〈老い〉が勝ち取られる:クリント・イーストウッドの時代

クリント・イーストウッドの新作『クライマッチョ』が公開された。この高齢の映画スターにして名監督の作品を観ようと映画館に駆けつけた筆者は、〈老い〉についての思考をめぐらせる。現代において〈老い〉は、何を意味し得るのか? 新作は、〈老い〉をいかに描き出しているのか? イーストウッドのキャリアとあわせて、〈老い〉を考える。

Written by イサク

イーストウッド映画が出る2020年代

去年の夏頃だったか、楽しみにしていた映画を観に劇場に駆けつけて、流れてくる本編開始前映像をぼーっと観ていると、そのなかにクリント・イーストウッド監督・主演映画『クライマッチョ』の予告があった。2022年1月公開ということらしい。「そういえば、イーストウッドがまた出すってどこかで読んだっけ」などと思いながら、飲み物に伸ばす手が、ふとそこで止まった。

…下手すれば、もう本当にこれが最後のイーストウッド作品になるんじゃないか?

…たとえばいまの00年代生まれの映画好きの若者は、イーストウッドの新作を劇場で観る最後の世代になるんだろうか? まずイーストウッドって監督作だけでも何本あるんだ? 出演だけなら何年から? 最初のファン世代はいま何歳だ?

新作『クライマッチョ』は監督50周年、40本目の作品らしい。そしてイーストウッドは、91歳になる。なんということだろう! 僕にとっては何よりセルジオ・レオーネ監督の『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗(The Good, The Bad and The Ugly)』(1966年)を筆頭とした、いわゆる「ドル箱三部作」の無口で利己的な憎めないおじさんガンマンであり、自身の監督作『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(1986年)では退役間近の老軍曹であり、『許されざる者』(1992年)ではすっかり隠居した元悪党ガンマンの爺さんであったイーストウッドが、90歳を超えた御身でまた新作を出すのだ(もっとも『許されざる者』ですら、公開時3歳の僕は劇場で観ていない)。

彼は1930年の生まれである。同年生まれの著名人を何人か挙げるならば、たとえばショーン・コネリー(2020年没)であり、スティーブ・マックイーン(1980年没)である。監督で言えばジャン・リュック・ゴダールや深作欣二(2003年没)、音楽家で言えばレイ・チャールズ(2004年没)にオーネット・コールマン(2015年没)、哲学者で言えばジャック・デリダ(2004年没)が同年生まれだ。日本で言えば、女優の新珠三千代(2001年没)や作家の開高健(1989年没)も同年生まれ。そして久我美子(1931年生)も、勝新太郎(1931年生-1997年没)も、ジェームス・ディーン(1931年生-1955年没)も、エリザベス・テイラー(1932年生-2011年没)も、みんな年下なのだ。

最近の監督・主演作『運び屋』(2018年)を劇場で観損ねていた僕は、今月(2022年1月)映画が公開されると、すぐに劇場に向かった。去年に続いて新作が公開された84歳のリドリー・スコットと、91歳のクリント・イーストウッドの仕事に、深いありがたみを感じた1月だった(リドリー・スコットが2021年に出した『最後の決闘裁判』については、以下の関連記事も参照)。

ある生きられた軌跡

劇場を出て感慨にふけっていたとき、やってしまった。スマホの電源をつけたついでに、評判を検索してしまったのだ。本作の〈老い〉のテーマと再び〈疑似家族〉を描いていたこととが気になってのことであったが(あとになってパンフレットを開いてみたら、松崎健夫氏が〈疑似家族〉について適切な評論を書いていた)、やめておけばよかった。気分がいいときには、スマホなんて切りっぱなしにしとけばいいのだ。

イーストウッドファンと思しき人物が、概ね次のような感想を書き込んでいるのが目に入った――曰く、「新作最高!イーストウッドを批判してくるリベラルでエリートの女性評論家は失せろ!」と。溜息が出た。その人物のほかの書き込みをみるに、自称保守といったところだろう。「またかよ」という気持ちと、「本当に『クライマッチョ』を観て出てくるのがこのコメントだったら呆れる」という思いで一挙に疲れた気分になって、僕はすぐにスマホを閉じた。はなからネットで評判など調べなければよかったのだ。

