アンチ・デモクラシー・デモテープ Vol.2

豚骨スープときいて白湯を口にしたような肩透かし感を、民主主義という言葉に抱くようになった昨今。皮肉な気持ちは、もはや紙とペンに向かうしかない。そうして民主主義を挑発するかのように書き連ねられていった膨大な断章群から、ほんの一部を選んであらたに並びなおしたものを、「デモテープ」というタイトルでここに公開!

Written by イサク

記憶にございません

公的記録をめぐる不正問題は、ある特定の民主主義的共同体がどこまで病んでいるかを示す端的な徴候である。しかし、この病が民主主義にとって致命的であるばかりか、ともに一つの共同体を構成するという基礎的な状況そのものにとっても決定的な重要性を持っているということ、しかもその問題は極めて精神的な事柄に属するということは、特に当の不正者においてはあまり理解されていない。

言うまでもなく、公的な討論、決定、業務に関わる記録の正確かつ全的な保存は、民主主義の理念の根幹である。いつどのように公開されるかという問題は置いておくとしても、少なくとも保存はされていなければならないのであって、それすらされていなければ、のちの世の者たちがそれを検討し、再考をする機会すら与えられない。

民主主義においては、政治的な議論は堂々となされるべきであり、そのこと自体が内容の質をも規定すべきであり、しかもその議論内容は必ず記録保存されなければならない。同時にそれは、この過程とは逆向きの精神の過程をも必ず要請する。つまり、自らの政治行為がすべて記録されるのだとしたら、だからこそ、そこでは堂々と、(二〇世紀のある政治理論家が好んだ言い方を借りるのならば)公的領域の光に晒されて行為がなされることになる。

自らが行ったことが本当に正しかったかどうかは、究極的には後世に判断を委ねるべきであろう。しかしだからこそ、自らの行為はそれに恥じぬものでなければならない。このような具合に、たとえ意見を異にする者たちのあいだで激しく闘争の火花が散ったとしても、それぞれは自らの正しいと信ずるところを堂々と発話し、直近の政治的決着とは別に、それらの評価は後世に委託されるのだ。自らの前にする時代の議論風潮においてはどうやっても否定され、結局多勢のなかで決して受け入れることのない意見であったとしても、それでもやはり「これが正しい」と思う意見を出すということの意義が、そこにはじめて賭けられる。そして、まさにそうであるからこそ、意見を異にする人たちのあいだに、〈人が共に行為する土台〉があるということが保証され、確認されるのだ。公的記録を保存するというただそれだけのことでも、その裏にある精神にはこのような土台そのものが託されているわけだ。

そればかりか、そこではどれほど主張の異なる二人でも、両者ともいつの日か後世の人びとの判定の光を浴びることを、そのとき自分の意見がやっぱり正しかったと評価されることを、少なくとも信じることはできるわけだから、記録保存の精神のなかには、ほとんど歴史的な〈救済〉の要素すらあると言ってもいい。

以上のような精神の一連の連関が、記録保存の意義がはっきりと理解されているところでは必ず一般的に意識化されている。反対に、公的記録の隠蔽・改竄・消去といった行為はというと、このように〈共に行為する〉という土台のひろがりを、つまりはそこにある〈信頼〉の歴史的・空間的な網の目を、各所で寸断し、全体として危機に陥らせてしまうわけだが、そのような行為に至った段においては、当の不正者の精神はというと、疚しさと当面の不安に塗りつぶされ、すでに自らの生きる共同体と対立しているのだ。

狼男

悪とはあまりに平凡なものである――悪を行う者は、何も異常な心理の持ち主であったり、悪魔崇拝者であったりするわけではなく、誰もが身に覚えのある平凡さによって、かくたる悪事をやってのけるのだということは、二〇世紀の悲惨において戦慄とともに観察された事実である。「周りもそう言っていた」「そういう雰囲気だったから」とか、あるいは「上に命令されたから仕方がなかった」などといって、恐るべき方法での大量虐殺に加担した者たちの顔は、平凡な僕らの鏡像として歴史書のなかに陳列されている。

実際に、公的記録の隠蔽者や誇張と虚偽を交えた証言者の内面で駆動している〈疚しさ〉や、自らの生活と社会的地位に関する〈不安〉を、他者を排撃することによって賄おうとする者の心情というものは、道徳や理性と呼ばれる薄い保護膜が何かの機会に破れてしまえば誰もが落ち込むような、ほの暗い内面の世界として広がっている。そればかりか、〈不安〉や〈疚しさ〉は、現代史においては社会における支配的な心性の一つであるとすら言えるかもしれない。堂々と行為、発話することを命じる道徳がそれほど強く起動しない地域においては、コソコソとした態度やボソボソとした言い訳は〈疚しさ〉の主要な生産物として社会に流通しているわけだが、そこでは自らの意見が当事者を超えて露呈すること、第三者の判定に預けられることへの〈先取りされた恐怖〉が駆動していると考えてよい。

