大人になるための〈別れ〉

1999年の短編映画『デジモンアドベンチャー』と2020年公開の『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』を取り上げる本評は、大人になるために必要とされる〈別れ〉の契機が現代において帯びた困難な側面に光を当てる。私たちは、どのようにして「大人」になることができるのか?

Written by イサク

思い出からの離脱

日本列島において、1990年代末から2000年代初頭という世紀転換の時期を幼少期として生きた世代であれば、「デジモン」に思い出がある者はそれなりに多い。そのなかには、携帯育成ゲーム「デジタルモンスター」シリーズよりも、劇場版およびテレビアニメの「デジモンアドベンチャー」シリーズの方をはるかに思い出深く感じている者も数多くいるだろう。その世代にとってデジモンは、少年少女期特有の冒険心を追想させるのだ。

劇場版第一作の『デジモンアドベンチャー』(1999年)は、東映アニメフェア中の1作として制作された。そのために上映時間わずか20分であったにもかかわらず、世紀末――すなわち世間がニヒリスティックな空騒ぎに狂ったり、世界が滅びそうだったりと、切り立った山稜のようだった僕らのあの幼少期に、あの作品は登頂の記念旗を打ち立てた。

【出典:『劇場版デジモンアドベンチャー』。アグモンはテレビシリーズより遥かに大きく、気のいい相棒というよりは、何を考えているか分からない点も含めて、はっきりと爬虫類だった。】

東京都練馬区光が丘のパッとしない団地の映像に、ラヴェル作曲の「ボレロ」が響き渡る。パソコンの画面からは怪しげな光が漏れる。ベッドの下からはシャボン玉が吹き出し、団地の上の夜空にはデジタルな記号が浮かびあがる。アパートの廊下の電灯はまるで「ボレロ」に合わせるかのように点滅し、2匹のデジモンの闘争を盛り立てる。

それは、列島の端の山奥に生きる小学生にとって、東京タワーや渋谷スクランブル交差点やお台場フジテレビといった浮遊した記号とは異なる、ある種の現実性を帯びたはじめての「東京」の出現だった。「ボレロ」の流れるはるか遠くの郊外の団地に、はじめて人間の生活する現実的な場所性を感覚したのである。

そこで見てとれる生活感が現実的であればあるほど、デジモンたちの纏った異常なる現実感もいよいよ鮮明なものとなる。2メートルはあろうという体格をしたアグモンは、背中に主人公・太一の幼い妹・ヒカリを背負いながら、その恐竜的に無感情な瞳に街の電光を映しつつ、容赦なく自動販売機や公衆電話を破壊する。その光景は、すでに流行していたポケモンのモンスターよりも、はるかに『ジュラシック・パーク』(1993年)の恐竜を連想させるものだった。

【同上】

いや、郊外の住宅街で激しくぶつかり合うグレイモンとパロットモンの姿は、恐竜映画というよりも、やはり怪獣映画のそれに連なるものであっただろう。アグモンは太一とヒカリを守るようにしてグレイモンに進化し、猛々しく咆哮する。グレイモンとの衝突でパロットモンの嘴は割れ、泡のような体液が路上に飛び散る。リアルな郊外の均質な道路のうえで、急に戦闘を開始する2匹の怪獣は恐ろしくも見えたが、その奇妙な現実味、きっとあの社会状況と年齢でしか感じ得なかっただろう現実味こそは、実は、僕ら子どもたちがあの時に待望していたものではなかっただろうか? 物語のなかで2匹のデジモンを子どもたちだけが目撃したように、この破壊的な現実への待望こそ、大人には秘密の子どもたちの集合心性であった。

それに続くテレビアニメシリーズ『デジモンアドベンチャー』(1999-2000年)、そして劇場版第2作『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』(2000年)も、僕らの世代にとっては楽しい思い出である。アグモンたちは劇場版第1作目の、ぎりぎりコミュニケーションがとれるかといった緊張をまとった怪獣的・恐竜的存在感はすっかり失い、ペラペラと人語を話すようになり、そうして主人公たちにとって、90年代以降に流行した「仲間」だとか「友達」だとかという存在へと変貌していった。それは確かにデジモンをありきたりなコンテンツへと近づけたが、いくつかのデジモンの奇抜な、90年代の空気感をたんまりと抱えたデザインとあわせて、それはポケモンの時間的にも空間的にも拡大展開していくあり方とは対照的に、世紀転換期の気配を強く想起させる独特のイメージへと熟成していくだろう。

したがってまた、特定の時代の思い出を託しやすい構造がゆえに、幼少期の思い出との離別が問題となるときには、デジモンは一層激しく、その主題を抱えることができるはずである。「大人になる」ためには幼少期との離別が必要であるとすれば、すなわち、たんに新たな人や物との出会いを蓄積させてゆくだけでなく、何らかの離別ないし何かからの離脱が必要であるのだとすれば、デジモンは僕らにとっての一つの試金石になる。

成人式のない時代

2020年に公開された『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』は、まさにこの、大人になるための〈別離〉をテーマにした作品であり、しかしそうでありながら、微妙に問題の核心を取り逃がしてしまっているように思われる。しかしだとするならば、思い出にいつまでも浸っているわけにはいかず、〈別離〉を〈別離〉として獲得しなければならない僕らとしては、むしろこの作品のどこに隙があったかを考えることで、その用意としなくてはならない。

