アンチ・デモクラシー・デモテープ Vol.1

民主主義はどこに向かうのか?…などという問いの立て方が、すっかり白々しくなってしまった昨今。皮肉な気持ちは、もはや紙とペンに向かうしかない。そうして民主主義を挑発するかのように書き連ねられていった膨大な断章群から、ほんの一部を選んであらたに並びなおしたものを、「デモテープ」というタイトルでここに公開!

Written by イサク

遠くの喜劇

近年、民主政治は、馬鹿げたから騒ぎに包まれている。いや、それが民主政治の存在そのものをも脅かしているのだとしたら、「から」騒ぎと呼ぶわけにもいかないだろう。民主政治をめぐる乱痴気はすでに見慣れたものになり始めていて、まるでオエライサンの汚職スキャンダルや俳優の不倫騒動のように、ワイドショーの楽しみに加わりつつある。そういったショーのコメンテーターたち、たんに間抜けな思いつきばかりを口にしているというよりも、むしろ視聴者を間抜けにし続けることが使命であるかのような、あのお馴染みのコメンテーターたちも、いまのところは真剣な面持ちで事態を見守ってみせているわけだが、そのうちついつい頬も緩んでくるに違いない。

実際に、なかなかファニーなのだ。たとえばある国では、選挙の結果を不正だと妄信する暴徒たちが議事堂に突入し、その廊下を我が物顔で歩いてまわったばかりではなく、何かピクニックにでもきたかのようにピースマークで記念写真を撮り、ついでに公的書類や施設内の備え付けの椅子を盗ってきた者までいた。その椅子はすぐにインターネットで売りに出されていたという。議事堂の周りには自称愛国主義者の暴徒たちが用意した無数の旗がひらめいていたが、そのなかには、おっちょこちょいな奴もいたらしい――自国南部の地方政府の旗と間違って、全く異なる同名外国の旗までもが掲げられていたのだ。おまけにその外国とは、かつて仇敵である国家を支配した独裁者の生まれ故郷だったというわけで、その独裁者もきっと死ぬ前に夢見たであろう、母国の旗が宿敵国家の中心部に天高く掲げられるという能天気な光景が、このお馬鹿な愛国者たちによって達成された次第である。

この物語は、港町の酒場できかれるような皮肉交じりの馬鹿話ではなく、現実政治の中心で起こった珍事なわけだから、後世の歴史家たちの嘲笑を待つまでもなく、いまにでも誰かが笑い転げてしまっていても仕方がないのである。まったく、この暴動に関係して出た死者たちには申し訳ないかぎりなのだが。

ところで、また別の国では、こんな珍妙な事件も起きたという噂を、ある港町で耳にしたことがある。その国もまた民主国家を名乗っている。ところが何十年の月日を重ねても、いまだに複数政党制すらまともに生み出すことができず、わずかな例外的時期を除けば、実質的な一党支配が続いている。投票率は低く、要するに、主権者であるはずの人びとに主権者としての能力も責任感も欠けているという状態らしい。そんな国家において、選挙の際に、政権与党に属するある立候補者は、投票率と自分が勝つ可能性とを計算してみたところ、投票率が低く抑えられればどうやら対立候補に勝てそうだということが分かってきた。政治家の性質としては全く好ましいことにも彼は素直であったので、選挙キャンペーン中、有権者に向けてこう訴えたのだった――「みなさん、どうか投票には行かないでください」と。

さて、そんなファニーな民主主義諸国家が集まって、彼らの言うところの民主主義なるものを盛り立てるための国際サミットが開かれたという。どこぞの専制主義国家に気合を入れて対抗するという決意を固め、民主主義の価値を再確認しようというのが、その趣旨であったそうだ。まったく結構なことだ。ところで、そのサミットには、民主主義の「主」たるところの「民」は、どれほど参加したのだろうか?

