平沢進による二つの唄についての考察〔後篇〕

平沢進が、今敏監督の映画『パプリカ』の挿入歌として制作した二つの曲についての考察。消費社会における夢のイメージは、どのように地獄と結びついているのか? そして、もし現代が地獄であるのだとすれば、そこからの解放のイメージをどのようなものとして持つべきなのか? 希望の在処を解き明かす、平沢音楽とともに思考する現代論・後篇。

Written by イサク

愚者たちの天国

「蒙昧」の文字は書けねど 未来は廉価

なべて迷信と笑え 因果のストーリー

平沢進作詞・作曲「パレード」ケイオスユニオン/TESLAKITE、以下引用は同じ。

消費文化のシステムのなかでは、「蒙昧」の字を書けないほどには蒙昧であるのが好ましい。自らの蒙昧さに気付けないほど蒙昧であることがよいのだ。この点では、状況は順調の一言である。おかげで識字能力というものも考えものになってしまった。20世紀をとおして、識字能力は急速に上昇した。だが、そうして上がった能力を、人びとは知性や徳性を鍛えるためではなく、意味の分からぬ煩雑な書類を作成したり、ネットの匿名掲示板まとめサイトを必死に徘徊したり、SNSで見知らぬ誰かを見知らぬ話題で反射的に攻撃するためばかりに使用しているのだから、この貴重な能力は獲得されたそばから捨てられたようなものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=Mr86_f-kLSQ

現代の蒙昧さとはこういった種類のもので、それは前近代の民衆のそれとはまるで異なる。しかも、こうした蒙昧さはまったく湿っぽさをまとっておらず、あくまで〈晴れやか〉である。蒙昧さを指摘されてカチンとくる、そのときすら、どこか〈晴れやかさ〉がともなっている。字を読めるおかげで広告を読み、より多くの買い物をすることもできるのだから、きっと素晴らしい未来すらもお得に買い上げるだろう。「こんなことを続けていたら、いつか必ずしっぺ返しがくる」などという古い因果説は、それこそ識字率低き時代の民衆的迷信にすぎないというのが、現代人の常識である。端的に言って、説教や警告などされたくないのだ。

さあ 異臭を放ち来る キミの影を喰い

恐怖のパレードが来る キミの名の下に

こうして、いよいよあのパレードが到着する。興味深いことに、平沢が捉えた欲望のパレードは、映画内のパレードよりも、さらにはっきりと死の気配を纏っている。というよりも、それは来るべき死そのものだ。『パプリカ』において夢と現実が混じりあってしまうのだとすれば、「パレード」においては、夢が現実の生かのごとく凝固し、生がまるで夢のように浮かれたものとなった様子が描かれる。そうして死が、「因果のストーリー」に沿って避けがたいものとして訪れる。爛々と目を見開いて、歯を剥き出しに高笑いした表情が、そのまま髑髏のそれへと変わる。「恐怖のパレード」は、「キミの名の下に」、すなわち消費者としての僕らが産み出してしまった因果としての、僕らの死なのである。続く歌詞の解釈は、以上の考察から充分に推測できるだろう。

娘は白虎野を出でて

楽曲「パレード」が描くものがすでに現在化してしまっているディストピアであり、悪夢としての現代社会であるとするならば、映画『パプリカ』に提供されたもう一つの楽曲「白虎野の娘」は、この地獄的世界から抜け出す方法、ないし〈救済〉について唄われたものだと解釈したい。この曲が描く美しい橙色の夕暮れないし朝焼けを思わせる光景と独特な祝祭のイメージは、真昼ないし真夜中の地獄を不気味に描く「パレード」とは、どこまでも対照的であるように思える。

実は、「パレード」と「白虎野の娘」の原曲は、映画『パプリカ』公開と同じ2006年、映画に先立って出された平沢進の10thアルバム『白虎野』(ケイオスユニオン/TESLAKITE)に収録されていたものである。特に「白虎野の娘」は、本来「白虎野」という題名で収録されていた曲を、一部歌詞を変更して映画に使用したのだ。変更前の歌詞には、「アオザイの娘」や「ノンラーの賢人」といった言葉が出てきており、ベトナムとの関連がよりはっきりと打ち出されている。何を隠そう「白虎野」というのも、ベトナムのバクホー油田(White Tiger Oil Field)をモデルとしているという。またそれにあわせてアルバム全体に、「西方」(白虎の方角)のイメージが織り込まれている。

