20世紀の天使たち〔後篇〕

ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』からは、20世紀のやつれた天使たちの姿が浮かびあがる。私たちが生きるこの時代のなかで、〈天使〉はどのようにイメージされうるのだろうか? 〈天使〉を探す、私たちのための後編。

Written by イサク

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20世紀の天使たち〔前篇〕 ヴィム・ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』からは、20世紀のやつれた天使たちの姿が浮かびあがる。悲惨が貫徹したような現代史のなかで、天使たちはどのようにイメージされてきたのか?――その系譜を探る。前編。
【本記事・前篇はこちら】

新たな〈天使〉たちの組成図

ベンヤミンからヴェンダースへと引き継がれるイメージ・・・街の景観に重なる戦争の記憶と痕跡、絶望した人びとに手を差し伸べるだけの力をもはやほとんど持っていない〈天使〉たち、謎の語り部の老人(このホメーロスと呼ばれる老人のイメージもまたベンヤミンに深く関係しているが、それはまた別の機会に考えてみよう)、そして東西を分断する壁――ベルリン。

【町山智浩氏によるこの詳細な解説も、本作とベンヤミンの関係について語っている。素晴らしく勉強になる解説なので合わせて参考にされたい。】

映画『ベルリン・天使の詩』は、日本でも1988年に公開され、ロングランヒットとなったそうだが、その背景にあるものを考えれば、本作が、しばしば誤解されているような、たんなる天使のおっさんと人間の女性のラブストーリーでもなければ、ヨーロッパの洒落た街並みが楽しい映画などでもさらさらないことは理解されるだろう。いや、背景を調べるまでもなく、廃墟が重なり映るベルリンの姿を見れば、少なくとも「お洒落なヨーロッパの街並み」などという感想は出てこないはずだ(驚くべきことに、そのような感想を見かけたことがあるのだが)。この映画を観てそんな感想を抱く人間は、たぶんヨーロッパの街を観たら、いつも決まって機械的に「お洒落で素敵」とばかり感じてしまうのだろう。

とはいえ、この映画は、何か神妙な面持ちで襟元を整えて観なければならない芸術的作品だというわけでもない。というのも、この映画は、一方で静かに廃墟と人間たちを見守る零落した〈天使〉たちを描いているわけであるが、同時にそれとは裏腹の関係にある、現代における「新しい天使」たちの新たな生成と新たな飛翔の可能性をも茶目っ気たっぷりに示唆しているからだ。

本作には、なんとテレビシリーズ『刑事コロンボ』でお馴染みのピーター・フォークが登場する。しかも、ほかの誰でもなく本人の役で。劇中、彼はベルリンを映画の撮影で訪れているのだ。

すでに述べたとおり、物語の中盤、ダミエルは人間になることを決意する。そうして人間になってはじめて見る色彩のある光景や、コーヒーのはじめて味わう味覚に舞いあがり、「天使の鎧」を売って気に入った服まで買ってしまうわけだが、そんな折、彼は撮影所でフォークと話すことになる。そこでいきなり、売った鎧の値段について、「安売りしたな。/いいかい 30年前の事だが/ニューヨークの/23番街の角の質屋で/500ドルだったよ」とフォークに言われるのである。そう、実は「刑事コロンボ」もまたかつては〈天使〉であり、ある時から人間になった者だったのだ!

