水脈をさがして〔後編〕

実存を揺るがすような出来事や導き手との出会い。次第に妖精研究を志すようになっていく筆者が、人生のなかで出会ってきたさまざまな物事と人びと。自身の生のあり方を振り返るこの自伝的エッセイは、一人の人物が自らの問うべき問いを避けがたく抱え、それを追求していくまでの変遷を記した物語である。後篇。

Written by 井沼香保里

課題図書

施術を受け始めたころ、自分が貧困削減に興味を持っていることや、大学二年生のときにバングラデシュに行ったときの経験を話したことがあった。経済発展こそが必要だと信じ、途上国をどう開発すべきかを見極めるために行った首都ダッカの路上には、物乞いやストリートチルドレンが溢れ、それなりの身なりをした人に向かって手を差し出して金銭を要求する。

【2009年、筆者撮影。一か月間バングラデシュの社会的企業グラミンバンクでインターンシップをした際、インターン仲間たちと街を歩くと、必ず物乞いやストリートチルドレンが手を差し出してついてきた。】

次第に彼らの存在が風景と化していったある日、いつものようにこちらに手を差し出す少女に、お金ではなく、ふと手に持っていた飲みかけのペットボトルを渡したことがあった。彼女はそれを受け取るなり、ものすごい速さで、ごくん、ごくん、ごくん・・・と残っていた水を一気に飲み干した。それを目の当たりにした瞬間、経済発展すればゆくゆく貧困が削減されていくという理屈は、私にとってはただの理屈でしかなくなってしまった。飲食料品が詰め込まれたスーパーマーケットの目の前で、喉をからからに乾かせて、誰かからの気まぐれな施しを待つしかない少女との出会いで、一気に目の前の世界がとても不自然なものに思えた。そして、自分が受け入れていた発展モデルは、なにかおかしいのではないかと感じた――そんなようなことを、施術を受けながらたどたどしく話してみた。するとY先生は、「今のお話は、言葉にするととても短いですけれど、本にしたら何百冊、いや千冊あっても足りないかな」と言った。

そうやって対話を重ねるなかで、Y先生はぽつりぽつりと控えめな調子で、「課題図書」を示してきた。それまで本を読むということをまともにしてこなかった私にとって、そこで言い渡される古典はどれも読んだことのないものだった。最初の宿題は、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』だった。自らを苦しめるだけの身体に閉じ込められていた私は、そこに書かれた収容所でのユダヤ人たちの経験を、多少なりとも自分と重ね合わせた。次の施術では、印象に残ったフレーズや、どう感じたか、考えたかを共有した。形容の仕方も論理的な思考も、今よりもずっと乏しかった私は、いつも説明不足の短い言葉で、心に沸いた感覚をなぞるようにして言葉にした。しかしY先生にとっては、それだけで十分なようだった。

あるときは、新約聖書を読むよう薦められた。Y先生自身がクリスチャンだということも推薦の理由にあっただろうとは思うが、それよりも、これから西洋の哲学や思想に触れる前に、それらが引用し、解釈し、批判し、あるいは回帰する場としての聖書をまず読む必要があると考えたのだと思う。一見とっつきにくく縁遠いものでも、Y先生に薦められると不思議と読んでみようという気になる。彼はこのときも、「息子が中学生のとき、音楽バンドでギターをやりたいからお金が欲しいと言いましてね。それなら、新約聖書を一周読むごとに千円渡そうと約束したんです。一度目も、二度目も、読んだあとにお金を渡していたのですけど、三度目以降、息子は読んだあとに何も言ってこなくなりました」とはにかんだだけだった。

存在をめぐる問いに触れたのも、この小さな施術室だった――「井沼さん、存在とは何だと思いますか。白川静は、存在という漢字は、今ではそれぞれ「ある」という意味以上のものは与えられていないけれど、昔は「祝福されたもの」という意味だったと言っています。存在とは、何なのでしょう」。こういう、途方もなく大きな問いを真剣につきつけられたときにこそ、私は祝福された気持ちになったものだ。

存在をいかなるものとして考えるか、というとき、それは目には見えない深いところに流れる水脈のようなものを目指さなければいけないのだろうな、と思った。存在を考えるためには、あらゆる価値や信仰や思考を知ること、自身を知ること、そしてそうしたもののすべてを抱きかかえるような、なにか〈大いなる哲理〉のようなものを見いだす必要があるのだろうと思った。こんなふうに、見えないけれど動き流れていく水脈を掘り当てようとすること、見果てぬ哲理を追い求めていく態度そのものが、足元のおぼつかない私の生を肯定してくれるような気がした。

祝福

あれから、普段感得しているようなおぼつかない「存在」と、社会的な次元で最も近いところにいるように思えて、研究テーマを妖精に定めた。いや、もちろん、当初はそんなふうに自らと妖精をつなぐ因果関係など見いだせてはいなかった。