そしてこのアルバムにおける文脈では、「パレード」はともかく、「白虎野」を現代からの〈救済〉をテーマとした曲と解釈するのはやや無理筋のように思えて当然であろう。そこにある平沢特有のアジア的イメージがまず考察されるべきだし、むしろ石油をめぐって歌われた党派的とも思える意味を嗅ぎとることも可能だからである。

しかし、小説や映画の短編集における一つひとつの短編を、また別の短編群のなかに配置すると異なる意味やイメージが浮かび上がってくることがあるように、一つの楽曲も、それを断片として捉え、本来の文脈から別の文脈へと転移させたとき、また異なる内容を垣間見せてくれるものなのだ。その意味で、本記事で必要なのはアルバム『白虎野』ではなく、歌詞が変更され、あらたに映画『パプリカ』という場を得た「白虎野の娘」についての考察であろう。以下の歌詞考察は、そのように限定して書かれたものである(「生まれなかった都市」などを含む傑作アルバム『白虎野』については、また別の機会に考察をしたい)。

救済を指す娘を追って

https://www.youtube.com/watch?v=3Ogdux8c9IY

遠くの空 回る花の 円陣の喧(かまびす)しさに

あの日や あの日に 超えてきた分岐が目を覚ます

平沢進作詞・作曲「白虎野の娘」ケイオスユニオン/TESLAKITE、以下引用は同じ。

本曲の祝祭的気分は、まず冒頭から響く祭りのかけ声のような声音によって導き込まれる。そうして最初のヴァースで詩的に描かれるのは、空を大きな音を立てて彩る花火である。しかし、祝祭は、ここでは日常化してしまった消費社会のそれ、途切れることなく続く〈現代の夢〉のそれではない。祝祭を飾る花火は、ここであるものの想起へと結びつくのである。それは、「分岐」としての過去、また別様の現在への道を可能性として内包していたような過去のある瞬間についての想起である。過去が覚醒するのだ。本曲が持つ独特の寂しさ、切なさといった要素は、こうして覚醒的に想起される過去と関係している。

かげろうに身を借りて 道を指す娘を追い

高台に現れた 名も知らぬ広野は懐かしく

過去を想起するなかで、そこにあった別の現在へと続く道を指し示す「娘」が現れる。この幻影的な娘は、映画との関連では、夢の世界を天真爛漫に走り抜ける主人公パプリカ(落ち着いた性格である千葉敦子の夢のなかでの別人格)のようにも思え、またその意味で〈もっとこうであってもよかった〉ようなものとしての自身であるようにも思える。「かげろう」とは昆虫の蜻蛉でもあるだろうが、またその名の由来である、儚い光のほのめきでもあろう。「かげろうに身を借りて 道を指す娘を追い」――そうして目の前に広がるのは「名も知らぬ広野」、すなわち自身が現実の過去においては見ることのなかった、しかしその過去から少し脇道に逸れたら気づくことができたかもしれない、可能性の広野なのだ。

【出典:映画『パプリカ』劇中シーン。パプリカは、現実世界では冷静で少し地味な研究者である敦子が、本当はこうありたいと願っている可能性としての自己である。そのような自己を持っていないとすれば、自己実現に恵まれた幸福な生だからではなく、たんに著しく想像力が欠如しているからだろう。】

歴史家の使命

あれが夢で見せた街と 影の声がささやいた

来る日も 来る日も 幾千の分岐を超えた時

過去のあらゆる瞬間を分岐として理解するならば、僕らが今日まで生きてきた生とは、幾千幾万の分岐を超えてきた、その積み重なりそのものである。そして未来への道もまた、無数の分岐の通過を意味するだろう。そうして生きていくなか、ある瞬間に〈救済〉のときが訪れる、という――それは希望というほかない。可能性としての自身の影が「夢で見せた街」、いわば〈約束の都市〉にいずれ行き着くという希望は、世界が過酷であれば過酷であるほど捨てるわけにはいかない心象となる。問題は、どのようにしてその場所へと行き着くことができるのか、言い換えると、現実であるこの世界をいかにして変革するのか、にある――そのために、ひとは、自身がある種の歴史家であることを必要とされるだろう。

