灯火のカンボジアン・ラップ〔前編〕

近年、困難な社会状況に置かれてきた、カンボジアに生きる2人のラッパー。その地点からヒップ・ホップを通して我々に訴えかけるものは何か。そして、彼らのメッセージの行く先とは? 異国の音楽を通してみる現代社会批評・前篇。

Written by 祖父江 隆文

プノンペンの〈路上〉の音

近年、経済が目覚ましく発展しているカンボジア。そこは一方で、社会の安定・繁栄を阻害するとして、政党・メディア・一般市民による批判的表現が極端に制限されてきた場でもある。35年以上に渡り一人の首相によって強権政治が行われてきたこの場所で、どのような音楽が可能であるのか。それを探っていくにあたって、今回は国家権力のターゲットとなった2曲のカンボジアン・ラップにスポットを当て、その歌詞に込められたメッセージを掘り起こしていきたい。

តើពេលណាទើបយើងបានសុខអាចចាកផុតទុក្ខទាំងអស់នេះ?

いつになれば平穏を手にし 全ての苦難から逃れられるのか?

ក្រោកឡើងជូតទឹកភ្នែកអោយជ្រះ រួចបន្ត ដំណើរទៅទៀត។  

立ち上がり 涙を拭い 旅を続けよう

Dymey-CAMBO,សង្គមនេះ  2019年。以降「この社会は」と表記。歌詞は全て引用者(本記事筆者)邦訳。

2019年5月のある日、プノンペン市街のそこかしこからこのフレーズが流れてくるのを耳にした。その少し前から、この曲の作り手であるラッパーが、警察当局による自宅監視、所属する大学や職場からの追放の警告といった圧力を受け、ついには曲をウェブ上から削除した、という報道が各所からなされていたのだ(詳細については下記リンクなどを参照)。

日頃から通る道を歩いてみると、いつもは自分たちの売る大型スピーカーでカンボジアン・ポップを爆音でかけている機材屋の店員や、バルコニーの椅子に寝そべりスマホで延々と時間をつぶす向かいの家の青年も、この曲を流している。

【服屋が立ち並ぶプノンペンの路上。カンボジアには、道に並行して展開される市場の他に、このように道路脇に同業の店が数店舗に渡って固まっているエリアが見受けられる。2018年筆者撮影。】

このラップを流す行為自体が、カンボジアの人びとを取り巻く如何ともしがたい窮状を示すライムへの、それをラップに乗せ悲痛な調子で人々へ訴えるこの青年への、そしてこうした批判を圧する国家権力への、ささやかではあるが確かな個々人の反応である——そのことを、若手ラッパーDymey-CAMBOが歌う「この社会は」のhookが街中でリフレインされるごとに僕は感じ取っていた。

【2021年7月現在、「この社会は」には2018年に発表されたものと、2019年にアップロードされた“version Ⅱ”の二つの版が存在するが、脅迫事件やその報道では主に後者が扱われ、また筆者がプノンペン市街で耳にしたのも“version Ⅱ”であったのを考慮し、本稿ではそちらを考察の対象にする。】

降りかかる権力に向けられる牙

だが、この5月の出来事は、その後に続く社会状況の悪化を予期するものとなる。翌年9月、市民を扇動し、社会秩序の混乱・政権転覆を焚きつけようとしたとして、連日のように逮捕されていった環境活動家や仏教僧の中に、あるラッパーが含まれていた。

ទឹកដីយើង​តែមួយជួយគ្នារក្សាទុក

助け合い守り抜いてきた俺たちの唯一の領土

ចំរាញ់យកអ្នកក្លាហានឈរកើនជាម្លប់

立ち上がり庇護者となる勇者を生み出す

ការពារទិសតំបន់ការពារម្ដាយឪពុក

全ての地を守り 父母を守る

ការពារនូវមាតុភូមិជាតិសាសន៍ឲ្យបានសុខ

母国を 民族を 平穏でいられるよう守る

Kea Sokun, ដីខ្មែរ 2020年。以降「クメールの地」と表記。歌詞は全て筆者邦訳。

これは、現在23歳のキア・ソクン(គា សុ​គុណ)が歌う「クメールの地」(ដីខ្មែរ)の出だしの歌詞である。警察、そして司法の場が動乱の危険性を嗅ぎ取ったのはソクンが発表したいくつかの曲に含まれている「立ち上がる」という言葉である。「クメールの地」を聴くと、この言葉は、上にあるように、カンボジアに生きる人々を守るために何かに向かって「立ち上がる(ឈរ)」ということを表現するものとして用いられている。こうした点から、メディアでも法廷でもほとんどソクンに弁明の余地が与えられないまま、この作品は、主に近隣諸国との国境の変遷に関連した政府への対応を批判したものだと解釈されたのである(こうした動向については、例えば下記リンクなどを参照)。歌詞が政権批判を旨としているとみなされるのは、冒頭に紹介した「この社会は」も同様であったのだ。

