コロナ禍の都市・断章

数多くの問題を、繰り返し私たちの前に投げかけてくるコロナ禍のもとで、筆者は、そこで考えたことを一つひとつメモに取っていった。本記事は、そのなかからいくつかを選んで断章形式に並べたものである。コロナ禍に起動させるべき政治的思考のあり方を求めて。

Written by イサク

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世界を覆ったコロナ禍の、いわば序章にあたるであろう部分、すなわち中国中部の都市・武漢にて新たな感染症が発生したことが報道されてから、日本ではダイヤモンド・プリンセス号をめぐる騒動を経て、世界中の都市がロックダウンなどの対応に大忙しになるまでの間――この間にあらかじめ危惧されていた問題は、ちょうど人文学書の序章がそうであるように、この先に展開されることをある程度は予告していた。独裁的国家の強権発動と民主主義国家の混乱、曖昧な行動制限基準の設定、経済優先派の登場、陰謀論者のから騒ぎなどがそれである。

しかし、人文学書の序章がしばしばそうであるように、真に肝心なポイントはここでは隠されていたのである――すなわち、これまでにはないほどの、そして決定的な、〈信用〉の喪失である。たんに医学の専門家の話をきかない素人論者が暴れていることを指すのではない。あらゆる分野の専門家の、政治家の、警察の、あるいはむしろすべての大人の〈信用〉は、失われてしまった――〈信用〉は、強制力に依らない貴重な社会的力の一つであったのに。これがどれほど重い後遺症を社会に残すかは、まだはっきりしていない。結論は、まだ書かれていないのである。

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コロナ禍は、世界各国の政治的傾向と実際的な行政能力を露わにし、比較の機会を与えるという点では、昨今の大学の政治学者よりも優れた腕前を見せた。そのなかでもひときわ目を引いたのは、次のような対比模様であった。政府が緊急事態宣言を出すことを決めたとき、ドイツでは、為政者が演説で自国民に向けて説得を試みた。「この大規模なロックダウンは、みなさんの自由と権利を大幅に制限するものです。権利の侵害です。だが、いまはどうかこの制限を受け入れていただきたい」というのがその主旨であった。国民は、渋々それを受け入れたのである。それに対して、先にコロナ禍を受けていたはずの日本では、最初、政府はなかなか行動制限などの対応をしようとしなかった。中央政府と首都行政府主催で、大規模なスポーツ大会を開きたかったことがその決断を遅らせたのだ。国民は政府の無策と勝手を叱りつけた。そしてこう言ったのである。「私たちの行動を強制的に制限してください。自由と権利を一時停止してください」と。こうしてようやく政府は決定を下したわけだが、そのあともひたすら続くグダグダぶりは鳩でも記憶しているとおりである。

かたや個々人の自由と権利の意識を背景に、政治家によってそれを制限するという危険をあえて行う決断が表明され、かたや個々人の自由と権利の意識の不確かさを背景に、口ばかりは勇ましく、実際は自らで決断を下すという意志が薄弱なために責任の意識も薄弱な政治家に対し、国民の方から手足を縛る申し出がなされる――この見事な対比は、70年以上も前にナチス・ドイツと大日本帝国を比較して、後者に「無責任の体系」を見てとった政治学者・丸山眞男の議論を想起させるものである。終戦後の裁判で、ナチ高官がニヒリスティックに自らの決断を肯定するところで、日本の軍人たちは「当時は一般的にそういった雰囲気であったもので、わたくしとしましても、つい…」というような具合であった。誰が決め、誰が責任者であるのかも本人たちにとっては不明瞭だったのだ。その後の時代に、丸山の考察に対するさまざまな批判が出されたにもかかわらず、そういった批判者たちのアレコレ論よりも、丸山の診断結果の方がどこか芯に届いていたというわけだろう。日本は――そして、いくらかはドイツも――根底において大して戦時期と変わっていないのではないかという疑いが、日々の騒動を前に、まるで発熱にうなされているようなぼやけた頭にも浮かび始めている。