健康診断

ある民主国家が、本当のところはどの程度民主主義的なのかを測るための便利な基準の一つは、政治家のなかに、代々権力を引き継いできた名門出の議員、世襲議員がどれほど少ないかという数値に求めることができる。真に民主主義的な国家、すなわち、民主主義国家を運営するに足る諸々の能力を、主権者である人びとが十分以上に有している国家においては、政治家は主権者の諸々の選択を調整し、それを人びとに還元すればよいだけなのであるから、必要なのは中間管理職的な業務処理能力だけであって、そこに何世や某家といったかたちで継承されるような権力は必要ないし、ましてや彼らが「先生」などと呼ばれてありがたがられることもない。代議制の価値とは、本来このようなものである。つまるところ、政治家などという職業は存在しないはずなのだ。

逆に、真の民主国家、とまでは言わないまでも、相対的に民主主義的な代議制国家においては、たとえば誰もが人生のうちで一度は地方ないし中央の議員を二、三年ほど勤めることが推奨され、それがこの国家における一人前の証にすらなっているはずだ。したがって、もしある民主主義を掲げている国家に世襲議員の類いが数多くいるとすれば、そしてほとんどの主権者が政治運営に携わったことがないとすれば、その国家は民主主義的であるというより、〈疑似民主主義的-貴族国家〉であるとする方がより合理的な判断である。そこでは、政治家なる者たちは自らの立場を職業として認識することすら徐々にやめていき、ついには生まれ持っての身分だと感じはじめる。そうして人びとから預かっている税金は、彼らから搾り取った年貢へと変わるのである。

ところで、このような民主主義の度合いを測る判断基準は、民主主義者にとってよりも、反民主主義者にとって喜ばしい結論を与えるものであるだろう。というのも、この基準に当てはめるのならば、この星の地図から民主国家をほとんどすべて消すことができるのだから。

伊達と酔狂

民主主義教育においては、反民主主義者を自認する人間に対しては目を見つめ、軽く頬をひっぱたいてこう言ってやるだけでよい、「黙れ、君は発言の自由を欲しないのであろう。それともまだそれらの自由とのお別れはすませていなかったのか?」と。表現や集会、結社の自由として承認されているものは民主主義を促進するためにこそ必要なのであって、それへの反対者には無用の長物であることを想い起こさせてやればよいのだ。

ところが、反民主主義者を積極的に自認しているわけではないものの、事実上は民主主義とは反対の方向へ歩んでいる者に対しては、そのような簡易的な対応で済ますことはできない。この場合、おおよそ個人ではなく、社会というより深刻な領域に問題が存在しているからだ。ところが、現状の社会が持つ問題を指摘しつつ、彼の顔を民主主義の方に向けようと説得ないし指導する試みは、ほぼ間違いなく失敗する。彼は長々と説教などされたくはないのだ。かといって、彼を完全に相手にしないという選択を取ることもしがたい。というのも、彼もまた民主主義が求めるところの主権者であるわけなのだから。

では、彼に寄り添う姿勢を見せること、すなわち、彼と意見が同じであり、また彼が愛しているものを愛していることを伝え、彼を見守りながら、長期間に渡って少しずつ彼を「改造」しようと試みることはどうであろうか?――こればかりは、やめておいたほうがよい。かりにこの一人に注力する試みがある程度の成功をおさめたとしても、そうして一粒の水滴を望んだ方向に流すためにあらゆる我慢強い努力を払ったあと、ふとあらぬ方向に流れる大河を見て、全身に徒労感を得るだけの結末になるだろうからだ。この結末に続くのは、今度は自身も民主主義を疎外する道に安息を求めるようになり、別の誰かに頬を叩かれる心づもりをするはめになるという未来である。

結局のところ、民主主義者としてのこういった必死な精神、あるいは民主国家の主権者としての誇りと真面目な責任感といったものは、それが一見真逆に見える態度と、すなわち生真面目さを感じさせない余裕のある態度、軽口と皮肉をたっぷり携えた、蛇のようなニヤケ顔の態度と結びついているときにのみ、まだしもやりようのあるものなのだ。いや、たんにやりようがあるというだけではないかもしれない。というのも、最も高貴な民主政治とは、決してユーモアを欠かさぬ人間たちによってこそ成立するのではなかっただろうか?

