正しかったということをみなが後悔とともに認める日を、たぶん訪れることのないその日を、心の奥で期待しているのね」と思い、彼のことを哀れに思った。その哀れさに比べれば、彼の言うことをきいてあげる者が少しはいてもいいように思えた。

そこで彼女は、翌日、いつか彼が再び訪れたときに快く迎え入れられるように、一つの遊びを友達と一緒に考えだした。「サイモンさんは言った(Simon Says)」と呼ばれる、あのよく知られた遊びはこのようにして生まれたのである。皆さんの知っているように、この遊びでは、サイモン役の人物の指示をきかなければならない。間違って、ほかの者の指示に従ってしまうことがあってはならないのだ。

Playtivities
30 Funniest Simon Says Ideas These funny simon says ideas will make kids move, participate and laugh all through the game. Great ice breaker activity, outdoor & indoor game for kids.
【参考リンク:この英語のウェブページは、「サイモン・セズ」の遊び方を紹介している。お子さんがいる方は、ぜひご家庭でお試しになられるといい。】

 ※

さて、物語は以上である。おそらくファロア・モンチは、たんに遊びとしての「サイモンさんは言った」だけでなく、いまはあまり知られなくなった、その遊びの誕生物語までも知っていて、あの名曲“Simon Says”を制作したのではないかと思われる。というのも、サイモン師が最も繰り返していた教えとは、この物語によると、「起きよ」「目覚めよ」ということであったのだから。だとすると、彼がこの曲でゴジラのテーマ・ソング(1964年の『モスラ対ゴジラ』におけるテーマだそうだ)をサンプリングしたことは、興味深い共鳴を生み出していると言うべきだろう。破壊者としてのゴジラに人気が集まるのは、かの怪獣が人間の強力な味方であることによってでは明らかになく、「クソみたいな」世の中に対する意識的ないし無意識的な破壊願望をくすぐることに由来する。そしてその願望は、サイモン師を想起させるのに十分であろう。浅瀬から上半身を出して悠々とすすむゴジラ、その近くの海岸を、サイモン師も同じ方向へと歩いていく。

【出典:Universal Music Japanホームページ。1972年に生まれたファロア・モンチ(Pharoahe Monch)は、1991年にプリンス・ポエトリーとの伝説的なデュオ、オーガナイズド・コンフュージョン(Organized Konfusion)としてデビューして以降、数々の素晴らしいパフォーマンスを発表し続けている。全てのアルバムが聴くに値する。“Simon Says”においてゴジラをサンプリングしたのは、彼がゴジラ・ファンであったからとのこと。ちなみに、名前の「モンチ」の由来は、これまた日本発の「モンチッチ」であると言う。】

付け加えておくと、ゴジラを飼う企業こと東宝は、その攻撃の矛先をファロア・モンチと彼の所属レーベルであったロウカス・エンターテイメント、配給先のプライオリティ・レコーズに向けた。東宝(Toho Co.およびToho Music Corporation)は、1999年のファロア・モンチのソロ・デビュー・アルバム『インターナル・アフェア(Internal Affairs)』に収録された、このヒットソングで、著作権を無視して「ゴジラのテーマ」が使われたことを見逃さなかったのだ。2001年、カリフォルニア中央地区地方裁判所に訴えられたこの裁判を経て、どうやら現在ではライヴでの演奏やストリーミング配信などが許されているようだ。

ヒップホップ・カルチャーにおけるサンプリングと著作権問題については、実はそう簡単に善悪の結論を出すわけにはいかない歴史的背景がある。それについてはまた別稿で紹介することにするが、もしヒップホップ・サンプリング訴訟史なるものをまとめるのだとすれば、この“Simon Says”をめぐる問題も項目の一つを飾るだろう。

またゴジラの方はというと、アメリカではしばしば裁判沙汰の種になっていた。以前からアメリカにおいてもそれなりに人気のあったゴジラは、時折、怪しげな商品やマークになって全米を巡り歩いていたようだ。「米国の法廷では巨大怪獣すらも弁護士が必要」とはマスメディアの発した戯言であるが(以下のリンクを参照)、まだ人類が「目覚め」とか「悟り」といった類いの事柄とは縁がない以上、ゴジラが法秩序の鎖から解放されることもないので、人類は枕を高くして寝ることができるというわけだ。同様に、かつてサイモン師の抱いていた憂鬱の原因も、その間は消えることはないだろう。