だが、「クメールの地」と「この社会は」の歌詞が、特定の政権への批判を終始想起させるかというと、そうではない。例えば、冒頭のDymey-CAMBOが歌うhookにもある「立ち上がる(ក្រោកឡើង)」というフレーズの後には、5年前に暗殺されながらも、国内の政治状況を痛烈に批判したことで今なお多くの人々の支持を集めている言論人カェム・ライ(កែម ឡី)の「涙を拭い、旅を続けよう」という金言がサンプリングされている。だが、だからといって、この人物が展開したような与党への評論のみがDymey-CAMBOの曲から聴こえてくるわけではないのだ。

カンボジアにおける局所的な出来事を背景にしつつも、その事象の外にいる僕たちにも痛切に訴えかけてくるような批判性。これこそが、これらのラップの真髄なのである。政治によって抗しがたく張り巡らされた権力の網目、そしてなによりも、それがもたらす人びとの暮らしの破壊——それを告発し、人びとを状況の打破へ向かわせようというのが、2曲に通底するメッセージなのである。以下では、そのメッセージを歌詞の内容とともに検討しつつ、国家権力のターゲットになったこれらの曲が期せずしてともに掲げた「立ち上がる」という言葉に何が含意されているかについて考えてみたい。

発展する社会のうめき声

ここからはまず、より広範にカンボジア社会の問題を歌っているDymey-CAMBOの「この社会は」の歌詞を見ていく。3つのヴァースから成る本曲からは、人びとがその下に置かれてきた、長きに渡る抑圧的な情勢が想い起こされる。それはそのまま、ソクンのラップが批判するカンボジア社会の背景説明にもなろう。初めのヴァースでDymey-CAMBOが聴き手に想起させる情勢とは、例えば近年、国家の経済成長が高らかに喧伝されている最中に繰り広げられてきた、労働者たちの抗議運動とその弾圧である。

【友人夫婦が暮らす工場労働者向けの集合住宅からの風景。このような製造業者が密集するエリアでは、縫製や製鉄などあらゆる種の工場が住宅を取り囲むようにして建っている。2018年筆者撮影。】

ធ្លាប់តែសុខសាន្តឥឡូវបែរជាវឹកវរ

前は平和だったが今じゃ騒乱

មិនសូវលឺសំលេងសើចឃើញតែទឹកភ្នែករាស្រ្ដហូរ

笑い声を聞くのは多くない 目にするのは人々が流す涙だけ

លឺសំលេងយំកងរំពងស្រែកយំទាំងទំនួញថ្ងូរ។

泣き叫び悲しみに暮れる声が聞こえる

រាស្រ្តរស់នៅជួបតែទុក្ខលំបាក

みなただ苦難の中に生き

រស់នៅក្នុងជីវភាពក្រីក្រហើយតោកយ៉ាក

貧しい暮らしを生きる

前掲「この社会は」

今日に至るまで、賃金や労働環境の改善を求め続けてきた市民の抗議運動は、その度に徹底的な弾圧の対象となってきた。月にたった200ドルに満たない賃金。その向上を求める労働者たちのデモ行進の前に、物々しく武装した憲兵や特殊部隊が立ちはだかる。そうして、人びとを「無慈悲な心で叩きのめ(同上)」(គេវ៉ៃទាត់ធាក់ដោយគ្មានចិត្ត មេត្តា)し、その結果、人びとは「ただ泣き叫び 跪く(同上)」(បានត្រឹមតែយំស្រែកលុតជង្គង់)。こういった情景は、カンボジアでは事あるごとに繰り返されてきたのである。

【抗議運動参加者とその顔を打ちのめす憲兵。画像はBloomberg(https://www.bloomberg.com/news/photo-essays/2014-01-09/cambodias-garment-factory-workers-strike)より引用】

(つづく)

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