私たちの住む街には、どうもゴミ箱が少なすぎやしないだろうか? コンビニに捨てに行くか、そうでもなければカバンやポケットに詰め込むか。そんな日々を生きてはいないだろうか? 公共のゴミ箱の少なさに現出している問題を取り上げ、あるべき路上を考える、ゴミ箱へのラブレター!
Written by 川上修生&イサク
仕方がないからコンビニへ
街を歩くと、駅の近くなど、人通りが多いところほど、コンビニのゴミ箱が店内に設置されていることに気づく。最近は、ドの付く田舎のコンビニまでゴミ箱を引っ込ませていることがある。
捨てに行きにくい。
ここで買ったものじゃないし、コソコソ捨てに行くのもなんだかうしろめたい。おまけに「家庭ごみの持ち込みはご遠慮を」などとご丁寧に書かれてもいる。結果、右手に持ったパンの袋を持てあます(でも、そもそも、どこからどこまでが家庭ゴミなのだ? 一度居住スペースに持ち込んだら?)。
なんでわざわざコンビニのゴミ箱に捨てにいくかというと、他に捨てる場所がないからだ。脇目もふらず道端にポイ捨てしたり、落としたふりして側溝に捨てたりするよりは、他の人に迷惑をかけることも少ないし、自分の精神衛生上も良い。だからやむをえず、コンビニのゴミ箱に捨てている。多少、うしろめたい思いをしながらも。
ゴミも捨てさせない「おもてなし」
外国人観光客にいっぱい来てもらって、それでいっぱいお金を落としていって欲しい――これは、コロナ禍前であれば、日本中の都市が我先にと考えていたことだ。その外国人の多くが日本の印象として持つことになるのが、まさに「ゴミ箱少なくない?」である。「日本ってどこでゴミ捨てるの?」という質問を受けたことは何度もある。「コンビニかなー」と答えたくなる、というか、答えるしかないが、何か買いたいわけでもない人間をコンビニに導くというのも、コンビニ側に申し訳ない。そうなると、「鼻くそでもほじった? それなら丸めてポッケに入れとけ!」と答えるしかなくなる(たとえば、以下のリンクも参照)。
これが「おもてなしの国」の現状だ――なんて不満を言うと、「だったら日本に来るな」派という、何を気負っているのか分からない、謎の勢力が途端に湧いてでてくるんだから、「おもてなし」には本当に大したオモテはなく、すぐさまウラが飛び出すという塩梅。凝った趣向である。
だが、昔からそうだったというわけではない。いま30歳そこそこの自分らが幼い頃は、まだ道や公園、駅にゴミ箱が置かれていることが多かったように思う。それがいつの間にか、潮が引くように、少しずつ少しずつ、気づかれないように気づかれないように、消えていった。
本音を捨て去るゴミ箱はあるらしい
表立っての撤去の理由は、「テロ対策」だとか。でも、よりテロへの不安が大きいだろう欧米諸国なんかは、通りの至るところに公共のゴミ箱が設置されている。それがどれだけ人の不安を煽っているかというと「?」だろう。路上にゴミ箱があるのは当たり前の光景なのだ。それとも、ゴミ箱を見るたびに、「ワォ!ゴミ箱!!爆発・す・るッ!!」と警戒することを、欧米諸国のみなさんにも勧めてみた方がよいだろうか?(ちなみにテロ対策用ゴミ箱なんてものもとっくにある。以下のリンク参照。)
結局のところ、「テロ対策」なんか体のいい建前だと思う。ホントはゴミ箱からゴミが溢れていたり、それを回収したりするのが、面倒だし、コストがかかるというわけなんだろう。(毎日乗っていてお世話になっているTokyuさんなんかは、自販機横の缶・ペットボトル用ゴミ箱以外はほとんど駅にゴミ箱を設置していない。なんてこった!)
かと言って、「捨てる場所がないから…」としょうがなく家まで食べ終えたパンの袋を持ち帰るほど、多くの人はできていない。でも、ポイ捨てをするほど道徳観念が乏しいわけでもない。だから、かろうじてゴミ箱の設置されているところに捨てに行く。その場所が、コンビニ一辺倒となっているというわけだ。行政や鉄道会社が、道や駅からゴミ箱を撤去したつけで、今やコンビニは街中のゴミ処理需要を一手に請け負う存在になっている。(またTokyuさんの話になってあれだが、「美しい時代へ」なんて企業コピーを掲げているけれど、御社が駅にゴミ箱を設置しないせいで、御社が愛する沿線の街は、美しさからほど遠くゴミが溢れているかもしれないんだぜ!)
コンビニエンス・パブリシティ
今やコンビニは、営利企業の枠を超えたパブリックな存在になっているように思う。それは本来パブリックを担うところ(駅や公園や道路)が、その役割を放棄しつつあるからだろう(この、本来のパブリシティの喪失については、いずれ別記事で考察されるべきだと思う)。
まぁ、コンビニ各社にとったら、パブリックな存在になりつつあることを生かして、いろいろな事業をやったり、収益につなげたりできるわけだから、ゴミの処理ぐらいは「投資」と言えるのかもしれない。
だが、コンビニに任せておくというのは、本当はとても危険なことでもある。なぜなら、そのような「投資」は、彼らにとって義務ではないからだ。
本来、そういった義務を負っているのは、実は、というか、やはり行政である。やたらと高い我らが税金というやつは、何も、どこかの誰かが当選させた、まともに原稿も読めないオジサンたちを食わせてあげるために払っているわけではない。それは、「公共の福祉」を運営するために払っているのだ。だから、本当は、「税金を払う」という言い方ではなくて、「税金として預ける」という言い方の方が正確なくらいだ。
そして、その「公共の福祉」には、公衆トイレや公道の整備、そしてゴミ箱の設置と運営も、当然入っているはずなのだ。これだけ税金を払わせておいて、ゴミ箱を設置することすらできない…となると、税金の運用能力が疑われてしまう。だからこそ、「テロ対策」などといった言い訳が必要とされる。駅を運営する鉄道会社も喜んでそれに乗っかる。そうして、こうなったわけだ。
コンビニのおかげで、首の皮一枚、外でゴミを捨てる場所は残されている。コンビニが行政の役目を担ってくれている。しかし、彼らが、正当な権利でもってそれをやめたとき、日本列島の路上からはゴミ箱が消えてしまうかもしれない。そうなれば、「ポイ捨てはしたくない」という、多くの人間が持っている道徳観念もついに吹き飛んでしまうかもしれない。そうすれば、そこに「美しい時代」ないし「美しい国」が誕生するだろう。