 ※

追記

本記事で紹介した伝説には、次のような前日譚があることをのちに知った。それは、あの伝説以前に、なぜそもそも、サイモン師の言うことをきかなければならないと、みなに思われるようになったのかを明かす。同時に、サイモン師がなぜそこまで説教くさくなったかも暗示している。その物語は次のようなものだ。

サイモン師がまだ師と呼ばれるよりも以前、彼は敬虔な信徒であり、また従順な秩序への追従者でもあった。ある月の綺麗な夜、彼が床につくと、キラキラと輝く聖母のような女性が彼の枕元に現れた。そして、彼に一枚の布を手渡して言った。「この布をそなたに譲りましょう。これを身につけて死んだ者は救いにあずかれるでしょう」と。しかし、サイモンは真に敬虔であったので、布一枚を身につけるだけで救済されるわけがないと考え、その布を友人にあげてしまった。

すると、しばらくして、またあの日と似た綺麗な月が登った夜、彼の枕元に再び聖母のような雰囲気の、あの女性が現れた。そして、彼に大きなジャガイモを一つ手渡してこう言った。「よく救済の誘惑を振り払って、布を手放しました。私はそなたを試したのです。そしてこのジャガイモこそが、本当の救済にそなたを導くものです。芯までよく煮て食べなさい。他の人へあげてはいけませんよ」。翌朝、サイモンはそのジャガイモを煮て、一口だけ毒味して、残りはみなに配ってしまった。何かを口にしただけで救済にありつけるとは思えなかったからである。

すると、それからいくらかの年月を経て、再び同じような月が登った夜、あの女性はまたサイモンの寝屋に現れた。そして、「なぜジャガイモを配ってしまったのです。そなたは救済を求めないのですか」と憤りつつ、大きな鍵を彼に手渡した。そして、「これが最後の機会です。東の山を越えた先にある大きな石造りの家の鍵です。そなたはそこに住まなければなりません。さもなければ、そなたは地獄に落ちるでしょう」と言うのだ。翌朝、彼はその鍵を友人たちに渡して事情を話し、彼自身はというと、カビ臭い図書室へと籠ってしまった。家の大きさで救われるか、それとも地獄に落ちるかが決まるわけがないと考えたからである。

さて、友人たちは、東の山を超えてその大きな家を探しに出かけた。そして、本当にこの鍵で入口が開く、大きな石造りの家を見つけたのである。彼らは歓喜して、そこで暮らすことにした。そして、サイモンが話していた女性のことを想い起こした。彼らは最初、聖母のような女性が枕元に現れるというサイモンの話をまるで信じておらず、寝屋に連れてきた娼婦のことがバレるのを恐れて、そんな嘘の物語を考えついたのだと思っていた。布やジャガイモは、その娼婦の土産か何かだろうというのが、彼らの推測だった。

ところが、石造りの家となると、なかなか土産として与えられるものではない。もしかすると、サイモンが話していたことは真実なのかもしれないと、彼らは考えるようになった。それに何より、その家での生活は快適だったのだ。そうして彼らは、その家で暮らし続ければ救済されると信じるようになり、またサイモンの言うことをきけば、より多くの富とより多くの救済にありつけると考えだした。

サイモンの聖なる富の噂は、世間にあっという間に広まっていった。誰もが、衣服や食べ物を、ときには大きな家を求めて、サイモンの古く小さな家を訪ねた。友人たちも一層サイモンに親切に振る舞い、彼を師と呼んで敬った。しかし、サイモンはというと、それがたまらなく不快だった。みなが煌びやかな富やお手軽な救済に心を奪われて、自らを律することを忘れてしまったように思われたからである。それを自分の責任と感じたサイモンは、みなのもとを離れて旅に出てしまった。彼の、長く続く、孤独で絶望的な旅は、こうして始まった。

物語は以上である。僕は、仮にこの物語が真実だとするならば、サイモン師が浮かばれることは一生なかっただろうと思う。それなら、大きな石造りの家で、暖かい布に包まれて、バターをたっぷりと塗ったジャガイモを食べる生活も悪い選択肢ではなかったのではないかと。しかし、そうすると、あの愉快な遊びも、ファロア・モンチの名曲も、生まれなかったのだから、彼の旅にも文化に対する一定の貢献はあったと言うべきかもしれない。

※本記事に紹介されているサイモン師をめぐる物語に登場する人物、時代、地域、信仰などは、すべてフィクションです。実在の人物、時代、地域、信仰などとは一切関係がございません。

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