【出典:ヴェンダース監督『ベルリン・天使の詩』。ピーター・フォークのいたずらな笑顔は、落ち着いた時間が流れる本作に添えられた、一輪の愛らしい花のようではないか。】

この映画の〈天使〉たちは、たんに廃墟を見つめ強風に流されていくのではない。この映画は、たんに救いなき世界に彼らを立たせているのではない。茶目っ気たっぷりに、喜びすら感じさせるようなやり方で、新たな〈天使〉たちの姿を提示してみせてもいるのだ――まるで、どれほど残酷な世界であろうと、限られた命を生きるということを言祝ぐように。

ヴェンダースは、本作でほかにも新たな〈天使〉の存在を名指ししている。物語の終幕直後、画面には次の言葉が置かれることとなる。「すべてのかつての天使 とくに/安二郎 フランソワ アンドレイにささぐ」――すなわち、当時においてすでに亡くなっていた三人の偉大な映画監督、小津安二郎、フランソワ・トリュフォー、アンドレイ・タルコフスキーである。ヴェンダースに言わせれば、この三人の映画監督もまた〈天使〉だったというわけだ。

あぁ、そうなのかもしれない・・・と、画面に映ったこの言葉を見た者は思うだろう。たとえば、小津安二郎監督の『お早よう』(1959年)のような作品は、〈天使〉こそがよく撮りうる映画だったではないか。あるいは『映画に愛をこめて アメリカの夜(La Nuit américaine)』では、トリュフォーはまるで〈映画の天使〉のようにも見えないこともなかった。そして、タルコフスキーの廃墟こそは、20世紀の〈天使〉たちにふさわしい空間ではなかっただろうか・・・などと、勝手に合点しながら、僕らの時代に可能な〈天使〉のあり方に思いを馳せることにもなるだろう。

【出典:小津安二郎監督『東京物語』(1953年)。ピーター・フォークが〈天使〉であるのならば、いくつかの小津映画のなかの笠智衆、『東京物語』においては東山千栄子や原節子も〈天使〉のように思えてくる。そこには何か、あの時代における〈救済〉のイメージと結びつくようなものがわずかに漂ってはいなかっただろうか。】

さらに、のちになってヴェンダースは、現在ならばそこにロベール・ブレッソンとサタジット・レイを加えるだろうと述べている。この二人の監督は、『ベルリン・天使の詩』公開後の90年代にともに亡くなっている。

たしかに、これらの映画監督たちは、少なくともベンヤミンが自身を〈天使〉と重ねていたのと同様の意味では〈天使〉だったのかもしれない。実際、彼らが紡ぎだす映画的時間に包まれているとき、僕らはそこにいくらか〈救済〉めいたものを感じとってはいなかっただろうか? いや、ヴェンダースの挙げた以上の人物にかぎらず、これまで映画や小説、漫画などの文化作品に没入するとき、僕らは何度も〈救済〉の欠片のようなものを感じ取っていたのではなかっただろうか?

過酷な時代のなかで

ヴェンダースが本作においてそうしているように、僕らもまた「うん、彼/彼女は天使だったんだよ」と誰かに語りかけてみたいものだ。自らの評論をとおして〈天使〉を見つけるというわけだ。いや、それだけではない。ベンヤミンも、そしてヴェンダースもまたおそらくはそうであったように、自らを〈天使〉という形象に向けて高めていきたいという願いも、もしかすると僕らの時代においてもものにできるかもしれない。彼らが過酷な時代のなかでそうしたように、僕らも現在の、そしてこの先に待ち受けているだろう、悲惨のなかで――。

ヴェンダースは、『ベルリン・天使の詩』のなかで、いまこそ「ベルリンの壁」が破壊されるべきときだというメッセージを暗示していた(この点については上記の町山氏の解説を見られたい)。そうして映画公開からわずか二年後、本当に「ベルリンの壁」が破壊された1989年――僕は、この年にユーラシアの反対側、日本列島の隅っこで生まれた。そうして生きた少年期、青年期のちょっとした文化史のなかでも、時には〈天使〉のイメージが口を開けたり、翼を広げたりしていた。

たとえば、少年の頃に大好きであったテレビアニメ『デジモン・アドベンチャー』(1999-2000年)、その懐かしきオープニング・ソングでこんなことが歌われていたことを思い出す。曰く、「Stayしがちなイメージだらけの/頼りない翼でも きっと飛べるさ」と(和田光司「Butter-Fly」(1999年、千綿偉功作詞)。「無限大な夢のあとの/何もない世の中」であったとしても、生まれたときから「停滞」が語られる社会であったとしても、僕らはあの頃、自身の頼りない小さな翼でも飛べるという希望を静かに探していた。