暗がりの賢人が 捨てられた日々を集め

海沿いに 海沿いに 見も知らぬ炎を躍らせた

ここで歌われているのは、夜からまた太陽が昇って朝を迎えるという日々の光景であるだろうか? ただそれだけであるだろうか? 重要なことにも、新たな朝を迎えるためには、「捨てられた日々」が集められなければならない。「捨てられた日々」とは、これまでの分岐のなかで歩まれることのなかった(ほとんどの場合、気づかれることすらなかった)多数の小径である。そのような日々を、夜にひっそりと手元に手繰り寄せる収集家――それがここで言う、最も広義の意味での〈歴史家〉なのである。自己の、そして自己のものですらない過去を集める歴史家、すなわち「暗がりの賢人」であることが、「夢で見せた街」へと続く道を、つまりは〈救済〉への道を生み出すだろう。

そうして歴史家は、「捨てられた日々」をまきのように燃やす。いや、日々というもの自体が、すでに火の属性を有していたはずだとも言える。しかし重要なのは、そうして生み出された太陽が「見も知らぬ炎」であるということだ。毎日毎日、いやでも昇ってくる、この終わりなき日々のそれではなく、僕らにとって見知らぬ太陽なのである。これこそが、地獄的世界における希望の象徴形式である。その新たな太陽は、これまでの太陽が照らし出してきたのとは違う光のなかで、世界を明るみに出すだろう。新たな光のもと、世界と事物と僕らは、これまでとはまるで異なる姿でもって照らし出されることだろう。

大地の祝祭

あーマントルが饒舌に火を吹き上げて

捨てられた野に立つ人を祝うよ

あー静かな静かな娘の視野で

あー見知らぬ都に灯(ひ)が灯りだす

こうして、サビの歌詞で歌われる、この美しいイメージが伝えるものも明らかになるだろう。「捨てられた野に立つ人」とは可能性としての過去の自己、あるいは過去の打ち捨てられた可能性を認識し、収集して、未踏の未来を紡げる者である。そして「静かな娘の視野」、すなわち喪われた過去の可能性を見る眼に、いまだ未見の〈約束の都市〉についに灯がともる瞬間が映り込む、そのような来るべき〈救済〉の契機なのだ。ここでは、〈救済〉とはどこかの救世主によって与えられるものではなく、自身によって勝ち取られるべきものである。

同時に、サビは歌詞が変更されていないこともあり、元々の「白虎野」における油田のイメージがなお強く残っている。「マントルが饒舌に火を吹き上げて」、「見知らぬ都に灯が灯りだす」というわけである。しかし、「白虎野の娘」においてはすでにほかの歌詞との関連で、白虎野は、バクホー油田である意義を完全に失ってしまっている。各ヴァースの歌詞が変更されたことで、サビのイメージも変化しているのだ。

そうして、ここまでの考察にしたがって理解するのならば、「パレード」における現実の生へと凝固した夢と、「白虎野の娘」における過去に可能性として打ち捨てられたままの夢という、二つの夢の相違に、思考の拠所を持たなければならない(「白虎野の娘」においても、後半の歌詞で夢が登場する)。すなわち、前者の夢が死を呼び込むのに対して、後者の場合ははっきりと覚醒を、しかも決定的な覚醒を目指して、夢が深められるのである。それは、たんに目の前の現在を消費するだけの夢と、過去との結びつきによって未来を産み出す夢という点で、含み持つ時間の幅がまるで違う。前者の夢を後者のそれへと転化することが、自身の手による自身の救済の条件なのである。大地が火を噴きあげて祝うのは、あくまで後者の意味での歴史家の夢なのであって、セメントで固められた消費社会の夢ではないのだ。

以上で「白虎野の娘」の考察を終えよう。このあとに続く歌詞の解釈は、すでにここまでの考察の延長でそのイメージを掴めるはずだ。

ここまで続けてきた勝手な考察は、あらかじめ述べておいたように、筆者である僕自身と平沢の楽曲とが結んできた関係そのものの記述である。作品に外在的な情報よりも、作品が僕に喚起し続けてきたイメージを重視した。その意味でこの考察は、あらかじめ〈誤読〉の可能性を引き受けて開始されたと言ってもよい。しかし、解釈の領域においては、〈誤読〉こそが担う重要な任務というものもあるのではないか? どれだけ豊かに〈誤読〉できるかが、暗号としてひっそりと、広告の掲げる〈分かりやすさ〉を寄せ付けないかたちで伝えられる意味を受け取る際には重要なのではないか? 暗号的である作品においては、さまざまな受け手にそれぞれの〈誤読〉を忘れがたく抱かせ続けることが、作品の生を規定するのである。本記事がたんなる考察にとどまらず、そのような意味での〈誤読〉としての批評であることを願いたい。

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