ディズニー・リゾートのすぐ外で

家族とは何か? 子どもにとって世界とは何か? ショーン・ベイカー監督『フロリダ・プロジェクト』(2017年)は、著しい貧困状態へと陥った若いシングルマザーとその娘を、独特な視点から描き出す。大人とは異なる、子どもの世界のあり方を考える評論。

Written by イサク

貧困は何色?

子どもを育てるのならば、親には色々な責任がついてまわる。身のまわりの衛生も大事だし、道徳や規範を示すことだって必要だ。安全な遊び方を教える必要だってある。しかし、そんな色々とは関係なく、子どもたちには子どもたちの〈楽しい世界〉が存在するのであって、それを子どもたちの低い目線から、しかも子どもの視点にふさわしいカラフルさでもって劇映画に仕上げたのが、ショーン・ベイカー監督の『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法(The Florida Project)』(2017年)である。観ている側は、まるで子どもの世界を覗くようにして、映画のなかにあっという間に没入することになる。

主人公は、ムーニーという名の6歳の少女である。母親ヘイリーとともに、フロリダのディズニー・ワールド・リゾートのすぐ側にあるモーテル「マジック・キャッスル・イン・アンド・スイーツ」という名の紫色のモーテルに住んでいる。ディズニー・リゾートの周辺には、観光客目当てにメルヘンチックな見た目のモーテルが数多く建ち並んでいる。

楽しい夏休み。そんなところで毎日を過ごすのは、まるで夢のような生活であろうか?――実は、気楽にそう言ってすませることはできない。むしろ、それどころではないと言うべきだろう。というのも、ムーニーたちがここで暮らしているのは、住む家がないからなのだ。二人きりのこの家族は、貧困のどん底にいる。

すべての始まりは、2008年から世界中の経済を大混乱させた、いわゆるリーマン・ショックを筆頭とするサブプライム・ローン問題である。その詳細は、どこかの経済解説サイトにでも任せることにして、ムーニーたちにとっての意味をいうならば、よく分からない誰かのマネーゲームに巻き込まれて、住居を失うか、あるいは家賃が払えない状況へとなってしまった、といった具合だ。

そんななか、安いモーテルは、一泊数千円はかかるとはいえ、保証金はいらず、たとえクレジットカードの支払い延滞歴があったとしても保証人なしで泊まれるということで、住居のない貧困層にとって、どうにか雨露を凌ぐ生活の場となったのだ。ベイカー監督は、この映画の制作動機は、「共同脚本・製作を担ったクリス・バーゴッチが母の引っ越しの手伝いでフロリダを訪れた際、ディズニー・ワールドへと続くハイウェイ192号線沿いの安モーテルが軒並み、低所得層の住みかになっていると知り衝撃を受けたのがきっかけ」であったと語っている(The Asahi Shimbun GLOBE+記事、「アメリカの厳しい格差 元『隠れホームレス』の子役と映し出す~『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』監督に聞く」2018年5月16日https://globe.asahi.com/article/11558476)。そこから約3年かけて取材を重ね、本作を撮った。

ムーニーの母ヘイリーは、シングルマザー。まだ見た目に幼さが残る年齢。定職には就いておらず、観光客相手に詐欺まがいの商売をやるなどして糊口をしのいでいる。宿泊費は滞納しがちだ。まだ遊びたい盛りで、ときには友人と繁華街に繰り出す。ムーニーは、十分に面倒を見られているとはいいがたい。それどころか、劇中、ヘイリーは、ムーニーを部屋のバスルームに留めて、大音量の音楽で誤魔化しながら売春までしてしまう。世間からすれば、充分、ネグレクトの範疇に入る案件だろう。

しかし、6歳の少女ムーニーにとっては、そんな事情は関係ない。彼女は、自らの日々を冒険と発見といたずらで満たしている。階下や隣のモーテルの仲間たちを引き連れて、彼女はさしずめここらの顔役といった具合だ。子どもたちだけで歩きまわり、たとえば、タダで食べられるアイスクリーム屋――というのも、訪れた客に適当な嘘をつき、ちょっとずつお金を集めてアイスクリームを一つ買って、みんなでまわして食べるのだが、そういった楽しめる場所と方法をたくさん知っているのだ。彼女の野性的な知恵とたくましい行動力は、ハックルベリー・フィンや、終戦直後の焼跡の日本を生きた浮浪児たちを想起させる。

【出典:『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』。】

子どもたちのいたずらは、なかなかひどいものだ。モーテルの二階から知らないご近所さんの車のボンネットに向けて、唾を飛ばし合って遊んだりする。やられる側からしたら、たまったものじゃない。おまけに相当危なっかしい。ワニのいる沼地を歩いてまわり、空き家に火をつけるようなことまでしてしまう。大人としては、無責任な親も含めて厳重注意をしなければならないことだろう。

しかし、大人の世界では「貧困」であり、「ネグレクト」であり、「迷惑」であったとしても、ムーニーたちの知恵と冒険心は、厳しい状況のなかで、彼女たち自身が勝ち取った戦利品なのである。たんに「指導」や「保護」を受けるだけではない、子どもという存在のあり方が彩り豊かに描かれていく。彼らの目に映る世界は、ビー玉のようにカラフルだ。

