猫に逢はば猫に従え

田舎にある実家で2匹の猫を飼っている筆者が、猫との生活のなかで考えたことを語っていく。人間は、ほかの動物たちとどのような関係を結びうるのか? 猫の生活が僕らに示唆するものとは何なのか? 猫こそが持つ批評の眼から、人間存在を見る試み。

Written by イサク

人間の使命

ある日、リビングのソファーで二匹の猫のうちの一匹と一緒にテレビを観ていると、どこかの動物園が取材されていた。この番組に大して感心を抱いていない様子の猫は、そのまま寝ていたのだが、僕の方はというと飛び起きてしまった。もう一匹は変わらず窓辺で寝ていた。画面には、檻のなかを掃除している飼育員が映し出されている。すると、奥の方からドタバタとやってきたのは一頭のアメリカバクである。バクは飼育員を見つけると、すぐ側にドテンと寝転んで物欲しそうに飼育員を見る。飼育員は、やれやれといった顔をしながらバクの横腹を撫でてやるのである。バクは、マッサージに気を良くして満足そうに寝始めた。

僕は、いくらか唖然とした気持ちでテレビを観ていた。テーブル上のパソコンで必死に作業をしていた僕が、こうしてソファーで寝転ぶハメになったのは、まさに飼い猫の一匹に「おい、ちょっとこっちに来てマッサージでもしなさいよ」としつこく呼び出されたからであった。猫や犬ばかりでなく、人間はバクにまで呼びつけられるのかと驚いたのである。

【画像出典:無料写真素材。目を細めるアメリカバク。僕らにはあまり馴染みのないこの動物は、映画『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)』(1968年)では、冒頭でモノリスに触れたヒトザルに撲殺されて食べられる。つまり、人間の暴力の最初の犠牲者だったのである。】

そういえば、カバが人間にマッサージされて喜んでいるのを見たことがある。自然保護区のよく懐いている管理人に撫でられてゴロゴロと寝転がるライオン。まるで子犬のように腹を出してマッサージされている狼。馬やラクダはもちろんのこと、撫でられて気持ちよさそうにしているオウムにカラス。そういえば、ワニやヘビがマッサージされている光景すら見たことがある。

これらの光景は、ある奇妙なイメージを僕らの頭のなかに浮かびあがらせる。すなわち、諸動物を支配するのではなく、諸動物に奉仕するべき動物としての人間、というイメージだ。そこで人間は、その相対的に器用な部類の手を使って、人間以外のあらゆる諸動物に奉仕する。四足歩行や翼持ちの動物では自身で掻くことが困難な部位も、人間の手であれば掻いてあげることができる。

大昔に人間が書いた『創世記』という名の書物では、人間はほかの動物とは異なる由来を持っており、曰く、神が自らのかたちに似せて創ったのが人間だということになっていて、さらに人間はほかのすべての動物を支配するために創られたというのである。そうして記念すべき人間第一号=アダムは、自らの前に並び、膝をつく諸動物たちに順番に名前を付けていく。ふさわしい名をいただいて、動物たちは大喜びというわけだ。

この逸話を自らにプレゼントした人間は、神などという架空の設定を持ち出して自分たちは動物とは異なる存在であり、さらに動物たちを支配する権利まで持っていると自分勝手に宣言したわけだから、控えめに言っても傲慢な存在ということになるだろう。同時にこの逸話は、名を付けることと対象を支配することがいかに密接に結びついているかを伝えている点でも興味深い。もっとも、アダムは結局このなかから役立つ動物を見つけることができず、神は代わりにアダムの肋骨からイヴを創ってあげる――イヴ=女性は、動物の代わりに、アダム=男性の役に立つべきだということだ――ことになる。そうしてのちに、かつてアダムが名をつけたはずの蛇――その正体とされている者はこの際どうでもよい――によって首尾よく楽園追放されるのだから、支配されることを恐れた動物たちが、この知性溢れる蛇を頼って人間と神に復讐をしたと考えてみることも、それなりに理由のある推理であろう。

さて、諸動物を支配する存在としてではなく、マッサージというかたちで奉仕する存在としての人間というイメージは、蛇やほかの動物からの復讐を恐れる必要はないはずだ。それに、もし神という奴が気まぐれに人間以外の諸動物に言葉を与えたとしたら、間違いなく響き渡るだろう、支配された動物たちの悲痛な絶叫をあらかじめ恐れる必要もない。ということは、その恐れからあらかじめ動物たちをさらに厳しく抑圧する必要もないのだ。支配者としての人間が諸動物にかしずくことを求め、代償としていろいろの心配事を得るのに対し、奉仕者としての人間は諸動物に対してちょっとだけ、かつ気まぐれにかしずく。代償として得るのは、ふれあいをとおした心の充足といったものなので、まぁ無理に奉仕する必要もそこまでないから気楽なものだ。

