プノンペン滞在中に筆者が出会った、ある廃墟に描かれたグラフィティ。それは、カンボジアのストリート・カルチャー、そして酷烈な社会の現況を照らし出す作品であった。ストリート・アートから切り込む、変化著しい都市へのアプローチ。
Written by 祖父江 隆文
壁にそびえ立つ蛇神
プノンペンに滞在し始めてひと月あまりたったある日、生活圏内の地理感覚を身体に叩き込もうと市街を歩き回っていた僕は、いつしか路地が入り組んだエリアに迷い込んでいた。正午過ぎの突き刺すような日差しに参り、飲み物の屋台がありそうな開けた道を目指していると、奥の方に建つビルの壁にある何かがふと目に飛び込んだ。近づいてみると、それは全長10メートルはありそうな蛇神ナーガを描いたグラフィティであった。
近年、カンボジアでは音楽やアートといった様々なカルチャー的要素が国外から流入し、国内で独自の発展を遂げてきた。グラフィティもその一つであり、この10年程でプノンペンを初めとする都市部を中心に普及してきている。
本記事では、そうしたカンボジアのグラフィティを、この壁に描かれたナーガを起点として考察していきたい。今日プノンペン市内に広まりつつある様々なグラフィティの作品やスタイルの中にあって、この壁に佇む蛇神の姿は、カンボジアのグラフィティのある側面、そして、それらが置かれている社会的状況を照らし出すからである。
ストリートとローカルの邂逅
冒頭でも述べたように、カンボジアのグラフィティ・シーンに一定の発展傾向が認められるようになったのは、2010年代初め頃からだと言われる。その傾向に寄与した要因の一つが、国外ライター達によるストリート・カルチャーの流入である。実は、僕がたまたま目にしたナーガのグラフィティも、そのライターの一人であるフランス出身のテオ・ヴァリエ(Théo Vallier)によって描かれたものだったのだ。ヴァリエがプノンペンで活動を開始した2000年代後半頃にはグラフィティと呼べるものはストリート上にほぼ無く、そこからアートの指導やグラフィティのフェスの開催等を通じて、現地ライターの育成や作品を残す場の形成に携わってきたという(Théo Vallier, AsiaLIFE Cambodia. https://www.asialifemagazine.com/cambodia/theo-vallier/より)。
もちろん、ストリート・カルチャーが発展した要素はこれだけに限定できないだろう。だが、カンボジアでは、ゲリラ的に公共の場へグラフィティを残すことに対する当局や住民からの抵抗がとりわけ強い。そのため、リーガルに描く機会の増大を促した国外ライター達を中心とした活動が、グラフィティという表現のスタイルを国内で徐々に広めたことは確かである。
他方で、こうしてカンボジアに普及した欧米のグラフィティ文化は、ローカルな文化の方がもたらしたある種の特徴をも帯びている。それは、グラフィティのスタイルとカンボジアの芸術様式との融合である。しばしばライター達の作品に見受けられる、クバィチ(ក្បាច់)と呼ばれる装飾様式がその一つだ。
クバィチとは建築物や装飾品のデザイン、また舞踊の所作などを指す表現法の総称である。装飾の意匠法を指す場合、動植物の一部に由来するいくつかの基本的な図柄に、厳密な描線の法則に従って切り込みや曲線を重ねていく表現体系を意味する。
この意匠の方法は、古代遺跡の装飾だけでなく、寺院など今日の建築物の装飾にも使用される伝統的な様式なのだ。
そして、このLisa Mamのグラフィティや冒頭のビルに描かれたナーガのように、国内外のライター達の作品にクバィチのデザインが反映されているのが、カンボジアのストリート・カルチャーにおける特質の一つなのだ。
新しいもので古いものを
このように、グラフィティとクバィチというグローバルとローカルの融合が、ライター達に特異なスタイルをもたらしたのだった。では、このスタイルを獲得したカンボジアン・グラフィティが描きだすものは何か。ここまでの記述で既に端的に示されているが、その一つは、カンボジアが持つ「過去」のイメージである。これは、クバィチの技術を駆使するライターがその様式を用いるが故に、その対象物もまたクバィチが装飾の対象とするものを踏襲しがちなのだ、というだけではない。むしろ、新しい技術を手にしたアーティスト達がかつてあった古いものを反復するという、カンボジアのカルチャーの情況にグラフィティもまた置かれている、と考えてみるべきだ。
例えば、上の動画に登場するジー・カカダーを含めた何人かのライターは、古代遺跡のアンコール・ワットに施された彫刻を目にしたことが、自身の作風に影響を与えたと述べている。また、グラフィティ以外の領域を見ても、ヒップホップ・ミュージックを中心にカンボジアの音楽シーンを牽引してきたレーベルであるKlapYaHandzは、内戦期以前のカンボジア音楽の「黄金時代」(1960年~70年頃)に発表された楽曲をサンプリングすることで、現代の音楽との融合を果たすことをその信条としているのだ。
つまり、グラフィティであれサンプリングであれ、こうした新たな表現技法を獲得することで、かつての時代のイメージが装いを変えて再び現れる。このような、新しい技術による古い時代の復興という近年のアーティストを覆う精神の中に、カンボジアのグラフィティ文化は位置しているのである。
埋められた水、打ち捨てられた地
僕が街で出くわしたナーガもまた、こうした古きものの複製というカンボジアのグラフィティ文化の趨勢において描かれたものと言えるだろう。しかし、この巨大なピースは、それが存在するプノンペンの、そしてカンボジアの社会状況を示唆するものでもある。
