イサクの2021年映画ランキング・ベスト10

2021年の映画シーンは、どのようなものであっただろうか? 忘れられない作品はあっただろうか? 本サイトで映画評などを書いている「イサク」が選ぶ2021年の映画ベスト10、短評つき。通常の批評記事とは異なりネタバレしないよう気をつけて書かれているが、少しだけネタバレもあるので、観ていない作品の評論を読むときは注意しよう!

Written by イサク

第10位:『ロード・オブ・カオス』

このチャーミングな地獄の青春映画を観るまで、実は観たあとも、僕はブラックメタルどころか、メタル全般をまるで聴いていない。ただ友人に薦められて本作を観ながら、10年ほど前に観た北欧メタルのドキュメンタリーを思い出していた。かつて北欧で信じられていた神話がキリスト教によって貶められたという歴史、それが教会を焼いてまわるメタルバンドの背景にある――『松嶋×町山 未公開映画を観るTV』で紹介されていた映画の内容は、たしかそんなので、意外な背景に妙に納得したっけ…と、うる覚えの記憶をまさぐりながら、勘のにぶい僕は、本作劇中で教会が燃やされるまで、これが当のその話だということに気づいていなかった。

売れるために過激なパフォーマンスを行うが、実は小心者の主人公ユーロニモス(ロリー・カルキン演)。彼の空威張りした視点が本作にチャーミングさを与えている。また同時にホラー映画としての側面も。互いに過激さを讃えあいながら悲惨な結末へと突き進んでいく若者たちを見て、かつての連合赤軍の姿を連想した者も多いかもしれない。両者がそれなりに理解はできる背景――片方はマルクス主義、もう片方はナショナリズムだが――を持っている点も、また核心には若者らしい純粋さや承認欲求がある点も共通している。そうした痛々しい青春の悲喜劇を見事なドラマに仕立てたことが、胸に突き刺さる傑作を生んだのだ。

第9位:『偶然と想像』

2021年、濱口竜介の名前を周知のものにした作品として、『ドライブ・マイ・カー』は長く記憶されるだろう。けれども、一部の人間にはむしろ、『偶然と想像』の方が奇妙な粘着力でもってついてまわるはずだ。三つの短編からなる本作は、僕のその後の何週間かを支配した。ふとしたとき、たとえばただ普通にお皿を洗っているときなどに、あのピアノの旋律とともに思い出してちょっと笑ってしまうのだ。この症状から完全に解放されるのには、あとどれほどの時間がかかるのか。

朝一の牛乳のようにさらっと飲み込める、演劇的空気に満ちたシュールなコメディ作品――これが本作の第一印象だ。長回しの会話劇、カクンと膝が落ちるような笑い、濱口監督がこだわる劇中劇の展開、物語を生成するいくつかの偶然と想像。こういった諸要素はしかし、第一印象を少しずつ変えつつある。本作がチーズのような臭みを放ちながら、脳内で発酵していくのをもうしばらく楽しみたい。

第8位:『ラーヤと龍の王国』

古代の賢人は、質問に答える際に論理の筋道で答えるか、それを物語に仕立てて答えるか自在に選べたという。2021年のアニメといえば、『ミッチェル家とマシンの反乱』などを挙げる人が多いだろうなか、僕が本作を挙げるのは、それがある政治理論を見事な物語に仕立て上げていたからだ。

本作の背後にあるのは、間違いなくマルセル・モース、マーシャル・サーリンズ、デヴィッド・グレーバー(RIP)ら人類学の系譜が提出してきた贈与論ベースの政治理論である。ホッブズ的な自然状態をいかにして克服すべきか――ホッブズの答えは国家であり、モースの答えは贈与であると書いたのはサーリンズだった(山内昶訳『石器時代の経済学』、特に第4章参照)。騙しあい奪い合う相互不信の世界、そのなかでやたらと贈与によって対他関係を構築しようとする龍シスー。ディズニーは、魅力的な人類学者の理論を見事な冒険活劇にまとめてみせたのだ。

第7位:『デューン/砂の惑星』Part1

スター・ウォーズが活劇であるとすれば、こちらは長編詩。かつ2021年で最高のIMAX体験が味わえたのが本作だ。逆に通常のスクリーンで、ましてテレビやタブレットで観ていたとしたら、退屈という砂漠に埋まっていたかもしれない。SFの歴史に輝く古典の3回目となる映像化は、傑作であると同時に、かくの如く微妙なバランスで成立した作品だった。前もって今回はPart1に過ぎないことを知っていたのはプラスだ。知らずに観に行った方は、きっとラッバーンのように怒り散らしただろう。僕はというと、大好きなデイヴィッド・リンチ版、夢あふれる『ホドロフスキーのDUNE』、そしてドゥニ・ヴィルヌーブ監督の過去作をたっぷりと観なおして、本年で一番心身を強張らせて向かった映画館を出たときには、ハルコネン男爵のようにふわふわと宙を浮いているような気持ちになっていた。