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これまで政治理論家や批判的評論家が政治史のなかで繰り返し発見してきたことの一つに、次のようなものがある。すなわち、大規模な災害が起きたり、対外的緊張が高まったりしたときは、危機に対処するために政府へと権力を集中することに賛成する人びとが増えるので、政府は、そういった機会に自らを強化しようと躍起になるということ、また逆に、政治家にとっては危機こそが権力の制限を外すチャンスなのだから、政治家はしきりに危機を叫び、ときには現に危機を引き起こしてそれを持続させようとまですること、である。この危機に便乗した強権主義化は、たしかにこれまで世界中で確認されてきた事実である。そして今回のコロナ禍でも、政府の対応にその危険を読みとって批判した政治理論家も出てきたのであるが、実際はというと、事態はそうでもなかったのではないか? むしろ多くの国で見られた現象は、政府はたしかにこの機会に便乗しようという動きを見せたものの、結局、上手く機会を活かすことができなかったという事態である。とはいえ、それで安心するわけにはいかない。というのも、この失敗の原因はコロナ禍の性質などにもいくらか求めることはできるが、そのなかでも最も容易に考えうる最悪のものは、コロナの悪質さ以上に、対応すべき政治の側の質が、理論的観察の見取りを裏切るほどに落ちてしまっているため、というものなのだ。これはありそうなことである。特に民主主義国家では、コロナ以前から、インターネットを介していろいろな精神的感染症に罹りやすくなっていた主権者を土壌に、熱にうかれたような政治家が目立つようになっていた。

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政治家たちの主な仕事――標語や新語をつくること。これらの言葉の目的は、人びとを動かすことではなく、政治家があたかも社会状況に素早く対応しているかのような錯覚を人びとに植えつけることにある。実績ではなく、印象こそが彼らの商売道具なのだ。ただし、粗製濫造には注意。安手で買ったまやかしほど、足のはやいものはない。

ステイ・ホーム――政治家が人びとに向けてこれを口にするとき、彼/彼女らのなかには、かつて犬を飼っていた頃のあたたかな思い出に浸る者もいるのではないだろうか?

ソーシャル・ディスタンス――英語圏からこの語を、「ソーシャル・ディスタンシング」と間違えて輸入したとき、輸入者たちは、実はこの語の意味をよく理解していなかった。そして実は、「ソーシャル」という言葉の意味も。

3密、5小――この後者の標語は、首都の知事に忠誠をつくすある部下が考え出したというもっぱらの噂である。知事は、自分の名前の頭文字(しかも×5!)だということで大層気に入ったそうである。知事が喜んだ! 結構である。

人流――物流以外には、株価や利益といった語だけがこの世界を語る際の基礎的な概念だと思っている類いの連中は、なぜ長い歴史のなかでこの語が使われていなかったのか、首を傾げたそうだ。

自助――これは新語ではないが、今回の混乱のなかで、政治家たちが(なかば逆ギレのように)この語を打ち出したとき、彼らは、自分たちが危険な賭けに出ていることに気づいていなかった。というのも、危機に際して、自力でどうにかすればよいという話になるのであれば、国家を構成している意味はなくなるからである。税金を払っている意味も、政治家に無駄に高い賃金や助成金を与えてやっている意味も。もっとも、政治家の地盤や家筋、その入れ替わりが凝固してしまっているところでは、政治家は自らの立場を職業ではなく身分だと思ってしまうのであって、そのようなところでは、人びとから税を搾りあげることは当たり前であっても、人びとに「施し」を与えるのは必ずしも自らの義務ではないと考え出すものなのだ。「自助」を強制するという矛盾。それがこういった手合いのお好みなのである。

