平沢進による二つの唄についての考察〔前篇〕

平沢進が、今敏監督の映画『パプリカ』の挿入歌として制作した二つの曲についての考察。消費社会における夢のイメージは、どのように地獄と結びついているのか? そして、もし現代が地獄であるのだとすれば、そこからの解放のイメージをどのようなものとして持つべきなのか? 傑作アニメ映画『パプリカ』と平沢音楽から考える現代論・前篇。

Written by イサク

はじめに―「解説」と「考察」

平沢進(ないしP-Model)の楽曲、その歌詞、その抑揚を前にして「解説」などという言葉を差し向けるのは、何か取り返しがたい誤りを犯すようで躊躇われる。ちょうど海水魚を淡水のなかに入れてしまうような、致死的なまでの場違いな振る舞いを、その「解説」は引き受けてしまうのではないだろうか? 実際にネットに転がる「解説」には、どうも窮屈な思考素とイメージ素のなかで窒息しかけているものも多いようだ。

とりあえず「考察」などと言っておく手が思い浮かぶ。この言葉も、やはり平沢の作品に対して向けると、何か大事なものを取りこぼしてしまうような感じがぬぐいきれないが、ほかに言いようがない。本記事のタイトルを、いわば不可視の「」で何重にも括って「考察」と呼ぶのは、とりあえずそう呼ぶことでしか、平沢の作品について「書く」ことを始められないからである。「解説」という言葉が客観性を主張しつつ、どこか当の書き手自身の事情通ぶりを誇示するようなところがあるのに対して、「考察」という言葉は、その内容を対象の持つ秘密と書き手が解読するという作業との関係で満たそうする。この後者の場合の方が、平沢作品に向きあうには相対的にはふさわしい。世界には、そのようなかたちでしか触れることのできないタイプの作品があるのだ――すなわち、イメージに溢れていると同時に、暗号的であることを自らの主要な性質としている作品が(この点については、後篇であらためて触れられるだろう)。

電子的バロック

平沢の作品に溢れるイメージの形式を形容するならば、〈詩的-電子的〉とでもするべきであり、その内容を表象するならば、地獄の業火に照らされて鼻息荒く腰を振る現代人の挽歌、そうでもなければ、天国から降り注ぐLEDライトに照らされた魂の世界についての教説とでも言うべきだろう。そうして平沢の作品群は、その最も優れた到達地点において、現代日本語で唄われる最高度の〈バロック〉――すなわち地獄的なものとしての時代のイメージを、そこでの人びとの歪んだ表情、不気味な笑みを注視して逃がさない、あのバロック芸術の現代版を僕らに提供している。

それは、バロック芸術論を踏み台に19–20世紀の都市を描こうとしたヴァルター・ベンヤミンの仕事を想起させる。しかもたんに社会批評の文体という点においてだけでなく、そこで〈救済〉の可能性を追求しているという点で想起させるだろう。つまり、僕らの世界がまさに消費社会的地獄にほかならないということは、平沢において、その世界で必死の形相で追求されるべき〈救済〉という主題を繰り返し導き出しているが、その配線はまた、かつてベンヤミンの手によって残された仕事にも息づいていたのだった。

だとすると、本記事で取りあげる平沢進の2曲、すなわちアニメ映画『パプリカ』(今敏監督、2006年;原作は筒井康隆による1993年の同名小説)の挿入歌として発表された2つの曲は、平沢にうってつけの仕事であったはずだ。というのも、『パプリカ』が描き出す、欲望うずまく夢の世界の暴走という主題は、ベンヤミンがフロイトやユングをマルクスの理論に接続して描こうとしていたもの、少なくともその一側面の劇的な映像化でもありうるもので、また資本主義的地獄という視野における一つの象徴的表現でもあったからだ。

平沢作品をこよなく愛する監督によって撮られた映画『パプリカ』は、それ自体として彼の唄ってきた一側面と合致しており、また平沢の2曲もこれ以上なくこの映画に応えているのである。そのことが、平沢の作品を「考察」しようとして、まずこの2曲をここで選んだ所以である。

先取りして言うと、2曲のうち、「パレード」においては地獄としての現代世界が唄われ、「白虎野の娘」においてはそこからの〈救済〉のイメージが唄われている、と考えてよい。そうすると、一つの映画に捧げられたこの2曲を、盤を重ねるようにして聴いたとき、そこに平沢特有の「夢と覚醒の弁証法」が立ち現れるはずだ。このイメージの立ち現れを捉えること――それが本記事の目標である。