こうも言える。名を付ける行為が一方向的であるのに対し、マッサージはそこにいたる過程において相方向的であると。というのも、マッサージは気の許せる相手にしか頼むことはできない。もし見知らぬ人間が奉仕しようと近づいてきたとしたら、普通の猫であれば全速力で逃げるし、ワニなら噛む。手で触れられるということは、マッサージを可能にするだけでなく、暴力をも可能にするからだ。ほとんどの場合、マッサージが可能であるという時点で、すでにそれまでの過程で勝ち取られた信頼があるのだ。信頼が奉仕を可能にする。

…とは言ってもね、マッサージをしてくれる人間に対する警戒心というものを忘れちゃよくないよ、そんなにゴロゴロ鳴くけどさ、俺に食べられる危険というものも、その小さいおでこの奥の脳みその、片隅くらいには置いておかなくちゃいけない。これで俺が夕飯の添え物をお前にするつもりになったら、お前、マヌケだぞ?――などと、猫の頭を掻きながら話しかけた。気づくと、ソファーの猫は二匹になっていた。

ペットというものは、支配と奉仕が分かちがたく交差する空間に置かれている。

記憶の女神

猫には不思議なところがある。どう言うか難しいが、印象のなかで、二つの対照的な顔を見せるようなところがあるように思うのだ。我が家の二匹の場合、その二つの顔が片方ずつそれぞれの猫の性格を成している。

先にこの家の門をくぐったメス猫は、モシュネと名づけられた。記憶や時間に関する名前にしたいという母の要望で、古代ギリシャの記憶の女神ムネモシュネーからとって付けられた。気取った名前である。毛が長く、足の短い猫で、のそのそと歩いているときはタヌキに見えないこともない。この二匹のなかで年上の猫は、保護されていたのを引き取ったことでこの家に住むことになった。

【筆者撮影:家猫の一匹、モシュネ。】

かつてどのように生きていたのか分からないが、この猫はやたら怖がりで、最初の頃は抱きかかえるとあまり抵抗もせず、腕のなかでブルブル震えながらこちらの顔を見つめていた。いまではすっかり懐いて人間を呼びつけるのであるが、大抵は離れたところに座って、物静かにこちらを見ている。ある思想家がかつて似た体験を書き留めたことがあったが、ある日、風呂場に着替えの下着を持っていくのを忘れて、ほかに家に人間は誰もいなかったのでそのまま裸でリビングに行くと、この猫がこちらをジッと見ていたことがあった。何という気まずさだろう、僕は股間を隠して逃げ出すハメになった。

この特有のまなざしの力は、以前犬と一緒に暮らしていたときにはあまり感じなかったものである。この物静かな〈観想〉は、僕がちょっとしたズルをしていたときにも働いて、見透かされている気になった僕はそのズルを断念したこともあった。また別のあるときは、もう一匹が悪さをしたので思わず叱ったところ、その猫がダッシュで逃げてテーブルの物まで落としていったので、僕はじっくりと隅に追い詰めて捕まえることにした。逃げまわる猫を半分面白がりながら追っていると、家具の影からふっとこの猫が僕の前に出てきて、座ってこちらを問い詰めるように見つめてくる。無視して悪戯猫の方に行こうとすると、その猫はさらに一歩を踏み出し、小さく「シャッ」と鳴いて僕を諫めた。大人気なかった僕は、二匹に弁解と謝罪を語るハメになったのである。

【筆者撮影:モシュネ。彼女は、出会いはじめの頃とは変わり、エサと撫でられることに関しては積極的な姿勢を示すようになった。かつてはどんな生活をしていたのか。】

この大人しい年上のメス猫に対し、もう一匹のメス猫は、まさにおてんば娘といった具合である。どちらかといえばこっちの猫の方が僕と行動をともにすることが多い。この猫が我が家の門をくぐった経緯はモシュネとは違ったものだった。5年ほど前の僕の誕生日に、家を離れて生活していた僕のスマホに母から電話が入った。誕生日のお祝いだろうと電話に出ると、母は「どうしよう、職場の前で子猫を拾っちゃったの」と言うのである。子猫は、土手についた排水用のパイプで盛んに鳴きながら縮こまっていた。長いあいだ様子を見ていても親猫は迎えにこない。すぐそばの車道では途切れることなく車が走っており、またその夜は雨が降りそうだった。母は結局その猫を連れ帰り、再びあの女神から名を借りて「ムネ」、いや、これでは明治大正生まれの老人だということで、「ネム」とした。母の職場の名が、たまたま「ねむの木」に由来していることもこの名づけを後押しした。