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暗い日々が続くなかで徐々に明らかになったことの一つに、コロナウイルスは、生者と死者を分けるだけでなく、富者と貧者をもさらに苛烈に分けていくという点がある。仕組みは簡単で、テレワークがやりやすい業種の方が金を手に入れやすく、また財産をビッグテックの株にでも変えていれば、寝ているだけで資産が増殖したのに対し、低賃金労働の方はテレワークがしづらいものが多く、当然、株を買う財産の持ち合わせなどないのである。前者には、社会になくてもたいして困らない金転がしのトレーダーやらブローカーやらが無数に含まれており、また感染の危険を避けやすかったのに対し、後者には、社会になくてはならない職業が数多く含まれており、にもかかわらず、感染を避けられずに死んでいく者も多い。しかし、これは、あまりに馬鹿げた現実ではないだろうか? アメリカなどで顕著に見られたこの真逆のあり方は、自由や平等といった近代的理念よりも、大昔のユーラシアに栄えた王朝の邪悪な身分制理念を連想させる。そういった王朝の優位者たちが劣位者に向けてしたように、現代資本主義世界の優位者たちも、あらゆる神話や誤謬のもとで自らの立場を正当化するのであるが、コロナ禍は、その必要を、彼らに再び思わせたことだろう――逆に低賃金労働者には、王朝討伐の必要を。

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大人の〈信用〉は、どのような株価にも増して暴落してしまった。そのことに僕ら大人がまだ十分に気づいていないことは、より一層の危機を招くかもしれない。現在、世代としての大人の中心層である団塊(ベイビー・ブーム)世代は、彼らの世代に属したはずの、あらゆる音楽や映画が描いてきた精神をも裏切ってしまっている。外を出歩く若者を責める声は、こういった世代から噴出するのであるが、「大人は回顧趣味の付きまとうオリンピックを強行したのに、私たちのちょっとした気晴らしは許されないの?」と若い世代が反論したとしても、道義に照らすのならば、いかなる再反論も許されないだろう。コロナ以前から、世代間の経済格差と思想対立は徐々に明確になりはじめていた。古い人種主義や性差感覚を認めてきた大人たちのあり方は、若い世代には嫌悪以外の何も感じさせない。大人たちは、結局、壊れた社会制度やいまだ解決しない戦争責任問題、使い果たされてボロボロの地球環境といったものばかりを遺産目録に入れている。自分たちは老後の預貯金をたんまりと貯めておいて、「君たちも老後のことを考えて善処するといい」などと語る老人は、若い世代からすれば恥知らずにしか映らない。にもかかわらず、大人たちは、まだ自分が若い世代を説教する立場にいると思い込んでいる。そうしてコロナ禍が始まった頃、若い世代がこのウイルスを「ブーマー・リムーバー(団塊除去剤)」などと悪辣にも呼んだことも、ある程度は仕方がなかった。そこに大人世代の政治家たちの無為無策がさらに乗っかるわけだから、大人が〈信用〉を失うのも当然のことなのである。実際に、〈信用〉に値する内実の持ちあわせなど無いのだから。

この現実に対し、「うちの子は私を尊敬している」調の反論をすることは、間の抜けた返事というしかない。親が子の面倒をしっかりみるかぎりは、個々の親がわが子に敬意を要求することは可能である。しかし、世代としての大人がもはやその資格を失いつつあることは、別次元の問題なのだ。若い世代は、もはや年上全員に漠然とした敬意を示すのではなく、敬意に値する年上を一人ひとりと指折り数えて知り合っていくしかない。

もっとも、われらが優しき若者たちは、「それでも大人のことは尊敬していますよ」と答えてくれるかもしれない。しかし、どうか決して僕ら大人をこれ以上甘やかさないで欲しい。大人であるために求められていたはずの事柄を、生活費を稼ぐという点以外では何も身に着けてこなかった大人たちに、入念な批判を繰り返すことを恐れてはいけない。というのも、それで大人は変われなかったとしても、批判者である若者自身は自己をより高次の精神へと導く機会を持てるからである。そのためには、次のような点にも注意した方がよい。1970年代以降、かつての学生運動を自己否定してきた大人世代が、否定できたからといって別に学生運動家より優れた能力を持ちえたわけではないのと同様に、いまの大人たちを否定することが自己により優れた視点を与えるとはかぎらないのだ。言い換えると、自己をより高めるものとしての批判の技法を獲得しなければ、愚かな大人たちの二の舞なのである。その点で、大人世代は参考にはならない。その大人が主導する公的空間に助けを求めることもできない。若い世代にいま必要なのは、精神的な「自助」なのである。

※本記事の続きは、不定期連載として、いずれ続きを本サイトで公開する可能性があります。

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