本作では、かつてのシリーズで活躍した太一やヤマトらはすでに大学生の年齢になっている。それぞれのパートナー・デジモンとの関係は続いており、いわゆる「選ばれし子どもたち」は自らの相棒と日々を生きている。

彼らの成長とは対照的に、本作には、思い出のなかに眠ったかつてのデジモン作品群へのオマージュと追想が散りばめられている。たとえば物語冒頭は、あの1999年の短編映画『デジモンアドベンチャー』に捧げられている。舞台は中野駅北口周辺。電子機器が不気味に故障するなかで戦う相手は、あのパロットモンなのである。また本作の敵役であるエオスモンとの戦いは、『ぼくらのウォーゲーム』を連想させるものとなっている。その舞台となる仮想空間では、「選ばれし子ども」であった者たちは幼少期の大冒険の思い出へと浸っており、現実へと目を覚ますことを拒否している。その構図自体が、幼少期のコンテンツからいつまでも離れられない「大人」たち(本作の観客たち)と重ねられているわけだ。

【出典:『劇場版 デジモンアドベンチャー Last Evolution 絆』。】

本作の物語に〈別離〉の契機を与えるのは、突如告げられた新たな設定である。簡単に言うと、デジモンたちは人間の世界で生活をしたり、戦うために進化を繰り返したりすることで、パートナーとの関係のなかに存在するある種の限られたエネルギーを消費しており、それを使い切ってしまったときには二度とパートナーとは会えなくなってしまうというのである。太一とヤマトは、それを知ることになるけれども、最終的にアグモンとガブモンをエオスモンと戦わせることを決意、見事勝利して仲間たちを救いだすというわけだ。その代償として物語の最後に訪れるのは、当然、長年連れ添ったアグモンおよびガブモンとの〈別れ〉である。

大人になるための〈別れ〉という主題は、古典的と言えるもので、アニメーション作品に限っても、たとえばドラえもんシリーズにおけるのび太の成長とドラえもんとの別れや、2001年の一大傑作映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』といった作品でも描かれてきたものである。本作は、まさにそれをデジモンで描こうとした試みだ。秋山ナオト氏は、本作についての評論のなかで、いつまでも作られるリブートやリメイク作品、そしてそれにいつまでもしがみつくファンたちの不健全な関係を(自己)批判したうえで、「この映画は全力で、物語を終わらせ、キャラを成仏させるために殺し、それによってファンの業とも言える呪縛を解こうとしている。そこにこそ、稀有な美しさがある」と評している(下記リンク参照)。

けれども、むしろ本作は、微妙にテーマの核心部分を上手く設定できておらず、その結果として重要なモメントを見逃してしまっているように思われる。というのも、子ども時代をともに過ごした相棒や環境との決別、要するに自らの幸福な幼少期との〈決別〉の必要というものは、自らの内面のなかから内発的に出てこなければならないものなのだ。不可逆なるものとしての〈成長〉がそこでの動因となる。だからこそ、この種の取り返しがたい〈別れ〉の契機は苦しく、せつなく、また辛いものとなる。

一方、この映画では、確かに太一とヤマトは自らの意志で戦うことを、すなわち相棒との〈別れ〉を、選択するのであるが、それを彼らに要求する原因は、彼らの内面から発せられるものではなく、外的要因からおとずれるかたちになってしまっている。そうして、「自らの幼少期の幸福を諦めなければならない」という選択的意志と、「幸福な幼少期をずっと生きていたい」という願望のあいだの、彼らの内面における矛盾と葛藤として上手く描けていない。決別の必要がバトルの結果に結びつけられてしまっているわけだ。

【とはいえ、映画として素晴らしい点もいっぱいある。それこそ、かなり細かな演出も含めて「思い出に浸る」ことはできる。また最後の別れ際は、こういう作品では特に重要なわけだが、デジモン側に「明日は何をするの?」と言わせて、主人公たちが答えようと振り返るといなくなっているという演出は素晴らしかった。】

けれども、この、内的要因ではなく、外的要因によって「大人」になることを強いられるという物語自体が、むしろ僕らの時代の状況、少なくともそれへの僕らの関わり方をそれなりに反映している。2012年のコメディ作品『テッド(Ted)』(セス・マクファーレン監督)よろしく、現代において自分の「テディベア」と決別することは至極困難である。20世紀半ばに開拓されていった新市場としての若者や子どもたちを、資本主義のシステムはそう簡単に捨て去ったりはしない。そしてそれは、文化の領域においては「押しつけられてなるものとしての大人」という意識として反映されるのだ。そこでは〈別れ〉すらも、ヒロイックな夢のなかに漂う、ちょっとした刺激のようなものに過ぎなくなってしまうだろう。

しかし、だとすれば、僕らの時代のこの「集団の夢」から目覚める方法はどのようなかたちを取り得るのか? 眠りが深ければ深いほど、そこからの覚醒もまた鮮やかでなければならないとすれば、繰返し「大人になる」契機を獲得しそこねてきたことによる爆発的覚醒は、僕らの時代にはどのように用意されるのであるか? その瞬間を、僕らは、夢ないし思い出のなかで秘かに思考し始めなければならない――それが僕ら自身の「進化」を呼び込む日まで。

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