たしかにイーストウッドは、保守的人物として知られている。西部劇のイメージも相まって、ジョン・ウェインの横に並べて理解されることも多いのだろう。1930年に生まれ、いまやすっかり年をとった僕の母が生まれる1952年には、彼は初の大統領選でアイゼンハワーに投票していた。その後も悪名高きニクソンに二度投票したという(もっとも、まったく悪名のない合衆国大統領など記憶にないが)。『ダーティハリー』(第一作が1971年)世代にとっては、「悪党はぶっ殺してもかまわない」式の考えを持ったハリー・キャラハンこそがイーストウッドのイメージなのかもしれない。男たちはイーストウッドに憧れたと同時に、「マッチョ」に憧れたのだ。

【出典:『ダーティハリー』(1971年)。僕はハリー・キャラハンがそんなに嫌いではない。それは、彼のマグナム銃がかっこいいからではなく、その偏屈な性格があらゆる人種や宗教や党派といったカテゴリーを一様に嫌悪するからである。】

文化的なマッチョ志向は、そのまま政治的姿勢につながる。イーストウッド本人においても、そうであったのだろう。たとえば、上で触れた『ハートブレイク・リッジ』では、若い世代から「011(勝利0回、朝鮮戦争で引き分け1回、ベトナム戦争で敗北1回の意)」と馬鹿にされながらも、軍人としての「模範」を若い世代に示そうとする、朝鮮戦争世代の老兵を描いている。そして物語の最後は、1983年当時、レーガン大統領のもとで実際に起きて政治的に議論を呼んでいた米軍等によるグレナダ侵略を、アメリカ市民の人質救出こそが目的であるというレーガン政権の掲げた「大義」を鵜呑みにするような描写で映していく。

しかし、その後、こういったマッチョな政治的姿勢を自ら否定していく過程も、『続・夕陽のガンマン』や『ダーティハリー』と並ぶくらい輝かしい彼の作品群で描かれていたことではなかったか。そうした作品の筆頭である『許されざる者』が公開された頃、彼はその政治的態度を変化させ始めた。そうして制作されたのが、アメリカ側の視点からだけでなく、敵側からの視点も同時に描いた2006年の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』であり、また2014年の『アメリカン・スナイパー』であった。これらの作品では、自分(ないし自国)の立場の正しさを掲げて疑わず、暴力でもってそれを押し通すような姿勢はもうない。むしろ、かつてそういった姿勢をとったことがある人物だからこその、深い思慮と憂愁をまとった作品になっている。先に触れたイーストウッドファンのような人物は、この変化についていけなかったのかもしれない。

こうしてインターネット普及以降、保守派を自称している人びと――このような言い方しかできないのは、実際にそれが「保守」であるかは相当疑わしいからだ――がしばしばそうであるような特徴、たとえば無自覚な人種差別的見解をあたかも左派が隠そうとする真実だとして叫んだり、破廉恥な排他主義的発言をする政治家を熱烈に支持したり、環境問題などすべて嘘だと信じていたり、本来的にも実際的にも「保守派」と呼ぶべきリベラルを極左革命主義者だと思い込んだり、こじつけの陰謀論をネットに書き込むことを聖戦だと思っていたり…といった、この10年でうんざりするほど見てきた諸々の特徴とは遠く離れた位置に、彼は立っている。そしていまや、自身が描き演じてきたようなマッチョ志向とすら異なる位置に、彼は老いた腰をあげ、目を細めて立っているのである。

【出典:『Piano Blues』(2003年)。イーストウッドは、若い頃にジャズ・ピアニストを目指していたほどであり、『クライマッチョ』を含む複数の映画で自身のピアノを披露している。実はシアトルに住んでいた10代の頃、成功を夢見て活動していた若きクインシー・ジョーンズと出会ったという。彼とバンドを組む約束までしたが、それはイーストウッドが朝鮮戦争に出征したために無くなってしまったらしい。】

この彼の姿はまた、自身が「正しい善人」であることを疑わず、道徳的批判をめぐる言語ゲームで優位に立つことばかりを追求しているような者もなかにはいる、リベラルを自称する人びと――このような言い方しかできないのは、実際に「リベラル」とはどういう意味であるかを真剣に考察する姿勢が見られないからだ――にとっても、自らの「正しさ」を点検し、再考する可能性の象徴でありうるだろう。彼が、いわゆる「ポリコレ」の強圧的なあり方に苦言を呈したとしたら、その意味をじっくり考えようと受け止める気持ちにもなるだろう。だとするとそこでは、もはや失われつつある最良の意味での〈老い〉が、いまなおわずかに息づいているということだ。