【筆者撮影:家猫の一匹、ネム。】

この若いメス猫の一日は、窓辺の高いところで寝ているか、僕の足元にずっとついてまわってしきりに遊ぼうとせがんでいるか、この二つで大半が埋められる。彼女にとって重要なのは、何より遊びである。遊ぶのであれば、エサすらちゃんと食べようとしない。あらゆる動くものに興味を示し、また自身も部屋中を動きまわる。

遊ぶことを要求する以外にはあまり鳴かないが、鳴くときの感情表現は驚くほど豊かだ。「遊んで」とオモチャをくわえてきてねだる声は、甘ったるくしつこい。そのよく動く長い尻尾を握ると、まるで80年代の漫画で同級生からスカートめくりを食らった少女のように、短く鳴いて僕の手を叩く。テレビを観ていたり、パソコンをしていたりして相手をしないと、画面の前に座り込んで邪魔してくるので、仕方なく抱きかかえる。すると、物凄く不満そうな顔をしてイライラした声で鳴く。この猫は、〈観想的〉なまなざしは持っていない。代わりに興味に輝く爛々としたまなざしと、どこまでも〈活動的〉な性格を有している。走りまわり、たまに物を壊す。夜寝るために僕のベッドにきたときだけは、眠たそうな眼をこすりながらやたらと舐めてくる。舐めるという奉仕は、おそらくこの猫が覚えている数少ない母親の記憶なのだろう。

【筆者撮影:ネム。彼女が家に来て以降、虫があまり出なくなった。】

猫はやはり呼んでも来ない。ただあちらの気が向いたときにだけ、こちらを呼ぶだけである。叱っても変わらない。だから愛でるしかない。猫は、人間に奉仕をさせるという点で、かなりの成功を収めている種族なのだろう。

人間性のユートピア

猫たちが窓辺で日向ぼっこをしている様子を見ていると、あくせく必死に働いて、社会という奇妙なシステムの運営に、ひたすら歯車として勤めている人間たちが、何か馬鹿らしい存在のように思えてくる。不思議な制度や身分を自分たちで作って、それで勝手に苦しんでいたりするのだから、猫からすれば、「一体何をやっているんだ?」と奇妙がられるはずだ。もちろん、猫には猫の苦労もそれなりにあるのだろうが。

猫の批評眼から人間の歴史と社会を見る。猫のあの〈観想的〉なまなざしに人間社会を映し込む。そういった批評的思考は、日本では明治の昔からお馴染みのはず――言うまでもなく僕らは、すでに夏目漱石による名著『吾輩は猫である』を持っている――なのだが、これまでこの島の人間はその批評的距離化の技法から何も、そう一切何も学ばなかった。「お国のために頑張ろう」「自分のやれることをやらなくては」と各人が必死に働いた結果が、あの盲信的な権力者への追従と悲惨なる敗戦となったあとも、その総動員体制は、巨大な経済システムを動かし続けている。「労働こそが人間の真実だ」という文句は、長らく、資本主義で莫大な利益を享受している資本家と、それに反発しているはずの共産主義者とがともに口にする共通のスローガンであったわけだが、猫からしたらお笑い草だろう。「その猫にも飯を食わせるために働いているんだよ!」という声もあるだろうが、縄文時代から江戸時代までの通常労働時間を調べてみるとよい。かつてのおよそ2倍の時間、僕らが労働させられていることに気づくだろう。技術の進歩とは何だったのだろうか? 労働を軽くするためのものではなかったのか? 猫が不思議がったとしても無理はない。

【筆者撮影:身を寄せ合って寝る猫たち。】

それに対して、窓辺で寝て、ゴロゴロと鳴いて撫でることを要求してくる家猫を見ると、この獣の方にはるかに「人間性」の希望を感じはしないだろうか? これまで哲学から宗教までのさまざまな思想が人間のユートピアを描いてきたが、そのうちの最もシンプルなイメージは、厄介な教説のなかにではなく、案外僕らのそばにあるのかもしれない。すなわち、猫のような〈活動性〉である。ゆっくり休んで、あとは存分に遊んで、生命そのものにとって必要な最低限の労働をして、あとはまた休んでいるというあり方――そのあり方は、人間社会が目指すべきユートピアを想わせはしないだろうか?

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