写真集紹介:Amani Willett『A Parallel Road』

アメリカンドリームの体現として、人びとを魅了してきた「ロードトリップ」。だが、移動の自由を獲得した先に待っていたのは、人種間による全く異なる経験だった。今なお続く黒人への構造的暴力を「アートの語法を利用して」問う一冊を目の前に、ドキュメンタリーの可能性を考える。

Written by はらやま

個人的領域から社会的領域へ

ドキュメンタリーを、できる限りの客観性をもって制作される現実世界の写し鏡としてではなく、社会的意識を持ったある個人(または集団)がその意識を表現し、対話を引き出し、社会に影響を与える実践として考えるならば、アマニ・ウィレット(Amani Willett)の『A Parallel Road』(Overlapse,2020)は、ドキュメンタリーと言ってよいだろう。そこでは、アメリカにおける黒人の路上での経験が、多層的に重ねられたイメージによって浮かび上がる。

【出典:『A Parallel Road』Amani Willet、Overlapseホームページ(https://www.overlapse.com/catalog/a-parallel-road/)】

タンザニアで白人の父と黒人の母のもとに生まれ、マサチューセッツ州ケンブリッジで育ったウィレットは、写真集という形式でこれまで3つのプロジェクトを世に発表し、そのストーリーテリングの能力を高く評価されてきた。2013年に出版された『Disquiet』(Damiani、2013)は、父親となったウィレットの家族に向ける親密な眼差しと、その家族に影響を及ぼす外的要因――経済の低迷、政治の機能不全、大災害――に対する不安な感情を「Occupy Wall Street」の写真などを用いて情緒的に編んだ写真集である。4年後の2017年には、18世紀の世捨て人ジョセフ・プラマーの伝説を追った『The Disappearance of Joseph Plummer』(Overlapse、2017)を上梓。父親が購入したニューハンプシャー州中央部の土地に伝わる「世捨て人」の存在がいかに人びとを魅了し、後世に伝えられてきたかという受容のあり方を調べ、現代社会に通じる社会的逃避への憧憬と絡めて創造的に物語を作り上げた。

【出典:『The Disappearance of Joseph Plummer』Amani Willet、Overlapseホームページ(https://www.overlapse.com/catalog/disappearance-joseph-plummer/)】
【出典:同上】

どちらの作品も、自身や家族といった身近なテーマから出発し、人びとの記憶や社会環境といったパブリックな事柄へとつながっていく。そんなウィレットにとって、アメリカにおける人種問題とその歴史は、まさに自身のアイデンティティに関わる問題であり、長く興味を持ち続けてきたテーマだった。

ロードトリップは誰のものか

アメリカにおいて「ロードトリップ」という言葉が持つ魅力は計り知れない。自由の象徴、新しい出会いと発見、アメリカンドリームの体現。実際に旅したことはなくとも、映画や小説によってその空気を味わい、まだ見ぬ世界へと思いをはせたことは一度や二度はあるだろう。写真のフィールドに目を向けてみても、ウォーカー・エヴァンスやロバート・フランク、スティーブン・ショアといった写真家たちの優れた写真集を筆頭に、写真史の一ジャンルを構成するほど多くの作品が世に出されてきた。だが、それらは主に白人によって作られたものであり、それと並行する同時代の黒人の視点からはこれまで語られてこなかった。

『A Parallel Road』は、過去1世紀にわたり黒人が路上で経験してきた暴力や恐怖を、ウィレットの個人的視点を通じて表現した作品である。そう、これは「作品」なのである。報道写真のようにこれまで見過ごされてきたり、十分に知られてこなかった出来事を「客観的事実」としての写真で提示し、証言するといった類のものでは決してない。だが同時に、ウィレットが前作までに手腕を発揮してきた、読者の想像力を喚起するためのイメージとしての写真――固有名詞の情報を排除し、抽象度を高めることによって、具体的で固定化された意味をそぎ落とす――に留まるわけでもない。写真というメディアの持つ局所的で明示的な力とイメージに備わる普遍的で非断定的な特性をうまく融合し、社会的課題に向き合う作品なのだ。

手縫いで綴じられた小冊子の形をとる本作は、大きく分けて二部構成になっている。第一部はハイウェイがめぐらされたアメリカの道路地図上に、人びとが自家用車とともに撮影した楽しげな写真が――これらの写真はウィレットの親族や友人の古い写真である――家族アルバムのように置かれている。第二部は1936年から30年にわたり黒人旅行者のために発行されたガイドブック「The Negro Motorist Green-Book」(以後、グリーンブック)のページ上に様々な画像が配置される。グリーンブックとは、人種隔離政策が敷かれていた当時、見知らぬ土地での危険から身を守るために有色人種のあいだで必携となったガイドブックである。そこにはホテルやレストランだけでなく、自動車リペアショップや美容室、ドラッグストア、仕立て屋など旅先で生活するうえで必要な多くの情報が掲載されている。

ウィレットは1940年版のグリーンブックをベースに、映像のスクリーンショット、ニュース記事の見出し、アーカイブ資料などを自身の撮影した写真とともに並べていく。ここでは、第一部の家族アルバム的な雰囲気とは全く異なり、人種間における暴力の構造と歴史、その一端が立ち現れる。議会図書館に保存されているKKKの資料写真、LA暴動の発端となったロドニー・キング暴行事件映像のキャプチャ画像、911に助けを求めた音声の書き起こし。グリーンブックという地図の上に重ねられる歴史的イメージを読み進めるにつれ、時空を超えた陰惨な旅をしているような感覚を味わう。