大人と子ども、二つの世界の折衝地帯

僕は、ベイカー監督の作品は本作も含めて、日本公開されている三本しか観ていない(ほかは『チワワは見ていた ポルノ女優と未亡人の秘密』2012年と『タンジェリン』2015年)。どれも工夫に富んだ低予算映画であるが、少なくともこれらの作品にはある共通した主題があるように思える。すなわち、「主人公ないし監督本人(および想定される一般視聴者)が自分の知らない世界と出会う」というのがそれだ。そう言うとあらゆる映画に当てはまりそうであるが、ベイカーの場合、その「異なる世界に対する尊重」自体が主題となっているのである(以下の関連記事も参照)。

自分が生きているのとは違う世界から物事を見つめてみる――ベイカーが『タンジェリン』、『フロリダ・プロジェクト』と長編2作続けてほぼ素人を役者として起用していることも、この監督の視点の持ちようと関係しているのだろう。ヘイリー役のブリア・ヴィネイトは監督がインスタグラムで見つけ、ムーニーの友人役を演じるヴァレリア・コットとクリストファー・リヴェラもともに新人。2008年に生まれたクリストファーは、実際に人生の大半をモーテルで暮らしてきたという。ムーニーを魅力いっぱいに演じるブルックリン・プリンスこそいくらか演技経験があるものの、その演技は全く「演じている」という様子を感じさせない。こうして本作は、ほとんどドキュメンタリーを観ていると錯覚するほどのリアリティに包まれる。

【映画を観たあとにこのインタビューを観ると、ブルックリン・プリンスの大人びた対応に驚愕間違いなしだ。】

もしムーニーのように子どもたちが危険で迷惑な行為ばかりをしており、親もまるで注意していない様子を見て、強い不快感と怒りばかりを抱いてしまうのだとしたら、自分は本当の意味では〈大人〉になれていないと考えるべきかもしれない。ベイカーの示してきたように、異なる立場から物事を見てみるという能力こそが〈大人〉の条件なのだから。子どもを叱るという大人の責務も、しばしばそこらの親や教師に見受けられるように、彼らに対して感じた苛立ちを「教育」にかこつけてぶつけてしまうようでは駄目だ。そうではなく、子どもの世界からの物の見方に一度身を寄せた上で、それとは違う世界のあり方と折衝を行う、その方法を示すものでなくてはならない。それが〈大人〉になるということだ。たんに生活費を稼げるようになったり、世間の秩序とやらにへいへいと従うようになったりすることでは断じてない(教育社会学が提出した研究書のなかでも、次の作品は以上の点について思考を深めるのに最適な仕事である)。

その意味で、この物語に〈大人〉の目線を提供してくれるのは、ウィレム・デフォー扮するモーテルの管理人ボビーである。ボビーは、モーテルの子どもたちをよく見ている。モーテルに住む子どもたちを無愛想な顔ながら優しく見守り、ときには叱る。危ないときには助ける。子どもたちの目線からだけでは分からない、彼らの置かれた危険な状況や、公共住宅にすら入れないでモーテルに住みこむ貧しい人びとの生活の厳しさを、ボビーの視線が描いていく。デフォーの演技は素晴らしく、それを観るためだけにも本作を観る価値があるほどだ。

【同上。】

夢の国への入場券

ボビーは、ヘイリーのことも気にかけている。それに対して、まだまだ子どもといった感じの母ヘイリー。しかし、親としてはほとんどネグレクトに近いかもしれないが、大人になりきれていない分、子どもたちの世界には近い。ムーニーは、そんな母親が大好きなのだ。ボビーがヘイリーとムーニーを見守り、ヘイリーが元気にムーニーと過ごしているうちは、少なくとも少女ムーニーにとって世界はキラキラと輝き続けるだろう。

ところが、世間の足音は、厳しくも親子のもとへと近づいてくる。ヘイリーが友人と喧嘩し手を出したことをきっかけに、親子のところへ児童家庭局と警察が訪れるのである。彼らは、ムーニーを保護しようと試みる。ムーニーは、最初は戸惑っていたものの、次第に「行きたくない」「ママと離れたくない」と泣き出してしまう。強い精神を持ったあのムーニーが、泣き出してしまう――。

社会秩序の論理として、また児童保護の倫理としても、ネグレクト状況にある子どもを保護することは必要である。世間がそう見なすように、ヘイリーは親としての充分な能力を持っていないのかもしれない。このままだと、ムーニーがどのように成長していくことになるかも心配だろう。しかし、この、一応は「正しい」世間の論理、大人の論理は、ムーニーの世界を完全に破壊してしまうものである。彼女の世界は、より強大な世界の論理によって、いかなる折衝の余地もなく征服されてしまう。「現実」が、彼女を追い詰める。僕らは、この光景をどのように見ていればよいのだろうか?――分からない。

しかし、ムーニーと、その友達ジャンシ―(ヴァレリア・コット演)の出した答えは意外なものであった。彼女たちは手を取り合って走り出す――すぐ側にあるにもかかわらず、おそらくは二人とも一度も入ったことのない、あのディズニー・リゾートに向けて。チケットを買うこともなく、門をくぐって走り抜ける二人を、これまで完全に抑えられていた音楽が鳴りだして盛り立てる。ドキュメンタリー風の映像作品から一飛びにフィクションの領域へ、厳しい世間の「現実」から子どもたちのための「幻想」へ――この二重の飛躍が物語の終幕を飾る。子どもたちは、この飛躍によって、過酷な現実から自らを救済したのであった。そのことによってムーニーたちは、一層深く僕らの記憶に残り続けることになるだろう。

【同上。】

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