ヴィルヌーブの作品には頻出する要素がある。不条理で強大な世界、それに苦しんだり立ち向かったりしながら、やがて世界のなかでの自らの位置を受け入れる主人公、異なる世界(と言語)との境界線、そして母ないし母性といった要素がそれだ。本作を観ていて驚いたのは、こういったドゥニ印の諸要素が『デューン』の物語において、まるでそうとしか描きようがないほど必然的に見えたことだ。この監督だからこその描き方であるだけでなく、これまでの彼の作品群が、原作『デューン』を何度も反芻してきた監督の解釈の広がりを写し出すものだったのだと腑に落ちた。

第6位:『サウンド・オブ・メタル―聞こえるということ―』

メタル映画2本目…と書きかけたが、どうやら主人公ルーベン(リズ・アーメット演)のやっている音楽はメタルではないらしい。事前情報を入れず、『ロード・オブ・カオス』と比べたら面白いかもと思って観た本作は、むしろ映画体験としては同年の傑作『ファーザー』に近かった。障碍や病を負うことで、世界がどのような相貌に変わるのかということを映画が疑似体験させてくれるのだ。メタルは、実は別の意味だったのだ。

徐々にではなく、いきなり音が聴こえなくなるある夜。逆に徐々に生じていくのは、耳が不自由になったという事実の受容だ。ドラムを叩きまくって感じる静寂のなかの微かな振動――次のカットでは、遠くまで響くドラムの爆音が流される。ルーベンが入る聴覚障碍者の自助グループを率いるのは、実際に聴覚障碍を持つ両親のもとで育ち、手話が使えるポール・レイシーという俳優が演じるジョー。彼の態度の端々からは、そのコミュニティを維持する苦労が伝わる。対照的に聴覚障碍者集団にある優しさや楽しさを伝えるダイアンを演じたのは、今年『エターナルズ』でも印象に残った聴覚障碍を持つ俳優ローレン・リドロフだ。そうして映画が終わったとき、世界は少しだけ感じ方の異なるものになっているかもしれない。僕は、少しでも手話を学ぼうと思った。

第5位:『スウィート・シング』

知り合いにすすめられて観に行った本作は、2021年で最も「やっぱり映画っていいなぁ」という気分にさせられた一本だった。監督のアレクサンダー・ロックウェルは、25年ぶりに日本公開された今回の監督作で、自身の二人の子どもを役者として撮るという方法を選んだ。2013年の日本未公開作品『Little Feet』(筆者未視聴)に続く2度目の試みだ。そのせいなのだろうか、主役であるビリー(ラナ・ロックウェル演)とニコ(ニコ・ロックウェル演)の姉弟は、演技臭いところがまるでなく、かといって現実よりはもっと詩的な、「映画のなかに生きている」とでも言うべき特有の気配を纏っていた。その点は、劇中で友人となる少年マリクにも言える。演じたジャパリ・ワトキンスは、スタッフがスケートボード場かどこかで見つけてきた一般人らしい。姉弟と行動をともにするこの少年の纏う雰囲気もまた、まるで木漏れ日のように儚く揺れている。

MCU作品や『デューン』など、製作費1億ドルを超えるような大作ではたしかにそれだけゴージャスな映画体験を楽しめることも多いが、本作のような低予算の傑作においてこそ感じる映画的時間というものもある。誰かがどこかで映画を作り、それをまたどこかの誰かが観て楽しむ――このシンプルな交通を忘れないようにしたい。

第4位:『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

西部劇とは不思議なものだ。1992年の『許されざる者』以降、もう本当に面白い西部劇は生まれ得ない時代に…云々とは何度も話された話題だが、結局そのあとも何年かに一本は傑作西部劇が提出されているような気がする。名匠ジェーン・カンピオンが脚本・監督を務めたこのNetflix作品は、2020年代という西部劇全盛期から半世紀以上が過ぎた時代を代表する一作となるだろう。死んだ師に対し尊敬を超えた感情を抱くフィル(ベネディクト・カンバーバッチ演)は、その感情を秘匿するようにして強圧的な「男らしさ」を周囲にまき散らす。その嫌味な圧力のもと、徐々に酒浸りになっていくフィルの弟の妻ローズ(キルスティン・ダンスト演)。その息子で、心優しきひ弱な青年、と思いきや、不気味なほど冷徹な側面も持つピーター(コディ・スミット=マクフィ演)。この三人が織りなす物語は、荒野のようにざらついた緊張感に満ちている。

