エロスとタナトスの密約

エロス(性愛)とタナトス(死)、この両極は、どのようにして結びついているのか? 歴史的な絵画作品を取りあげる本記事は、この問いとともに、モロー、クリムト、カラヴァッジョという三人の偉大な画家のあいだを渡り歩く。セックスと死がイメージのなかで極限的に近づく瞬間を論じつつ、絵画鑑賞の楽しみを伝える文化評論!

Written by イサク

エロス、あるいはタナトス

ある種の人間は、セックスをしているとき、その相手を見ながら、「いまなら簡単にこの人を殺せてしまうな」とか、「この人はいま僕をたやすく殺すことができるな」などといったことを思うものである。殺意があるというわけではない。性交渉の相手に警戒心や恐怖といったものを感じているわけでもない。また、日常のなかでいつもそのようなことばかり考えているというわけですらない。しかし、セックスをしているときには、必ずそのようなことを思ってしまうのだ。もちろん、ほとんどの場合は実際に手をかけることはない。

いや、とりあえず「ある種の人間」などと書いておいたが、実は多くの人間が、そのような考えを密やかにふと浮かべたことが一度くらいはあるのではないだろうか? 実は性愛に属する行為は、常に死の近くで営まれているのではないだろうか? もしかすると、フロイトの精神分析学がいまだに人気を失わないのは、生(性)と死、両極にある二つの欲動の結びつきを、そうやって人びとが時折実感するからではないだろうか?

セックスの最中に訪れるそのような連想は、一つには極限的な接触に由来するものであろう。愛するための接触は、同時に殺害を可能にするほどの接近でもある。愛することができるときには、容易に相手を殺すこともできる。その関係は、セックスを「食べる」と表現する、よく耳にする下品な例えにも表れている。それは「楽しむ」ことを含意してもいるのだろうが、同時に食べるということは例外なく獲物の死を前提とする(未受精卵や果実の場合ですら、潜在的には死の領域に属する)。なるほど、接吻は、相手を自らの歯へと近づける――肉を千切りとる、この歯へと(この点については、以下の関連記事も参照)。

しかし、おそらくはそれだけではない。また別の秘かな所以が、セックスと殺害的死という二つのイメージの結びつきにはあるのだ。その所以を考えるために、というよりも、その秘められた結びつきについての想像力を一層たくましいものにするために、一つの機会を提供してくれるのは西洋絵画史である。絵画の世界では、この性愛と死の結びつき、古代ギリシャの神々であるエロスとタナトスの秘密の盟約は繰り返し描かれてきた。そのような絵画作品を限られた紙幅のなかでいくらかでも見て歩くことで、かつて二人の神によって結ばれた密約の中身を少しだけ覗き見ようというのがここでの趣旨である。

男と女の闘い:モローの場合

さて、まずはギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau;1826-1898年)の作品である。19世紀後半のフランスに生きた彼は、まさに〈象徴的〉なかたちで、男と女、ないし性愛と死の結びつきを繰り返し描いていた。たとえば、1860年代前半にかけて描かれた『オイディプスとスフィンクス』(1864年)は、神話を素材にして、そこから男と女の奇妙な関係構図を引き出した作品である。

【出典:モロー『オイディプスとスフィンクス』(1864年)、メトロポリタン美術館所蔵。】

オイディプスが、旅の途上、ライオンの体に人間の頭を持った怪物で、謎かけに答えられなかった旅人を食べていたスフィンクスと出会ったこと。そしてこの怪物の、「朝には4本足、昼には2本足、夜には3本足で歩くものは何か」という、あの有名な謎かけに見事答え、スフィンクスは答えられた瞬間、谷底に飛び込んで自ら命を絶ったことは、数ある神話のなかでも最も知られたエピソードの一つであろう。

ところがモローは、この謎かけをとおした食うか食われるかの闘いに、性愛的な男女関係を重ねているのである。オイディプスとスフィンクスは、まるで恋焦がれあった者同士のように見つめあっている。オイディプスははだけ、その隠れた右腕ですぐにもスフィンクスを抱き寄せそうに見える。しかし、その左手は決して槍を手放そうとはしない。そしてスフィンクス、その鋭い爪をひそませた前足は、たしかにオイディプスの胸、その心臓付近に置かれているのである。殺しあう関係と愛しあう関係は、この瞬間、完全に重なって、冷たく凝固している。