【出典:『A Parallel Road』Amani Willet、Overlapseホームページ(https://www.overlapse.com/catalog/a-parallel-road/)】
【出典:同上】

リニアな物語からモザイク状の経験へ

様々な種類のイメージを等価に用い、幾層にも重なるレイヤーで複雑な物語を紡ぎあげていく手法はウォルフガング・ティルマンス(Wolfgang Tillmans)を思い出させる。単線的な語りではなく、包括的な物語のあり方を模索してきたティルマンスは、レイヤーを用いることで「同時(代)性」を表現してきた。彼の代表作に『Neue Welt』(TASCHEN、2012)がある。デジタルカメラを片手に世界各地を旅して作られたこの写真集は、そのタイトル通り、世界に対する新しい見方を提示した。そこには、都市、工業製品、動植物、自然といったこの世界に存在するあらゆるものの表層が等価に写真に収められている。写真は雑然と並べられ、ときには重ね合わされる。アスファルトの道路に立つ羊、パプアニューギニアの浜辺に立つコテージ、ニューヨークの宝石店の前を通り過ぎるリムジン。見開きに並べられた関連性のない3点の写真は、その際立つ差異にもかかわらず、「これが世界だ」と受容できてしまう。巻頭に収められた対談「Life is astronomical」でティルマンスが述べた次の言葉は印象的だ。

すべての物事の同時性(simultaneity)と可用性(availability)が今日の我々のリアリティを形作っている。

そこには教訓的な語り――貧しい者がいて、富めるものがいて、それから… ――はもはやないんだ。

対談「Life is astronomical」『Neue Welt』(TASCHEN、2012)
【巻頭のドイツ人アートキュレーターBeatrix Rufとの対談「New World / Life is astronomical」で、ティルマンスの世界観が語られている。】

このリアリティの感覚は、今日ますます強く感じられるのではないだろうか。SNSのフィードには、知人の投稿、PR広告、ニュース画像が大量に流れてくる。それらを高速でスクロールしながら、大量の情報を処理していく。「あの場所へ行って、誰々と会って、それから何々をして…」といった経験の仕方ではないのだ。別々の場所で同時に起こる出来事を断片として知覚する。関連性のない出来事が同時に眼前に現れ、それを関連づけることなく受け入れる。断片は断片のままとどまり、全体へと統合されることはない。

ウィレットの『A Parallel Road』は、この点で現代的な感覚をうまく取り入れたドキュメンタリーといえるだろう。いわゆる「歴史」のような大きな物語がなく、あらゆるものが相対化される現代は、あらゆるものが政治化される世界でもある。白人警官による黒人への暴行事件は、その事実がニュースとして世界中に報じられるや否や、どのように解釈されるべきかを巡り政治性を帯びる。加害者/被害者の背景や事件の原因など、因果関係で結ばれた単線的な解説物語が複数つくられる。だが、すべてを断片としてとらえる感覚を持つわれわれは、あるひとつの首尾一貫した物語を丸ごと受容することはしない、というよりできない。相反する内容を含むそれらの物語を、また断片として受容する。それはドキュメンタリーを見る際においても同様である。

ウィレットが採用した、多層的に様々な種類の画像を配置する方法は、現代のこの世界を認識する方法そのものである。そこでは、個々のイメージは断片であり、多層的に重ねられたイメージ群は作者の感覚/リアリティと言えるだろう。ここでなによりも重要視されるのは、事実を伝えることでも真実を究明することでもない。感覚/リアリティを伝えようとするのだ。

【出典:『A Parallel Road』】
【出典:同上】

最後に、掲載された100点を超える画像の中で、極めて印象的な1枚がある。1台の赤いピックアップトラックに乗って疾走する白装束の集団である。公民権運動の一連のアーカイブ写真に続いて現れるこの写真は、KKKの襲撃現場を想起させる。同じページの右上には2017年のシャーロッツビル自動車襲撃事件の記録写真が配置されている。白人極右集会に反対するデモ隊に自動車が突入し1人死亡、35人が負傷した数年前の事件は、記憶に新しい。

【出典:同上】

もしも、白装束の写真が、前後に並ぶ記録写真と同じ性質のものだったら、サラッと読み進めてしまうかもしれない。だが、一見すると報道写真かと思うこの1枚は映画の一場面なのである。それも、KKKを扱ったドキュメンタリー映画ではない。『Smokey and the Bandit PartⅢ』(1983、邦題『トランザム7000 PartⅢ』)というコメディ映画のスクリーンショットなのである。さらにいうと、この白装束はKKKのパロディとして描かれた、主人公の邪魔をする脇役である。リアルとフィクションといった対立項が、同一平面状で共存し、互いに影響を及ぼしあう。異なるものが同時に存在している。だが、この写真を前に「いろいろな意見や考えがあるよね」といった思考停止の無限の相対主義は許されない。それは、右上に配置された画像がシャーロッツビルだったことからも明らかである。そう、あの前アメリカ大統領が述べた「責任は双方にある」という言葉を思い出せば。

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