【デンゼル・カリーは、西部劇風の新曲MVにカウボーイ・ファッションで登場する。そして途中、ジョン・ウェインを撃ち殺すのである。ここでのジョン・ウェインは「マッチョ」の、あるいは白人男性優位主義の象徴であろう。興味深いのは、ウェインを無残に撃ち殺すデンゼルは、『続・夕陽のガンマン』におけるイーストウッドを明らかに念頭に置いた格好をしているのだ(サングラスはクエンティン・タランティーノ監督『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012年)のジェイミー・フォックス風)。ウェインとイーストウッドは、ここで明確に区別され、また対置的にすら理解されているのである。】

勝ち取られるべき〈老い〉

30歳を超えたぐらいから、時折、〈老い〉について考えるようになった。何をその若さでと年配者には思われるのかもしれない。しかし、きっと自身の死は早々に突如として訪れると思っていた身にとって、もしかすると普通にこうやって歳を重ねて老いて死ぬのかもしれないということを、30歳という区切りは思わせるものだった。

若くして自身の〈老い〉を考えるということは、そう悪いことでもないはずだ。哲学者の鶴見俊輔も、1968年、彼が46歳のときには自身の「もうろく」を本格的に視野に入れていた。「もうろく」をあえて「計画」のなかに組み込むことで、いずれそうなる自分をそのまま一つの思索の方法にまで高めようとしたのだ(鶴見「退行計画」、『鶴見俊輔集8 私の地平線の上に』所収、筑摩書房)。ただ老いるのではなく、また老いることに抗おうとするのでもない。彼が目指したもの、それは〈老い〉を受け入れるということ、さらには「もうろく」を勝ち取るということであった。

【映画『クライマッチョ』日本版広告。本作の最初の企画は、もう40年程も前にイーストウッドに打診されたものらしい。そのとき、まだ自身はこの役を演じるほどには老いていないと断った(!)企画を、彼はこの歳で復活させたのだ。】

イーストウッドの新作も、この「〈老い〉を勝ち取る」という言い方のもとで考えることはできないだろうか。劇中、あまり恵まれた両親を持てたとはいえないメキシコの少年ラフォと、イーストウッド演じる主人公マイク・マイロは旅をすることになる。両親のもとを離れて一羽の闘鶏用の鶏とともに孤独な路上生活をしていたラフォと、怪我がもとでロデオ業界の仕事をやめ、家族全員に先立たれて孤独な生活を送っていたマイクの二人旅だ。強くあることを切望しているラフォに対し、老マイクは、自らの人生をまぶたの裏に浮かべるように目を細めて、「人は自分をマッチョに見せたがるが、老いとともに無知な自分を知る」と語る。マッチョとは言うまでもなく、かつてのマイクであり、またかつてのイーストウッドである。

かつて『許されざる者』では、結局最後は銃の腕前によって復讐に成功するのだったが、マイクはラフォにそんな姿は見せない。マッチョな振る舞い方の代わりにラフォに教えるのは、さまざまな動物たちとの付き合い方、動物たちへの気遣いの仕方なのだ。動物たちとの付き合いをとおして、ラフォの孤独は癒される。ラフォはいつも抱いている鶏に「マッチョ」という名を与えていて、マッチョはチキンというジョークになっているわけだが、物語の最後、ラフォはその「マッチョ」をマイクに与える。それは、ラフォがマッチョを目指すのをやめたことを意味するが、同時にマイクにとっては、動物との付き合いをとおしてメキシコの街に居場所をえて、新たに愛する人もでき、そうして長年生きてきた孤独についに終止符が打たれたことを象徴しているのではないだろうか。

現代においては、老いるということはそれだけで経験を得たことを意味しがたくなっている。もはや〈老い〉が、たとえば若者を説教するに足るような何かを自然と獲得することを意味するとはかぎらない時代なのだ。そうして、〈老い〉に付属するべき権威や信用といった価値はすでに失われてしまった(この点については、以下の関連記事でも考察した)。

マイクないしイーストウッドは、武勇伝を誇るわけでもなく、ラフォに長々と説教をするわけでもない。そうするのではなく、代わりに若いラフォに与える教えは、彼が人生のなかで獲得物としての〈老い〉を土壌にしている。彼は、ただ老いたのではなく、自身の変化を恐れなかったことで積極的に価値ある〈老い〉を勝ち取ったのである。現代では、〈老い〉は勝ち取られるべきものなのだ。

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