記名された青

過去が疼き出す。幼少期の5時のサイレン、青年期のマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、熱い空気が充満した部屋でのセックス。それらは過去のどこかに存在していて、記憶の断片として脳内に刻み込まれている。それらの断片を手繰り寄せながら綴られる、青年期のためのエッセイ。

Written by 大田栄作

厨二病の匂いがする。

ちょうだいよ、水でいいからさ。練れた柔らかい笑顔でさっき買った200円近くする無駄に良さげな水を君が強請った時、僕はもう疲れ果てていて、よくそんなに元気な表情筋を持っているね、と死ぬ手前の顔で返したと思う。そこに温くなったオレンジジュースがあるでしょうが。

冷房をつけているのに毎度の如く暑いこの部屋で情事を重ねることが何度あっただろうか。いい加減に冷房の設定温度を28度から下げることを覚えてもいいだろうに、頑なに熱気が充満したラーメン屋のような部屋でマイ・ブラッディ・ヴァレンタインを流している汗ばんだ女性に恋はしていない。それは向こうもそうで、寂しがりな僕たちはなんとなくこの部屋に集い、やることをやって、読書をする。シューゲイザーならきのこ帝国にしてよ、という願いも未だ一度たりとて聞き入れられたことがない。

こないだBARでマイブラが掛かっていて、妙にハラハラしたのはお前のせいだからなとつぶやく勇気はない。そんなことしたら絶対にマイブラから変えてくれないから。マイブラよく聴かれるんですか?って聞かれて、あぁ、いやちょっと聞いたことあるだけですなんて答えた自分を褒めてやりたい。何度も聞いてますよ、この前も何なら5時間くらい聞いてきましたよだなんて偉いから言わなかった。褒めてほしい。

君の血は絶対に赤黒くてねっちょりしているよね、不健康そうだからね、何でかいきなり浴びせられる言葉にももう耐性がついた。コロナどうなるのかねぇ、危ないねぇ、ん? まぁでもワクチンできたし大丈夫なんじゃないですか? 大体もうできることないっしょ、頑張りましたよ我々は。そんな無責任な会話を繰り返しつつ、君が読んでいる本を横目で確認する。今日は英検3級の参考書だった。何不自由なく英語を話せるくせに、何で今そんなものを読んでいるのでしょうか。何でそんなもん読んでんすか?と聞くと、まぁ絵に描いたような生返事。何ででも、よ。あぁ、左様ですか。不意に「inscripted……」と呟いた。出ないよそんなの、3級には。意味は、”記名式の”だとDeepLが言っている。

幼稚園児くらいのころ、意味もなく色々な持ち物に名前シールを貼り付けていたことが頭をよぎる。落ち葉にも貼り付けて、ボロボロになってしまった枯葉を泣きながら再構成しようとしていた。葉脈がかろうじて残っていたことを覚えている。秋の、少し涼しく過ごしやすい日に、幼稚園の園庭にある赤い屋根の小屋の横だった。

僕が勝手に幼少期の葉脈と赤い屋根を思い出している頃、君は英検3級の参考書に飽きたのか、滑りが悪くなったハンドスピナーを無理やり回しながら、書いてもいいよ今日のこと、あのほら、文に、と割合大きめの声で言った。あぁ、うん、そう、ありがとう。なんかね、書くことがあったら書くね。公開してもいい?うん。あぁ、うん、わかったそれじゃ公開しますわ、書いたらね。

人間という生き物に残念ながら生まれて、赤い屋根と葉脈の幼少期のことからこの蒸し暑い部屋に至るまでにいろいろあったのだけれど、そういうものは全てこの熱気の中に溶かしてしまいたくなった。もう夏だなぁと思う。この部屋に来た時にはなかった大仰な形をした雲は、さっきより少しだけ西に動いたような気がする。

【どこの駅かはもう忘れたが、ここまで電車を乗り過ごした。】

あの日からしばらく経って、今ようやくこうして書けているのも何かの縁だろう。いろいろあったけれど、僕はそこそこ元気にしております。そちらはご機嫌いかがでしょうか。あの日できた青い痣はもう消えて、部屋の湿度とオレンジジュース入りのグラスが掻いていた汗のことなんてまるで夢だったかのように日々は過ぎています。あの雲は一体どこでふわりと消えたのでしょうか。ベランダに舞い落ちたなんらかの植物の葉はどこへ飛ばされたのでしょう、そしてあなたの部屋には今日もマイブラが掛かっていますか? 誰かと一緒に、居ますか?

この文を書いてからもう時期一年経つ。不安定な秩序の上での情事は日常からの逃走で、けたたましく鳴り響くサイレンのように未だ心に残り続ける断片でもある。そう、断片なのだ。断片はたしかに存在し、私(たち)の心を豊穣なものにする。最後に、書かせてくれたことに対しして最大級の感謝を。

※本記事は、すでに筆者のnoteにおいて公開されていたものを一部加筆・修正して転載したものです。

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