男と女の闘争というイメージ、さらには男を死へと導く「ファム・ファタール(Femme fatale;運命の女、魔性の女)」という形象に、モローの人生は取りつかれているようである。彼は、神話や聖書を題材に独自の解釈を加えるやり方で、この作品以降も繰り返しそういった主題を描くことになる。たとえばその一つとして、同時代において絶大な人気を博した作品『出現』(1876年)がある。

【出典:モロー『出現』(1876年)、オルセー美術館所蔵。】

領主ヘロデ・アンティパスに、その見事な踊りの褒美として望むものを何でも与えると言われたサロメは、母へロディアに命じられて(領主ヘロデとへロディアの結婚を不法なものだと非難したことで捕まっていた)洗礼者ヨハネの首を求め、ヨハネは殺されてしまう。この聖書のエピソードに、モローは、ヨハネに恋焦がれた結果なのかどうか、サロメ本人が首を求めたのだという解釈をほどこして、さらに踊りのなかで、まだ斬られていないはずのヨハネの首が「出現」する瞬間を見出したのだった。

領主ヘロデも母へロディアも、そして画面奥の処刑人も誰一人ヨハネの首の方を見ていないなか、ただ一人それを幻視しているサロメは、虚空に左腕をあげる。そして洗礼者ヨハネの生首もまた、踊りを終えたあと、首を要求するのであろうサロメの目をじっと見つめている。ただ二人だけが互いを認識している異様な空間で、二人は何か話しているようにも見える。その様子は、ヨハネに幾度目かの愛を告げるサロメと、それを聖職者として拒否するヨハネのように見えなくもない。

モローの場合、エロスとタナトスが重なるイメージを生み出す土壌となっているのは、男女の対比、しかも理性や知識、文明を司るものとしての男と、本能や欲望、自然を司るものとしての女という、存分に批判されるべき、西洋の伝統に長くこびりついた二項対立である。このように対立しあう男と女が、同時に性愛的関係をも持つというところに、モローにおける二重性は存在すると言える。

死のすぐそばの愛:クリムトの場合

モローにおいて、19世紀後半に流行ったファム・ファタールという形象とともに、男女という二項がさまざまな要素をかき集めながら対立する、その構図がエロスとタナトスを結びつけているとすれば、グスタフ・クリムト(Gustav Klimt;1862-1918年)の場合はいささか異なる。

クリムトが繰り返し描いてきた女性たちの絵のなかでも、エロスとタナトスの結びつきを主題とするかぎり、まずとりあげなければならないのはやはりこの作品であろう――クリムトにおける「金の時代」の傑作『接吻』(1908年)である。彼の手によるほかの多くの作品でも見られる特徴、すなわち性愛を主題としながらもどことなく死の気配が漂うという特徴は、このよく知られた作品においても際立ったかたちで現れている。

【出典:クリムト『接吻』(1908年)、ベルヴェデーレ宮殿オーストリア・ギャラリー所蔵。】

日本画の琳派の影響を受けたとも言われる金箔の背景のなかで、一組の男女がエロティックに溶けあっている。男性は色では黒、灰、白、形では四角に象徴されており、女性はカラフルな色合いと丸みを帯びた形で彩られている。男の顔はいままさに口づけをしようとしていて見えないが、女の方は目を閉じ、頬を赤く染めており、恍惚の表情を見せているようにも見える。膝を立てて、力なく抱き寄せられる姿は、まさに優しい性愛関係のなかで溶けていきそうなほどだ。二人の愛を言祝ぐように、足元には花々が広がる。

しかし、そこには死の気配が、すでにひっそりと音をたてずに訪れている。足元はたしかに彩り鮮やかな花々で飾られているが、そこはまるで崖のふちのようになっている。だとすると、そこで膝を立てている女の立ち位置は、著しく不安定なものであることになる。それだけではない。目を閉じて力なく男性に身をゆだねている女の様子は、いままさに死を迎えつつある姿であるようにも見える。だとすると、足元の花々は棺桶を埋めるそれであり、崖はすぐそばに迫る死の暗示、男による口づけは優しき別れ=葬送の印ということになるだろうか。そればかりか、愛する女を手にかけたのは、実はこちらに表情を見せない、この男自身なのではないだろうか?

クリムトの場合、エロスとタナトスは、ここでは紹介できない数多くの作品において、さまざまなかたちで結びついているが、少なくともこの『接吻』においては、恍惚の表情が死に向けて眠りゆく表情へと転化する、その可能性として現れているように思われる。恍惚は、死への小径を隠し持つ。愛しあう二人は、モローの場合のような対立関係に置かれることなく愛しあっている、ただそれだけで死を呼び寄せるのである。そうして捉えられた秘密の必然性、生と死の瞬間的同時性こそが、この作品を際立たせているのではないだろうか?