以下で、まず映画の内容に触れつつ、続いて2曲を順番に取りあげる。この記事が誰かにとって平沢音楽に触れるきっかけになったならば、さらに言えば、そこに唄われているイメージを懐に忍ばせ、世界と対峙する誰かが生まれるきっかけとなったならば嬉しい。

事物たちの狂気

映画『パプリカ』の序盤は、他人の夢を共有できるという近未来の技術装置「DCミニ」が何者かに盗まれたことから始まり、それが悪用されて人びとの精神が次々に狂い出す、という方向へとすすんでいく。見所の一つは、登場人物の一人である研究所所長の台詞が徐々におかしなものになっていき、ついには完全に狂ってしまって一聴では内容をイメージすることすら困難な「何か」を演説しだすシーンだ。彼の発話は、少しずつ狂っていくので、最初はちょっとした違和感に過ぎない。しかし、徐々に狂気が全面へと迫り出していき、ついに会話の途中、「五人官女だってです!」などと唐突に発してからの台詞は、可笑しくもあり、おぞましくもあり、また美しくすら響く。それは、製作者たちによる現行の日本語に対する一つの挑戦的介入であるようにすら思われるほどだ。

カエルたちの笛や太鼓に合わせて回収中の不燃ゴミが吹き出してくる様は圧巻で、まるでコンピューター・グラフィックスなんだ、それが!総天然色の青春グラフィティや一億総プチブルを私が許さないことくらいオセアニアじゃあ常識なんだよ! 今こそ、青空に向かって凱旋だ! 絢爛たる紙吹雪は鳥居をくぐり、周波数を同じくするポストと冷蔵庫は先鋒をつかさどれ! 賞味期限を気にする無頼の輩は花電車の進む道にさながらシミとなってはばかることはない! 思い知るがいい! 三角定規たちの肝臓を! さぁこの祭典こそ内なる小学3年生が決めた遙かなる望遠カメラ! 進め! 集まれ! 私こそが! お代官様!

同上『パプリカ』。

突如としてこのように叫ぶと、大笑いしながら走り出し、窓ガラスを割ってビルから飛び降りてしまうのだから、観る者は驚愕と戦慄に包まれることになる。

しかし、このシーン以上に視聴者を驚かせるのは、実際に混淆した夢の世界を描いたシーンである。そこで上の引用で話されていた「何か」が、そのまま映像になる。つまり、本当に「カエルたちの笛や太鼓に合わせて回収中の不燃ゴミが吹き出し」、あるいは「周波数を同じくするポストと冷蔵庫は先鋒をつかさど」ったパレードが始まるのだ。狂気の行進、事物たちの夢の行進が楽しげで不気味な唄声を轟かせる。

【出典:映画『パプリカ』劇中シーン。実際に、台詞に予告されていた事物たちのパレードが登場するこのシーンは、本作の魅力を大幅に上げている。】

劇中で二度描かれるこれら夢のパレードのシーンは、しかし、たんに「狂っている」という言葉で語りきれるものではない。所長自身は、たしかに狂った誇大妄想家の夢を植え付けられてあのようになったとしても、である。そこに描かれているのは、たんに個々人の夢の集合体であるというだけでなく、〈現代の夢〉、消費社会としての現代のなかで僕らが夢見る果てしなき欲望なのだ。

物語の終盤にはっきりと描かれるのだが、このパレードを構成する事物たちは、たんに僕らのまわりにあるさまざまな商品や貨幣なのではなく、僕らの欲望によってかたちをなす〈物神〉――呪術信仰において神化された事物の意味で、特にマルクスは、資本主義社会において信仰対象と化した商品や貨幣を指して使った――である。実際に映画では、達磨や七福神や自由の女神や鳥居が行進しているのだが、これらの形象は欲望がかたちをなした〈物神〉を半ば皮肉に描いたものであろう。人びとは〈物神〉に熱狂するばかりでなく、欲望を剥き出しにして自ら〈物神〉へと変身し、小躍りしながらパレードに加わっていく。

パレード、あるいは地獄としての現代

ここまで映画『パプリカ』の内容にいくらか分け入ってきたのは、平沢進の提供曲「パレード」がそこで描かれているものに根本的に関わるからだ。要するに楽曲名のいう「パレード」とは、現代を練り歩く欲望のパレードであり、あるいは行進をしだすほど浮かれた欲望そのものなのである。しかも平沢は、劇中で描かれた夢と欲望の大行進をたんに楽曲へと翻案したのではない。詩的抑揚と韻の力によって、そこに強烈な批評力を与えたのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=Mr86_f-kLSQ

