水脈をさがして〔前編〕

実存を揺るがすような出来事や導き手との出会い。次第に妖精研究を志すようになっていく筆者が、人生のなかで出会ってきたさまざまな物事と人びと。自身の生のあり方を振り返るこの自伝的エッセイは、一人の人物が自らの問うべき問いを避けがたく抱え、それを追求していくまでの変遷を記した物語である。前篇。

Written by 井沼香保里

出会い

初めて出自を告げられたのは、高校一年生の冬だった。このとき、「目の前が真っ暗になる」というのは、決して比喩ではないのだと知った。告げられた瞬間、視界が急に狭く閉ざされ見えなくなったからだ。私の片親は在日三世で、子供のころに日本国籍を取得したのだという。暗闇の中でようやく光を捉えたときには、私が自明視していた「日本人」というアイデンティティは、粉々に砕けて無くなっていた。

それを告げられる以前も以後も、私が法律上「日本人」であることには変わりはない。だがこのときの経験は、そういった言語化できて、共有可能なカテゴリーとは無関係のところにある、無自覚に持っていた「日本人」の概念とでもいえるものを叩き潰したのだった。

在日朝鮮人と、彼らに対する差別の問題は、中学三年生の現代社会の授業を通して学んでいた。いってみれば、その程度の知識しかなかった私は、彼らのことを、日本にある数多くの社会問題の一つとしてしか認識していなかった。私の関心は、当時から欧米文化にばかり向いていたから、それ以上彼らの歴史や文化について深く知りたいと思うこともなかった。つまり、自らその距離を縮めたいと願うことすらない他者だった。

同じく十代後半に出自を知った親が当時受けたというショックには、それまで差別意識を持っていた対象が自分自身であった、ということも少なからず含まれていたという。対して、世代的にも、置かれた環境的にも、彼らに対する差別意識をもつ余地などなかった私が、このとき代わりに引き受けざるをえなかったのは、「他なるもの」が自らであったということについての動揺だったように思う。そこで揺らぐのは、これまで培ってきた倫理や生き方や思考というよりも、自らが「在る」ということ自体だった。

日本人であるという属性は、私にとって、あえて意識化することも不可能なほど、身体を覆う透明なボディースーツのようにべったり張り付いて一体化していた。自らを規定していると信じて疑うことのなかった属性が、いくらでも代替可能なのだと知ったとき、その属性をいくら剥いでも、着せ替えても、ここにありつづける何か得体のしれない〈わたし〉とはいったい何なのだろう?――それは、生まれて初めて、社会的に付与されたカテゴリーや言語では補足できない「存在」と出会った瞬間だった。

しかし当時の私は、そんな「存在」との突然の邂逅を果たしたそばから、逃げた。その引力はあまりにも強大で、覗き込んだと同時にまるごと飲み込まれてもう二度と正気では戻ってこられない真っ暗な深い穴のようだった。怖気づいた私は、それに蓋をして、平静を装って普段通りの日常を送ることを選んだ。その選択をしたのは、出自を告げられたときに、他言はしないようにと言われたことも大きい。誰にも話せないことで、経験を相対化する機会を得ることが難しかったのだ。それまで何でも包み隠さず話せていた友人たちに対して、秘密を持たなければならなくなってしまったことには、言い表しようのない寂しさがあった。

あるとき稲妻に打たれたように、途上国の貧困削減を自分の使命とし、それを果たすためにすべてを捧げることに決めたのもそのころだった。今思えば、あやふやな「存在」を抱えながらも衣食住に困らず、生きていくことができている自分とは対照的に、生存の次元で極限の状況に置かれた彼らのなかに、(なんとも身勝手なことだが)「輝き」を見いだしたのかもしれない。少なくとも、すでに公然と認められた正義にしがみつくことだけが、唯一私を真っ暗な何かから救ってくれる手段のように思えたのだろう。

Y先生

そうやって、自分のキャパを遥かに超えた目標に向かって自らを鼓舞し続けた結果、大学三年の春、持病のアトピーがかつてないほどに悪化した。それまで使っていたステロイド薬が効かなくなり、アトピー治療に対する西洋医学の限界をどこかで感じていた私は、幼少期に一時期通っていた自由が丘にある鍼灸院にまた通い始めた。一五年以上ぶりに会ったY先生は、皮膚の異常には目もくれず、まず脈をみてこう言った――「焦っている感じですね」。

Y先生の治療は、よくテレビで見るような頭や体中に無数の鍼を刺すスタイルではなく、脈をみながら、髪の毛よりも細い一本の鍼で、感知できるかできないかくらいの細かな刺激を体中のツボになぞるように与えていくものだった。そしてそのツボは、季節によって、気候によって、体調によって、刻々と変化するのだという。皮膚が強張ってある角度以上伸ばせなくなっていた私の腕は、鎖骨当たりを鍼でなぞるだけで一時的に伸ばせるようになった。Y先生は、たとえば皮膚科医が炎症を起こした皮膚を見て薬を処方するのとは全く違うアプローチをした。目に見える異常はさして重要ではなく、体のもっと奥のほうに原因を探ろうとする。「問題は、見えないところ、深いところにあるんです」と言って。

しばしば東洋医学には即効性はないといわれるが、その通りだった。鍼治療に通い始めて、症状はむしろどんどん悪化していった。毎晩痒みで眠れなかった。顔や腕や首が真っ赤に腫れて、傷口が膿でかたまり、少し力を加えると傷口がびりりと裂けて痛みが走った。そのころ、外出といえば通院と大学で授業を受けに行くだけだったが、道行く人がぎょっとした顔で二度見するその視線に耐えられず、つばつきの帽子を深々と被って外部の視線を遮断するようになった。どんどん悪化していく様子を見て、週一度の治療では足りないと判断したY先生は、週三、四日通うように言った。そして帰り際、毎回お代を払おうとする私からは、週一度以上の治療代は決して受け取らなかった。

基本的に東洋医学は、体質改善をおだやかに促していくため即効性はないし、一時的に「好転反応」と呼ばれる症状の悪化があるといわれている。症状が悪化し続けるにも拘わらず私が治療を受け続けたのは、もちろんそうした知識をある程度信じていた面もあったが、それ以上に、毎回の治療で渡されるY先生からの「宿題」に取り組むことで、私が逃げ続けていた「存在」を捉え返す方途を見いだせるような気がしていたからだ。

(続く)

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