性と死の明暗対比:カラヴァッジョの場合

最後に取りあげるのは、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio;1571-1610年)である。モローやクリムトよりも300年前に生きた偉大なる画家、のちのバロック絵画に絶大な影響を与える傑作群を残し、そして繰り返しの不法行為、ついには人殺しを犯したことで決定的に没落していく、まるで激しい「キアロスクーロ(Chiaroscuro;明暗対比)」で描かれたようなその短い人生で知られる、カラヴァッジョである。

【出典:カラヴァッジョ『果物籠を持つ少年』(1593年頃)、ボルゲーゼ美術館所蔵。】

カラヴァッジョ初期の作品とされる『果物籠を持つ少年』(1593年頃)は、あまりに精緻に描かれた果物の様子で知られる名作だが、まずはこの作品から見ていきたい。少年のモデルは友人であった16歳の画家であるというが、描かれた少年の眼は虚ろである。頬は火照り、口は半開きになっており、服は大胆にはだけている。みずみずしい果物を手にかかえ、首を少し傾けてこちらを見る様子からはエロスがたち込めてくるようである。

しかし、籠のなかの果物をよく見ると、そこにはわずかではるが死の気配が感じられなくもない。たとえば、一枚の葉には虫の卵のようなものがついており、右側のイチジクはすでに枯れかけているのだ。これは、植物学者が見れば病気の原因まで分かると言われるほど、果物の様子が写実的に描かれているということでもあるが、また他方では伝統的な「メメント・モリ(memento mori;死を忘れるな)」の要素とみることもできる。

しかし、それだけだろうか? カラヴァッジョの作品は、「メメント・モリ」という標語を超えたところで、生(性)と死の結びつきを捉えてはいないだろうか? つまり、ここまで見てきた作品がそうであったように、死は、生(性)が極まるそのときに、秘かに、常に、隣りにある――その瞬間こそが、カラヴァッジョにおいても問題なのではないだろうか?

カラヴァッジョがゲイであったと考えられていることは知られているが、デレク・ジャーマン監督による名作映画『カラヴァッジオ』(1986年)は、その彼の性愛と作品の交差を劇的に描き出すことで、カラヴァッジョという人物からエロスとタナトスの瞬間的な重なりを可能なかぎり引き出すことに成功している。

刃物を使った刺しあいはその場で愛の交わりに転じ、骸骨の並ぶ地下墓地では若いカップルが情熱的に絡みあい、いままさに若くして死のうとしているカラヴァッジョの汗ばんだ肉体の痙攣には、手淫によって精液がほとばしるその瞬間を描写した詩のような言葉が重ねられる。ジャーマンにとって、カラヴァッジョとの出会いは一つの天啓であったのだろう。彼は、カラヴァッジョという人物の生と死、そのすべてから、エロスとタナトスの瞬間的結合を引き出したのであった。

そうして本記事の最後に取りあげたいのは、『キリストの捕縛』(1602年頃)である。

【出典:カラヴァッジョ『キリストの捕縛』(1602年頃)、アイルランド国立美術館所蔵。】

イスカリオテのユダが接吻によって兵士たちにイエスの所在を示す、という聖書のエピソードを描いた本作以外に、今回のテーマで取りあげるべき作品はあるだろう。また描かれた場面の性質からも、描かれた背景からも、本作に強いテーマ性を読み込むことは誤りであるように思われるかもしれない。しかし、醜態を顧みず逃げ出そうとするヨハネに対し、兵士から引き剝がされそうになっても必死にイエスにしがみつき、唇を近づけているユダの姿、まさにその接吻によってイエスを死へと送るその一瞬の姿には、たんに兵士たちに示すという以上の何かが描かれているのではないだろうか? 特に、イエスの死後、彼を最も信じていたがゆえに、ただ一人後を追ったのがユダだったという「異端」的解釈を想起するのならば…。

エロスとタナトス――この、ともに抑圧され、忌避されながらも、人間の文化から切り離されえず、またひとを魅了し続ける二つの契機。しかし、エロスがすなわちタナトスであるという結論は、まだここでは避けておこう。代わりに、死とはいずれ必ず訪れるというよりも、生の極まりとしての性愛の瞬間において、あらかじめ、たとえ秘かにではあれ訪れている――その可能性を、これら絵画作品とともに記憶しておきたい。

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