「戦争と記憶」論・断章

第二次世界大戦とイラク戦争、そしてウクライナ戦争。戦争の記憶をたどりながら、戦争とは何か、反戦とは何かを考える断片的評論。戦争が身にまとう幻想と現実を切り分け、いまは歴史的ないし地理的に遠くにみえる戦火に備えるために必要な精神を探る。

Written by イサク

3月12日、浅草公会堂で開かれた「東京大空襲資料展―ふたたび惨禍を繰り返さないために―」を見ながら戦争、この幾度も繰り返される惨禍を考える。遠くには、新たな戦火がまばゆく不気味な光を発していた。

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一人ひとりの名を数えあげること。戦火に死んでいったものたちの名を、一つまた一つと記録していくこと。圧倒的な暴力がすべてを均質にならしていくのに対して、もし記憶に抵抗の契機が求められるのだとすれば、それはこのような個々のものたちの名前、まるでちょっとした石ころ一つで用立てられた墓標のような一つひとつの名前を、数えあげていく態度にこそ求められるだろう。

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暴力は、対象を物化する。暴力によって生あるものは、抽象的で均質な物への道を歩まされる。それはたんに暴力が死を招くからではない。また死一般の性質によるのでもない。たとえば戦時下の空襲においてそうであるように、空から降ってくる焼夷弾やミサイルが、人間を血まみれの肉塊や何者であったかも判別できない炭へと変えてしまうことは、暴力そのものの一つの側面を象徴的に表している。暴力とは、個々の生が持っていた具体性を剥奪し、それらを均質な物へと変質させてしまう力のことなのである。それは、根底において固有な名の剥奪であり、何者かであるということの消去である。

かつて記憶するという能力は、こうした暴力の作用に対抗することで、暴力によって死んでいった者たちの個別性や具体性を保護してきた。しかし、暴力が、いわばその総量において圧倒的なものへとなってしまった現代では、記憶による個別的なものの保護は危機に立たされてしまう。もし記憶が敗北してしまったときには、そのあとに残るのは統計的な数字だけである。何万人、何十万人の死者、何百万戸の消失、何千億円の損失といった数字の大きさだけが、出来事の大きさを伝えんと虚空に叫ぶ世界。統計は、対象を均質なものにするという点で暴力に似ている。

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戦争こそが現実である、安全保障を真剣に考えないのは現実からの逃避を意味する――こういった主張を声高に叫ぶ者はいまも後を絶たないが、彼らにとっては意外なことにも、戦時下を体験した世代がしばしば指摘してきたこととは、戦争とは驚くほど幻想に満たされたものであったという事情である。戦時下において「敵」は非人間的であるということになる。戦果は政府や軍部の都合の良いように粉飾され、巷では怪しげな精神論や英雄譚が喧伝され、話も噛み合わないような他人が同胞ということになり、正義は任意に切り抜かれた情報や嘘八百によって人びとの耳目を誤魔化す。それが戦争なのだ。いまだ現実化していない危機を先取りして恐怖を煽り、そうして結局は危機を現実化させようとまでするのは、権力のおのれへの集中とその下にはべる軍隊的秩序とを欲望する権力者の常套手段であるが、この手に乗ってしまったときには、人びとは幻想への扉をすでに開けてしまっているというわけだ。

第二次世界大戦後、世界中である種の現実主義が盛りあがった事実は文化史の伝えるとおりであるが、これは幻想的なものとしての戦時下への反動であった。そうして、瓦礫のなかで現実へと立ち返ろうとした人びとのなかには、「現実」という言葉そのものを二度と奪われぬように勝ちとろうとする者たちもいたのだ。すなわち、現実とは既成事実でもなければ一義的な状況でもなく、多義的であり、また常に変えていくことのできる動的なものであることを、そのとき知ったのだ。

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戦争の際立った幻想性、非現実性は、その代償として極限的に過酷な現実を戦場の若者たちへと押し付ける。飛び交う銃弾、血と尿が混じりあった泥水、砲弾の破片が顔に刺さって目玉が飛び出して死んでいるどこかの誰か、気が狂ってしまった様子の味方、人の肉までをも食べてしまうほどの飢餓、傷と病でまばたきをすることもできなくなって渇いていく戦友…。そうした一つひとつが一体何を意味するのかということは、生き残った者たちにとって、まるで答えようのない謎として心の一番奥深いところに残り続ける。このような返答不可能な謎は、いわば膨張しすぎた現実が理解不可能なものへと転化したことを意味しているのである。