このナーガが描かれたビルにたどり着く前、人やバイク、車が入り乱れる市街地の中にあって、不自然に閑散とした道を僕は歩いてきていた。建物もない、土だけのエリアに敷かれた真新しい舗装路。その地帯の周縁に目を向けると、新築の邸宅やビルが点在しているものの、かつてからそこに住んでいそうな人々の姿は見えない。実は、この90ヘクタールほどの膨大な場所は、10年ほど前まで湖だったのだが、そのほぼ全てが開発目的で埋め立てられていたのだった。
このボンコック(បឹងកក់)と呼ばれる湖とその周辺エリアは、そこでの土地所有権を巡って大規模な紛争が繰り広げられた場所である。そこでは、カンボジア全領土の1割近くを管理するカンボジア人議員が経営に携わる企業によって、湖の埋め立てのみならず、何千もの周辺住民への強制退去がなされた。また、湖の周辺には外国人観光客向けのパブやバーが立ち並んでいたが、埋め立てによって人の交通が減り、廃墟になった建物も増えたという。巨大なナーガのグラフィティも、実はこのエリアの中にあるのだ。
真の支配者の残影
このボンコックエリアに限らず、今日までにカンボジア全国で多くの人の生活を脅かしてきた土地の収奪。そこで土地所有権を主張する諸企業(と、その土地利用を認める政権)がいつも展開する理屈とは、近年制定された領有に関する法律によって土地の経済的利用の権利が認められたのだから、法の制定以前からそこに「違法」に暮らす住民を追い出す正当性が我々にはある、というものだ。
しかし、この埋められた湖や、その周辺の土地を真に所有する者とは誰なのか? 多くのカンボジア人に共有されている伝承に従うならば、それは上のようなカンボジアの領土で「投資をする人種」ではなく、水と地の主であるナーガなのだ。
例えば、人間と結婚したナーガの娘とその子孫(つまり人間とナーガの混血児たるクメール民族)が地上で暮らせるように、水中に沈んでいた大地を自ら吸い出して彼らに与えた蛇王の物語など、世界及び民族の起源とナーガが結びついている説話は、カンボジア人の間で広く受け入れられてきた。こうした民族学的な観点によると、今日でも、寺院等の聖域とされる場を造立する際には、ナーガに土地の使用を願い出る儀礼が行われている。そして、灌漑などの水流や農地を統制する技術と、ナーガの水と地を操る力との隠喩もまた、農業に携わる多くのカンボジア人の暮らしに根付いているのだ。
このように民族が暮らす場を司り、畏敬の念を集めてきた蛇神の権威は、しかし、別のもののそれに取って替わってきているようだ。ナーガが担ってきた水と地を統制する権能は、湖を埋め立てることで、またその周辺で暮らす人々の生活を荒廃させることで、その力を発揮する企業や政治家に渡っているからである。ボンコックエリアの10年余りの時は、そうした事態を厳然と映し出している。
グラフィティが持つ眼光
ところが、このように考えてみると、あのビルの壁に佇むナーガのグラフィティは、この場所に描かれたことによってこその、ある特徴を纏っているように思える。というのも、改めて見ると、うらぶれたビルの側に山積したゴミの中から首を出しているかのようなナーガは、かつてあった湖の方を向いているということに気づくからだ。
その姿は、「発展」がもたらす「新しいもの」を望んで「古いもの」を捨て去っていく都市の姿に、〈新しいもの(=技術)〉によって現れ出た〈古いもの(=「過去」のイメージ)〉が対峙しているかのようである。つまり、このナーガは、「新しいもの」への志向性がもはや不要として打ち捨てる廃墟の壁から、ボンコックエリアを見やる位置にいるのだ。そして、ライター自身の作品に対する意図に拘わらず、その場にいるからこそ、通常見られる対象として存在するグラフィティは、逆に自らの<眼差し>を獲得するのである。
もっとも、カンボジアのグラフィティが古いイメージを複製する傾向を考えれば、このグラフィティの〈眼差し〉は、ナーガだけが特権的に持つものとは限らないのかもしれない。古いイメージが〈眼差し〉を獲得する営みとは、例えばジャヤヴァルマン7世やバイヨンの四面像といった、人々に「加護の視線」を送るアンコール時代の統治者にまつわるイメージを描くことによってもなされ得るからだ。
だが、そういった人々を加護する統治者像の威厳は、今では骨抜きにされている。そうしたイメージは、現在の苛酷な社会状況をかつての「栄光のアンコール時代」に重ね合わせて正当化するために、数十年間に渡り君臨し続ける独裁的なフン・セン政権に都合良く利用されているからである。例えば、「アンコール時代のように繁栄する国を目指す」という言説だとか、「自身の前世はジャヤヴァルマン7世であった」と仄めかすフン・セン首相の発言だとかが流通したようにだ。故に、「加護の視線」を送る過去の統治者像をグラフィティを通して複製し、その像とは本来相反するはずの「発展」志向の支配者が巣食う社会空間内に並置するだけでは、我々にその矛盾を喚起させることはない。
しかし、ナーガのグラフィティの持つ〈眼差し〉は、そういった反復されたイメージの「視線」とは異なるものである。このナーガは、かつて統べていた水陸の地から追いやられたかのような場に描かれることで、自分に成り代わったふうに権威を振るう「発展」志向の持ち主に睨みをきかせている感覚を見る者に覚えさせるからだ。その状態においてこそ、この蛇神のグラフィティは、人々が共有する神話的想像力と現実との間の矛盾を暴露させる、認識の媒介役となる。
こう考えてみると、かつてあったもののイメージが装い新たに登場するのをただ有難がるようなことには、留保がなされるべきだろう。一方で、カンボジアのアート、とりわけナーガのグラフィティがもつ<新しいもの>と<古いもの>との関係性は、現実を別様に捉える契機を持ち得ている。つまりは、その〈古さ〉を纏った〈新しさ〉が、支配的な別の「新しさ」を揺るがすことによって。