そういえば、アニメ音楽であれば青年期にこんな曲も聴いたことがあった。「天使に なるため 毎日だまって/みんなに やさしく してたけど」というのだ(やくしまるえつこ「神様のいうとおり」2010年、Junji Ishiwatari作詞)。〈天使〉になりたいのならば、純粋なる贈与を、つまりは相手に負い目を与えることのないように密かに何かを与えることを、しなければならない。しかしそのような切ない取り組みは、まさに知られることがないためにただひたすら疲労のみを約束するのだろう・・・といったことを、いつのときかぼんやりと考えたことを思い出す――「やっぱり天使なんて目指すもんじゃねぇな」と。それはあるいは、青年期にふさわしい諦念であるだろう。

しかし、いずれ中年になるのだから、そのときはできるだけかっこ良い「おじさん」になりたいものだ。ピーター・フォークやダミエルのように、である。宮崎駿がCHAGE and ASKA「On Your Mark」(1995年)のために用意した短編アニメ作品は、「かっこ良いおじさん」などといった表現ではとても語りきれないが、「どのような生き方をするか」という最も重要な問いの一つを、少年期の僕らに、大人になった自分のあり方を想像させるようなかたちで与えてくれた。

いずれ別の記事でじっくり語りたいが、その作品のなかでCHAGEとASKA扮する二人の警官は、自らの命を賭して、捕まっていたある天使の少女を助け出すのである――何度も失敗しながら、まるで〈歴史の天使〉がきっとそうであるように何度も時間をやり直すようにして。〈天使〉に救われるのではなく、〈天使〉を救うのだ。そのことが、二人の警官にとっての〈救済〉にもなっているのである。

【この映像では、宮崎氏によるアニメ作品は観ることはできない。しかし、きっと心に残る作品なので、各自探してぜひ観てほしい。】

そして、僕らは

ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』において、天使ダミエルのキュートな笑顔の裏には、あの戦争で死んでいった者たちの重々しさが控えている。クレーとベンヤミン――これらの〈天使〉たちもまた、あの戦争の最中、失意のうちに死んでいったのだった。そのことが、そのような数々の死が、そのような過去のかすれた声が、僕らの生きる時代においても〈天使〉を要請し続けている。

しかし、この時代、安っぽい救済論にしがみつくことなんてもうできない。僕らは、もはや神仏や天使や英雄の「他力」に自己の救済を頼るのではなく、かつて自らの髭を引っ張って沼から抜け出したと伝わるミュウヒハウゼン男爵よろしく、自己を「自力」で救済しなければならない時代に生きている。

しかし、その「自力」の救済とは、言うなれば僕らがやつれた〈天使〉たちを救済することをとおして、自らを救済するという媒介的経路を辿ることになるのだろう。言い換えると、僕らは、自らを救済するという任務のなかで、僕らの愛する、あの〈天使〉たちに居場所を与えてあげられなければならないのだ。やはり、そのようにして、僕ら自身が天使的な存在を目指さなければならないのである。

文化のなかには、数多くの〈天使〉たちが静かな眠りのなかで漂っている。どんな些末なものでも、どんな大層なものでも、あらゆる作品のなかに〈天使〉たちは現勢ないし潜勢している。モノクロの世界を静かに見つめる〈天使〉たちがそうであったように、そのような存在のいくらかはきっと都市に棲息しているであろう。都市の雑多さをモティーフにした本ウェブサイトの記事として本文を書いた理由はそこにあるのだが、僕らは都市の、文化の、この濁流のような雑踏のなかであっても、一人の〈天使〉も、ひとつの天使的契機も、おろそかにすることはもはやできない。

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