学部では、いわゆる自立したホモ・エコノミクスとしての人間とは異なる人間観をやみくもに求め、人と自然の関係性をテーマに、奈良県の自然農業を実践する場へフィールドワークをし、崩壊した論理をこねくりまわしながら卒論を書いた。修士課程では環境配慮型の開発モデルを求めて、一か月間インドに滞在したりもした。「こうあるべき」という浅薄な思い込みは、複雑で圧倒的な現実を前にするたびに簡単に崩壊し、問題関心は空転し続けた。

【2012年、筆者撮影。インドのマハーラーシュトラ州アムラヴァティに住むコルク族の人びとにインタビューしに行ったときのもの。】

大学院を辞めることを本気で考えた矢先、目の前にふっと妖精が現れた――とでも言ってしまいくらい、私が妖精に研究テーマを定めたのは偶然的で、理屈や自らの統制を超えた出来事だったように思う。大学院の教員にも仲間にも自分自身にも、なぜ妖精を研究するのか、妖精のなにをどう研究するのかさえ明確に答えられず、ゼミの後の帰り道はいつも一人悔しさで泣いていた。どんなに読んでも考えても、誰かを安心させられるような答えを用意することができなかった。

一年留年しても思考はまとまらないまま、祈るような気持ちで、修士論文を執筆した。結論を書き終えたとき、ようやく自分が、いる/いない、現実/想像のあいだをふわふわと漂う妖精のあやふやな存在を言葉にすることで、自己を救済していることに気づいた。このときは、論理的な崩壊こそ免れたとは思うが、そこで展開されている思考は浅く、読むべき文献も足りず、まだまだこの研究は端緒についたばかりという感がぬぐえなかった。

しかし、研究を続けるためにはお金が必要だ。この研究の学術的/社会的な意義を他者に説得できるほどの能力も学識もまったく足りていないから、ひとまず外部資金に頼らず博士課程を過ごせるだけのお金を貯めようと民間企業に就職したものの、あっけなく適応障害になって辞めた。このころにはもうすでに、一般的に「社会人」としてやるべきことと、自らがしたいことに折り合いをつけて生きるということが、絶望的なまでに不可能になってしまっていた。そして、しばしば在野の研究者が(多大な苦労をしながらも)実現しているような、研究と関わりのない職場で、フルタイムで働きながら研究もするだけの体力も備わっていなかった。

やりたいことをするためには、自分には何もかも能力が足りなかった。このとき、一度社会的に死のう、そして自分のためにだけ生きようと決めた。

ほどなくして博士課程に戻り、妖精の存在のかたちを史料やテクストを通してなぞり、考え、ようやく博士論文で「妖精的なるものの存在論(Fairy Ontology)」を展開した。けれど、その後しばらくのあいだ、私は気の抜けたソーダ水のようになってしまった。単なる疲れによるものではない。燃え尽きた、というのとも少し違う。もっと根幹にかかわる部分が、ふっと喪失したような感覚。

厳密には提出の十か月前、これを理論にするんだというイメージがようやく頭の中でクリアになったときから、強烈な力で私を追い立ててきたすべての原動力が気化してしまったような気がしていた。りんごが地面に落ちるように、自然の摂理とでもいうような具合で、盲目的に妖精の存在を追いかけてきた力が消失してしまったように思えたのだ。やり切ったというには、成果物自体の議論は隙だらけで、未完成で、伸びしろしかないことは重々承知だ。だが、すでに結論が見えているものの穴を埋めることは(もちろん、精緻化の過程でその理論も変容するはずなのだが)、少なくとも、私を盲目的に突き動かすほどの燃料になってはくれないように感じられた。

けれど、少し時間を置いてこの頃は、こうも思う。捉えどころのない「存在」は、やはり相変わらず目には見えない深い場所にあるけれど、十代で出会ったときと比べると、その質感や与える印象が大きく変化しているのだと。それは、妖精を通して、「存在」のある一面が多少なりとも言語化されたために、新たに妖精だけでは触れることのできない別の面を見せてくれているのかもしれない。少なくとも、鍼治療でなぞるツボのように、その水脈の在りかは刻々と流れ動いているようだ。そして、どんなにその在りかが変わろうと、それを探し当てようとするときに、飽くことなく書物を読み、思考をし、言葉にしようとするときに、ここにあるひとつの生が祝福されているような気がすること自体は、やはり今でも変わらない。


「井沼さん、学問とは何でしょうか」――いつも通り答えに窮する私に、普段は質問を投げかけるだけのY先生が、この時は珍しく、答えを教えてくれた――「学問とは、問いを学ぶということです」。学問は、答えを出すことではない。何を問うべきかを考え続けること。人生・社会・世界を眼差しながら、価値ある問いを追い求めること。一瞬捉えたかと思えた問いにまた突き放されること。それが、「問いを学ぶこと」なのではないか。そんなふうに、あの小さな施術室でY先生に言われたこの言葉の意味を、今でも折に触れて噛み締める。

※本記事の文章は、拙稿「要のはなし」『Lost and Found Vol.3――生きなおす、同時代』人間学工房、2016年、pp.23-34(https://www.ningengakukobo.com/single-post/laf3-prologue)に記述した内容の一部を大幅に加筆修正したものである。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次
閉じる