イサク「エロスとタナトスの密約」を読みながら、筆者はひとりの写真家のことを考えずにはいられなかった。事あるごとにエロスとタナトスという言葉を使い、ついには『エロトス』という写真集まで作ってしまった国民的写真家、アラーキーである。中世の西洋絵画から現代の写真へと場を移し、この魅惑的なテーマを別の角度から探っていく。
Written by はらやま
荒木経惟という写真家
アラーキーの特徴的な外見や週刊誌の連載「人妻エロス」はすぐに思い浮かんでも、荒木経惟(あらき・のぶよし)がどのような写真家なのかを知らない人は多いかもしれない。女性の裸ばかり撮っている猥雑な写真家というイメージも、あながち間違いではないだろう。だが、そんな荒木には活動のごく初期から一貫したテーマのようなものがある。「センチメンタル」「私小説/嘘と真(まこと)」、そして「エロスとタナトス」である。
写真家にしては珍しく、自らの写真について多くを語ってきた荒木だが、その中でも写真家としての立場を確立した『センチメンタルな旅』(私家版、1971)は、先のテーマを明確な形で具現化した実質的なデビュー作といえるだろう。妻・陽子との新婚旅行の様子を時系列に並べた、全108点からなる写真集である。手書きで書かれた序文には、こう記されている。
もう我慢できません。私が慢性ゲリバラ中耳炎だからではありません。たまたまファッション写真が氾濫しているのにすぎないのですが、こうでてくる顔、でてくる裸、でてくる私生活、でてくる風景が嘘っぱちじゃ、我慢できません。これはそこいらの嘘写真とはちがいます。この「センチメンタルな旅」は私の愛であり写真家決心なのです。
だが、荒木は同時に自らの写真が「真実」であるというわけではないことも明確にする。実際、この写真集を見た寺山修司は、完全に虚構の物語だと思い、「今度のは手が込んでるね」と荒木に伝えたという。こうした、写真が持つ嘘と真の関係についての考えが、荒木に「私小説」という形を採用させる。
美術評論家の清水穣は、荒木について興味深い指摘をしている。
「嘘写真」は耐え難い、と、写真の近代主義者が理解し、それでも信仰を捨てられないとき(中略)「これは嘘だ」と分かる写真を撮る。(中略)「あるがまま」への信仰を留保するための「人工的なわざとらしさ」、「センチメンタル」とはそういうことである。
「「キャンプ」の果て」『ユリイカ』2012.7 、p142。
写真の近代主義とは、リアリズムである。広告資本に覆われた現代において、「あるがまま」の自然で純粋な現実――その表層が写真である――はすべて嘘だ、と荒木は断言する。だが、「あるがまま」の世界の存在自体は否定しない。写真に撮ることはできない、愛すべき存在である「あるがまま」の世界をどう感じることができるのか。それは、「疑似体験」するしかないのである。疑似的なものに積極的に自らを投げ込むことで、真なるものに漸近するのだ。
以後、荒木はこれらのテーマを軸に半世紀にわたり膨大な数の作品を発表する。もちろん、興味関心は時を追うごとに変化するものである。なかでも、1990年が最も大きな変化であることは間違いない。最愛の妻を若くして病気で亡くしたのが1990年1月。その後数年間の写真には、ひいき目に見ても「死」を強く感じずにはいられない。71年の私家版の写真に加え、妻との最期の日々を写した『センチメンタルな旅・冬の旅』(新潮社、1991)は、前述の三つのテーマを究極の形で表現した一冊である。
センチメンタルとタナトスの関係
エロスとタナトスという二元論において、荒木の世界は圧倒的にタナトスが優位な世界である。ここでいうタナトスは、攻撃的、殺害的な死ではない。それは、細胞があらかじめ組み込まれたプログラムによって自壊するようなアポトーシス的な死である。思えば、フロイトが晩年に理論づけた「死の欲動」とは、統一を目的とする「エロス的」欲動に対置された、「以前の状態を再現しようと努力」する欲動であった。「生」が誕生する以前の状態、無機物へと戻ろうとする動きである。
こう考えていくと、先に挙げたテーマが相互に結び付きを帯びてくる。「センチメンタル」とは、ただ過ぎ去ってしまい、二度と現れないコトに対する時間軸的な感覚を指しているのではない。それは、過去にあった純粋で無垢な知覚――さまざまな知識や考えや広告資本による洗脳などを得る前にあったであろう、二度と得ることのできない幼児的知覚――への、郷愁なのだ。「嘘」とは、現在の世界であるのに対し、「真」とは、知覚することはできない彼岸にあるものとなる。そして、センチメンタルに浸ることは、死の欲動(タナトス)につかの間身を委ねることなのである。
タナトスに覆われた世界の先に
最後に、『エロトス』(リブロポート、1993)についてみてみよう。『エロトス』は、他の荒木の写真集とかなりテイストが異なっている。それは、撮影者が親密な視線を送り、それに応える対象との関係を写し取り、私小説という物語性を獲得していく荒木写真ではないのだ。ここでは、対象の部分へと一方的な視線が投げかけられている。ある過去のひと時、といった時間的な感覚もない。冷徹にレンズを対象に向け、ただ凝視しているのである。
女性器を想像させるさまざまなものの形象、瑞々しさをギリギリ留めた枯れゆく果実や花、妖艶に輝く濡れた無機物が、独特の影を作るリングストロボの効果によって異様な雰囲気を纏う。リングストロボを使うことにより、対象物が影に覆われず、すべてを露わにすることが可能になる。1996年に全集として出された『荒木経惟写真全集16 エロトス』(平凡社)の巻末で、荒木はこう語っている。
エロス(性)とタナトス(死)ということをいつも感じている。エロスの反対がタナトスで、タナトスの逆がエロスっていうんじゃない。エロティックなことには死が混ざってないとだめなんだよ。相反するものじゃない。
エロスとタナトスは二項対立する存在ではない。だが、コインの裏表のように同じものの両側面というわけでもない。「混じり合う」という言葉が示すように、両者は流体のようなものとして捉えられ、相互に比率を変えながらひとつのモノ/コトの中に併存している。
ところで、この96年版の全集は単行本に未収録の41枚の写真が追加されている。追加された写真は性器など人体が占める割合がかなり多いのだが、これが作品の印象を大きく変化させている。これを文字通り「エロス」の増加と読むには問題があるだろうが、それでも93年の旧版をあらためて見返すと次のように感じずにはいられない。エロティックな中に死を感じるのではなく、死を感じるその中にエロスが垣間見える、と。
とすると、前回のイサクの言葉(本記事冒頭の関連記事を参照)を借りて次のように言えるだろう。生、またはその究極の形として現前する性は――人生における困難な時期だけだとしても――常に手に取るように存在しているというよりも、死の覆い尽くすこの世界を徹底的に眼差すその先に、わずかな形で知覚されることを待っている、と。