以下では、この曲のマーチのリズムに合わせるようにして、歌詞を順番にたどりつつ、その隅々から覗き見える現代社会のバロック的様相をスケッチしよう(以下、引用は「パレード」の歌詞から)。

胸にエナジー ケミカルの泡立ち

ハイヤーや古タイヤや血や肉の通りを行き

あれがリバティー ユートピアのパロディー

ハイヤーやギガ・ムービーの絢爛の並木は晴れ

平沢進作詞・作曲「パレード」ケイオスユニオン/TESLAKITE、以下引用は同じ。

現代社会の消費者たちは、根本において〈晴れやか〉である。資本主義が要求する消費者としての表情のあり方が〈晴れやかさ〉なのだ。人は消費に心躍らさなければならない――これが資本主義の命ずるところである。高鳴る胸の泡立ちが「ケミカル」なのは、その欲望が消費者としての人間において、もはや自然なものではないからだ。心躍るあの瞬間ですらもはや自然ではない。つまり、消費者とは、純粋な自然存在としてはもはや人間ではなく、ある種の化学化合物なのである。実際に、これほど多くを欲望し、その欲望が満たせなくなる可能性をこれほど不安に思っている存在が、人類史のなかにどれほどいただろうか?

不安は消費でかき消すしかない。人びとは、消費社会によって合成された欲望で胸をいっぱいにして、「ハイヤーやギガ・ムービーの絢爛の並木」の合間を歩いている。それらスペクタクルが指差して教える希望としての自由(リバティー)の在処が、なぜ本物のユートピアではなく、「ユートピアのパロディー」でしかないのか。それは、商品を貪って享楽をつくす自由の夢は、消費を加速させるために広告などによって構築された偽りの桃源郷に過ぎないからである。その夢のなかで、人びとは自らと欲望をひたすらに肥大させ、不安を圧殺するように大手を振って行進する。言い換えると、夢であったはずのものが、現実の生そのものであるかのように振る舞いだすのである。

死神商売

マイナーな欝は戯言 バラ色は廉価

いわく幸せと知れ 持ちきれぬほど

この日常化したお祭りのなかでは、人を憂鬱にさせる発言、特に消費社会に向けられた、声低く語られる批判的発言は、「戯言」として相手にもされないだろう。みな貪ることに必死なのだ。バラ色の人生なるものは、ショッピングモールや歓楽街で、少なくとも人生の値段としては格安で手に入る。たとえば、僕らが口にする甘いスイーツは、かつては王族貴族の特権であったはずだ。そうして、「持ちきれぬほど」の幸せに感激しながら人生をバラ色の消費で埋めつくせ、と語る人格は、資本主義ないし消費文化そのものにほかならない。それは、僕らの耳元で囁き、不安を煽り、同時に不安に対処する怪し気な解決策まで示唆してくる。

瀕死のリテラシー メカニカルに殺す

売人や吊るワイヤーやホルムアルデヒドの通り

乾くシナジー 合成スイートで湿し

高層のメガ神殿に狂乱のファンドの雨

僕らの抱く欲望には、企業広告を主とするマス・メディアによって構築された諸要素が隅から隅まで浸透している。かつての人間社会では、歴史的ないし社会的に構築された知性や道徳によって(かつては自然的とみなされ得た)欲望が抑圧され、しかし抑圧されることで、その昇華としての文化を形成すると見なすことができた。しかし現代では、欲望までもがすっかり構築物になってしまっていて、ほかの産業構築物と協働しながら巨大な消費文化のシステムを構成しているにすぎない。

法やリテラシーなどというものは、あくまでシステムの補助機能にすぎなくなっている。そこでは、夢が現実の生へと転化したことの必然的帰結として、死が呼び込まれる。夢は覚醒にいたるが、覚醒にいたることをやめた夢は生へと凝固し、覚醒の代わりに生の必然としての死を呼び込む。現代社会に遍在する死の気配は、消費文化の隠された側面である。死にいたる消費を促す売人(筆頭は覚醒剤などの禁止薬物の売人だ)、死刑制度、大気を汚すホルムアルデヒドまでもがこのシステムの部分であり、死を機械的なリズムで生み出してゆく。

かつての王城宮殿すら凌ぐ規模で、平然と都市に並び立つ「高層のメガ神殿」、この資本を祀る巨大な神殿は、システムの主要機関である。資本の神に操られて、祭司たちは狂乱の儀式を取り行う。濫用と浪費こそが求められている。必要がなければ、祭司たちは、必要そのものを生み出そうとするだろう――ペンを売りたければサイン欄を、トースターを売りたければ朝食を、武器を売りたければ戦争を、友を売りたければ耐えきれないほどの孤独を!

(続く)

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