この謎を誠実に抱え続けた者は、大戦後、まんまと生き延びた政治家や軍国主義者が、「彼らの犠牲のおかげでいまのこの国がある」調のふざけたオベンチャラで、兵士たちの死に幻想的な意味を与えようとしたのに対して、しばしば激しい怒りと嫌悪を覚えたものだった。幻想と現実の対比、いや、一面的で分かりやすい幻想と、あまりの多面性によって謎へと化した現実との対立は、戦争終結後も長く消えなかったのだ。それは、幻想もまた消えなかったことを意味している。

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幼い頃のある夜、すでに寝ていた僕を母が無理やり起こし、居間へと連れていった。重たいまぶたをこすりながらも、そんなことはいままでなかったので、少し怖かった。居間ではテレビがついていて何かの映像が流れていた。見知らぬビルが二つ並んでいて、片方から黒煙があがっている。母は、「これは歴史に残る大きな事件だから見ておきなさい」と言った。意味もわからずにいると、急に現れた小さな影がビルへと重なって、まるで桜島の噴火のように黒煙が噴きあげた。そのこと自体よりも、母の強張った様子から事態の深刻さを受け取った。

しばらくの間、テレビはやかましくこの事件を伝えた。遠くニューヨークで起きたこの事件の話題は、日本列島の隅っこの田舎に生きる、肌の焼けた子どもたちの口の端にも頻繁に上った。飛行機に乗るのが怖くなった。誰がこんな悪いことをしたんだろうと思った。その答えは、テレビがすぐに伝えてくれた。映し出されたのは事件を喜ぶ群衆の姿で、犯人は彼らのなかにいるとのことだった。「パレスチナ」という国名をそれで覚えた。友達にも覚えたての国名を話したかもしれない。しかし、テレビはいつの間にか「パレスチナ」を云々することをやめ、気づけば別の組織のことを話し始めていた。「アルカイダ」や「オサマ・ビン・ラディン」や「アフガニスタン」という名前を今度は覚えることとなる。

テロやテロリストという言葉が「残虐行為」や「悪人」を指す便利な言葉のように持ち出され、僕らはそれを飲み込んだ。そうして事件は、しばしば1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件と結びつけられていた。その事件は、家族の外の世界についての記憶として、僕の最も古い記憶の層に属していた。テロやテロリストという言葉を使うのならば、幕末の薩摩人や長州人も十分にそう呼ばれる資格があるだろうということに思い至ったのはしばらくあとのことであった。

中学生になり、生活が慌ただしくなっていた頃、今度は「イラク」という国と「サダム・フセイン」というヒゲ面の政治家の名前を覚えることになった。そいつが黒幕だという話のようだが、そのときはいささか首を傾げた。まるで映画の途中で寝てしまって、話についていけなくなるのに似ていた。ジョージ・W・ブッシュ大統領が「十字軍」だとか何とか芝居がかった八の字眉毛の顔で演説をし、開戦を熱狂的に支持するアメリカ人の様子が居間に流れてくる。小泉純一郎首相(当時)も芝居がかった調子で戦争を支持した。いつ覚えたかも分からない「アメリカ」という名に、はじめて明確な嫌悪を覚えた。

戦争の大義としてしきりに語られていたイラクの大量破壊兵器なるものは、結局なかったと報告された。それどころか、9.11との関係すらなかったそうだ。それでも戦争は続いた。終戦のとき、僕はもう大学生としての最後の年を過ごしていた。終戦後、この戦争による民間人の死者数は約50万人だと耳にした。50万人である。その一人ひとりの具体的な生のあり方、死のあり方なんて、どうすれば想像できると言うのだ。そしてこの死のあり方に対して、とりようのない責任をとらなければならない者たちは、いまどこにいるのだ。

戦場で死んでいった若者たちは、もはや失われたその口で、何か語る言葉を用意しているのであろうか。自らの選択と行為に対して責任をとることが「大人」の存在規定であり、それがいまだできないと見做されることで参政権から排除されている子どもたちは、いずれまた、あの戦場で死んでいった若者たちへとなるのであろうか。戦争の責任をとらず、またとらせることもできないことによって、自ら「大人」であることを貶め、壊し、やめてしまった者たちは、それでも子どもたちを指導する位置に自身を置くのだろうか――こういったあらゆる問いに答えられないかぎり、問いは心に抱え続けられなければならない。そのために僕は、自身の世代を「イラク戦争世代」と呼ぶことにした。