本作におけるロープの持つ両義性、あるいは音楽が果している役割など、じっくり考えてみるべき要素は多いが、ここで注目を向けておきたいのは本作が持つ動物論的な側面である。牛、馬、兎、そして犬――これらの動物が人間との関係のなかで、あるいは作品内の表象としてどのように位置づけられているかを批評的に考察したとき、本作の題名が持つ、聖書の文脈以上の意味合いが浮かんでくるはずだ。

第3位:『最後の決闘裁判』

いわゆる「有害な男性性」を描いた作品は、2021年にいくつもあったが、ひと際目を引いたのは御年84歳になるリドリー・スコット監督による本作であった。彼が生涯をかけて描いてきたテーマの一つとしてのある種のフェミニズム。本作はそのなかでも頭一つ抜けた傑作だ。黒澤明監督『羅生門』を舞台を変えて描いたオマージュ作品であるばかりか、『羅生門』が持つジェンダー的問題点に対する批判的応答にすらなっていて、本作の魅力の大部分がそこに由来している。

第一章、第二章で描かれる二人の男性によるそれぞれの真実。そこで二つの男性性の争いをコミカルにすら思えるタッチで描くあたりには、映画こそがよく為しうる楽しさがたっぷりと詰まっている。だからこそ、第三章で二人の男性に苦しめられる女性マルグリット(ジョディ・カマ―演)の視点を「真実」と宣言する描き方に、映画の面白さが減じていると感じる人もいるのだろう。しかし、そこにこそ『羅生門』への応答が込められており、だからこそ決闘のあとの、あのマルグリットの疲弊した表情、そして赤ん坊を見守る最後の場面が、本作を閉めるに相応しい見事な切り返しとなっているのだ(『羅生門』が、いつの間にか側にいた赤ん坊を拾って育てるという奇妙なヒューマニズムで終わっていたことを想起しよう)。

第2位:『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』

みんな大好きジェームズ・ガンが今年も魅せてくれた! ディズニーとのごたごたのいわば結果として誕生した本作を観ると、トロマ出身である彼がディズニーにおいてどれほど「表現」をセーブさせられていたのかが分かる。実はそこまで多くはない過激な暴力シーン、オフビートなギャグ、ボンクラたちによる熱い展開、そこかしこに挿入される軽やかな批評性、そしてお決まりのカッコつけて並んで歩く“ガン・ウォーク”。ガン作品で観たいと思えるあらゆる要素が、まるで駄菓子パックのように詰められた、子ども向け民主主義教育にもピッタリの作品だ(R指定だけれども)。

最後の決戦シーンで登場する鼠たちの活躍を観ながら、僕は半世紀以上も前に書かれたあるテクストを思い出していた。平岡正明「ねずみの夢」である(『犯罪あるいは革命に関する諸章』所収)。あの鼠の生き様に革命家のあり方を見出したアジテーション文が、奇想でも夢想でもなく、むしろ普遍的なある種の力の結合の仕方や世界に対する向き合い方を訴えたものであったことを本作は知らせてくれた。アルゼンチン映画の『明日に向かって笑え』も描き出していたように、さまざまなボンクラたちによる工夫とユーモアと狡知と連帯のイメージが、民主主義者が見るべき夢なのだ。

第1位:『ドント・ルック・アップ』

現代版『博士の異常な愛情』というべき傑作ブラックコメディ! 『グッドフェローズ』以降で最高クラスの編集センス! 『アルマゲドン』の皮を着た『26世紀青年』! 本作(アダム・マッケイ監督・脚本)を観ながら、頭のなかを去来したのはまさにこういった作品だった。冒頭、院生ケイト(ジェニファー・ローレンス演)が“Wu-Tang Clan Ain’t Nuthing ta F’ Wit”を諳んじながら(!)作業をしているシーンでこのNetflix映画をちょっと好きになり、直後にボードで彗星の軌道を確認して「ひぃやっ!」と声をあげるシーンで大好きになり、ホワイトハウスの待合席でオープニングが始まったときには、これがAll Time Best級の作品になる予兆に歓喜していた。

次々に登場する糞みたいな人物たち。このままだと地球が滅びるという事実が偽情報とエンタメの洪水に流され、誰も真剣に取りあげないというコミカルで絶望的な事態。個々人も社会も愚かさという点で底が抜けてしまった現代を、これほど面白く風刺した作品が生まれたことが喜ばしい。笑える――そのすぐ側で戦慄する。これだけ馬鹿ならもう滅びるしかないと思う――そのすぐ側でこの星の生き物たちの営みを想起する。右にも左にも呆れる――そのすぐ側で「どっちもどっち」的な言い方に留まれないことに気づく。ケイトとともにぼったくり中将のことを考えながら、本作のユーモア溢れる批評力の由来も考えるべきだ。なぜなら、真剣さを欠いた時代に必要な対処法は、真剣なばかりの叫び声ではきっとないのだから。

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