整腸作用

民主主義の没落は、民主主義を投票結果そのものと同一視する状態において、すでに一定以上進行している。しかし実際は投票結果どころか、実はというと投票そのものさえ、民主主義と同一視することはできないというのが事の真相である。

もちろん投票は、民主主義において重要な器官ではあるのだが、それは言うなれば、民主主義という人体における胃腸のようなものである。この人体は、人間と人間のあいだ、人間と自然のあいだ、自然とほかの自然のあいだに広がる諸要素を不断に取り込み、話し合いと呼ばれる消化液を混ぜ込んで、何らかの具体的選択行為というかたちへと高め、分解し、吸収していく。

この選択行為が民主主義における投票活動であるとすれば、その結果はといえば、体外へと放出されることを待ち望みながら、腸をパンパンにしている、あの〈結果的事物〉にほかならない。民主主義が自らをその結果物と同一視するなどということが、近年あまりにも多く見受けられるが、それはもしユーモアでないとすれば、あまりに自己卑下が過ぎるというものだ。あえて言えば、せめて自身を糞尿生産機とするくらいが、ユーモアとしても謙遜としても、まだしも限度というべきだろう。ということは逆に、ひとつ、民主主義を掲げるどこぞの中途半端な体制の僕(しもべ)たちを馬鹿にしようと思ってみて、(いくらか殴られる覚悟とともに)そいつらを目一杯、〈投票結果〉と同一視してやることが、振り返っては自身にとって一番効果のある薬になるだろう。

身近な悲劇

二〇世紀以降に数多く成立した「○○民主主義国」や「○○人民共和国」といった国家のほとんどが、実際はまともな選挙すら行われない独裁国家であるという事実は、もしより民主主義的な政治共同体がこの星を包む時代がいずれ来たとすれば、過渡期ないし黎明期に特有の混合的奇観として歴史家の笑いの種になっているかもしれない。

しかし、それらの国家と同時代に生きる(よりまともな選挙が行われていると一応は言える)民主国家の者たちが、それらの国家を馬鹿にしたり、自分たちこそが真の民主国家を運営しているのだと考えたりすることは、それはそれで後世に笑いを提供することになるだろう。

経済が低迷したり、外国の脅威が訴えられたりする度に、「強いリーダー」を求める声が噴出する。そこでは、あたかも封建時代の呪いにかけられたように、強力にして無慈悲な指導者に支配されたいという人びとの欲望が鳴り響いているかのようである。そのような声を挙げる人びとというものは、いまだ主権者としての自覚も能力も有していない。より正確に言うと、自らの生活を政治へと意志的に結びつけることができていない。与えられた主権やら自由やらに戸惑っているのだ。彼らは、時代が彼らに与えた厄介な宿題、すなわち自分たちが自分たち自身の共同体の方針を決めるということ、また自らの決断に対し、主権者として責任を取ること、そのような意味で自分たち自身を自分たちで支配すること、言い換えると、ある種の無支配の達成を目指すことをせず、また目指さなければならないことをも知らない。代わりに政治家の名前を何人か知っているだけである。

しかし、このような人びとが、主権者というカテゴリーのなかに数多くいるからといって、ここまでにようやく達成されつつあった民主主義の道程全体を諦める必要があるのだろうか? あるいはまた、彼らを〈啓蒙〉することが、つまり、彼らのような存在がかぎりなく減るまで〈啓蒙〉することが、可能なのであろうか? かりに不可能だとしたら、たとえば代わりに彼らを主権者のリストから除名することが、民主主義にとって急場しのぎ以上の成果に繋がるのであろうか? それは結果として、民主主義を大幅に後退させることになりかねないのではないか?――これらの問いは、容易には解決できない、民主主義者たちへの(追加された)宿題なのである。とはいっても、このような問いに対しては、決して真面目に答えてはならない。必要なのは機転を利かした返答、すなわち、字義どおりの意味での大喜利である。「あなた」は何と答えるか?

(続く)

※本記事の続きは、不定期連載としていずれ本サイトで公開する予定です。

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