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反戦とは、ただ平和を祈ることでもなければ、戦火に心を痛めることでもない。その犠牲に対して、責任をとり、またとらせようとすることである。国家間の戦争の結果としての勝利や敗北に関係なく、諸々の選択や行為や発言に対する責任者を個々に見出し、責任をとらせること。それが達成される場合にのみ、平和という約束は空手形ではなくなるのであり、またその意志こそ、戦争を用意する者たちを最も恐れさせるのだ。幻想的な英雄ではなく、現実的な責任者。国家による実定法ではなく、普遍的な自然法。国家的社会ではなく、社会的自然および自然的社会。これが反戦の拠ってたつ拠点である。

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国家ないし国家に準ずる組織の間において生じる戦争を、人間本性だとか、歴史における不変的な要素だと考えている者は、戦争と闘争を区別できないほど論理力に欠けていることは別にしても、自身で思っている以上に歴史学的および人類学的な知性の持ちあわせがない点で特徴的である。ちょうどそれは、自分たちは米や麦を食べているのだから、人間はいつもどこでもそれらを主食にしてきた、とか、自分の知っているかぎり人間は貨幣経済を行なってきたのだから、貨幣は人間の本質に属する、といった判断と同様の誤りを犯している。この種の誤りに寄りかかることで、実際に起こされる戦争という目の前の既成事実を承認するのだから、おかしな迷妄のもとで「聖戦」を戦っていると信じている者たちとそれほどかけ離れているわけではない。この誤れる「現実主義者」たちは、いわばホモ・ベリクス(Homo bellicus)という神話を信仰する「聖戦士」とでも呼ぶべきだろう。知性は、常に彼らにかける水を用意していなければならない。

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ウラジミール・プーチンの選択によって、ウクライナの人びとの生命と生活が残酷に奪われ、ロシアの若者たちが戦場や刑務所に送り込まれているとき、世界からは驚きの声があがった。8年前からウクライナに対するプーチンの一連の態度を見ていたにも関わらず、である。プーチン個人と関係している学者や政治家が、「彼はどうかしてしまった」などと騒いだことは、やはり個人の人格分析よりも、社会の構造分析のなかで権力者を捉える方が何倍も価値を持つことを示しているだろう。さらに歴史のなかから権力者の姿を取り出すならば、なおさら驚きは減ったであろう。真珠湾攻撃の前、アメリカや日本の学者は、日米の密接な経済関係やさらなる経済制裁のことを考えれば、日本が先制攻撃をする可能性はほとんどないと予測していたものだった。それでもやってしまうのが権力者なのだということを、歴史家は知っていたはずなのだ。結局のところ、世界中から漏れた驚きの声というものは、甘い進歩の幻想に包まれて目の前が見えていなかったという点で、哲学的ないし学問的な驚きではなかったのである。

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プーチンと彼を支持する者たちは、あらゆる誤謬と虚偽と神話によってロシア軍のウクライナ侵略を肯定し、さらには核兵器の使用までちらつかせているという話だ。こういった彼らの態度は、こう言ってよければ、この惑星に生きる人びとに一つの問いを投げかけている。その問いとは、「軍事的暴力とは、いまも、そしてこの先も有効であり、なおかつ人間社会において、それに対抗するには同様の軍事的暴力しかないという意味で究極の力の一形態なのか」、という代物である。

現在、この問いを受け、ロシア国内ばかりでなく、世界中でプーチン派と反プーチン派が発生してきている。この場合のプーチン派とは、この問いに力強く「ダー」と答える者たちだ。たとえば日本でも、プーチンに対抗するためには自分たちもプーチンのようになるしかないという一派、核武装や先制攻撃を肯定する一派が、「この機を逃すな」とばかりに声高な主張を始めている。こうしたプーチン派の攻勢は、しばしば反プーチンの旗印を掲げて世界中で展開されているわけであるが、それに対して、同じ反プーチンの旗を掲げつつ、より根底的なかたちでプーチンのあり方を否定する一派、すなわち反プーチン派もまた徐々に動き始めている、と見てよいかもしれない。この真の反プーチン派が拠ってたつのは、本格的な暴力批判論である。彼らは、「殺せ、さもなくば殺す」という命令こそが戦争の――そして、戦争を自身の核心に据え置いているかぎりでの政治一般の――論理的要約であることを知っている。そしてこの命令に抗うために必要な、しかも世界中の人びとがそれに従うのであれば半永久的に戦争をこの惑星から追放することのできるような、また別の心理的命令が存在することも知っているのである。すなわち、「殺せ、というやつを、殺せ」という命令の存在を。

※本記事の続きは、不定期連載として、いずれ続きを本サイトで公開する可能性があります。

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