おまけに、その恐怖の自覚は当の本人には生じにくい。〈疚しさ〉は自分自身に対しても真実を隠すのであって、だからこそ、裏では記録を当たり前のように隠したり消したりといったことをやっておきながらも、表では心の底からこう言えるわけだ――「私たちは悪くない、悪いのは彼だ!」と。

このような心性は、政治家官僚の領域だけでなく、あらゆる組織に偏在している。会社内の問題だろうが労働組合内のやりとりだろうが、あるいは大学の学生自治体や友人同士のなかですら、〈先取りされた恐怖〉は霧のように生起する。現代においては、〈共に行為する〉ことが不可能になっているわけではないとしても、それは常に危機を潜在させることになる。そのことが、逆に二〇世紀における著しい他者論の発達を促したと考えてみることすらできるかもしれない。

〈共に〉何かを行うことができないときには、自らが何者であるのか、彼が何者であるのかという問いすらも、〈現れ〉を持たない暗闇の問いへと変貌する。かつて言われた格言どおり、「誰だかわからないならば、人間は人間ではなく、人間にとっての狼だ」(プラウトゥス)ということになってしまうわけだ。

ある街角の会話劇

A:・・・かくのごとく、君の陰謀論で証拠とされているものは全部否定されているじゃないか。そろそろ目を覚ましたらどうだ?

B:でもその証拠を否定している証拠が本物じゃない可能性だってあるじゃないか。

A:なんだって?

B:マス・メディアに騙されているんだよ、君は。テレビや新聞の情報を鵜呑みにしすぎ。もっとマス・メディアの情報は疑ってかかれって学校で習わなかったのか?

A:疑う能力は必要さ。でも、それは何が真実かを証拠にもとづいて見極めようとする努力と能力のために必要なだけだ。テレビや新聞を疑ってかかって、代わりに自分が信じたいものだけを信じるためではないよ。

B:直接見たわけではないのは君も一緒だろ? 自分の感覚を信じるしかないじゃないか。

A:直接見たわけではないから判断ができないというのなら、裁判官は何を裁くことができるんだ? 君は裁判という仕組みも否定するのか? それとも名探偵みたいにいつも殺人現場に居合わせろとでも言うのか? それに君の信じる自分の感覚ってやつも自然に属する能力じゃない。歴史的、社会的につくられたものなんだよ。白人の赤ちゃんが黒人を見て「生理的な嫌悪」を感じるとでも思っているのか?

B:まるで私を差別主義者みたいに言うじゃないか。

A:そうじゃないのか?

B:私はただこの世界の不正を訴えたいだけなんだ。報道を見てみろよ。まるで偏向報道の見本市じゃないか。

A:では君は、特定の報道を偏向だと判断するにいたる別の根拠をどこから得たんだ?

B:インターネットさ。多くの論者たちもそう言っている。

A:多くの? なぜネット上の特定の情報ばかりは信用したがる? 新聞社やテレビ会社が君らのような人間の意見に乗れないのは、情報を裏付ける事実が見つからないからじゃないか。君たちがマス・メディアに批判的でいることは結構だが、だからといって自分たちの方が取材力があるなんて思い込んでいるのはどうゆうわけだ? ネットで見たからだって!? 馬鹿な自信をつけたもんだ。もう少し論拠をもって自分の意見を鍛えろよ。

B:君の意見は君の意見だ。私はそれを尊重するよ。だが、私の意見は私の意見だ。君は自分たちの意見ばかりが正しいと思っているんじゃないか? お互い意見という点で同価値だ。馬鹿げた自信を持っているのは君の方だろう。

A:君は、意見はすべて同価値だとでも思っているのか? そんなわけがないだろう! たとえば、野球の話だとしよう。二人の論者がいる。片方は今朝まで野球なんて見たこともない人間で、意見を求められて検索サイトとSNSで「野球」を検索。そこにどこの誰かも分からない人間が書いていたものをそのままコピーして「自分の意見」としたとする。もう片方はプロ野球業界に入って50年。いまは優秀な球団の名監督で、経験と論理的思考能力に支えられた名うての野球論者でもあるとする。この両者の野球についての意見が、君は同価値だと思うのか?

B:・・・・・・。

A:・・・だろう? 意見とは、経験や論理や証拠や想像力によって鍛えられることで、ようやく価値を持つものなんだよ。自分が信じたいものをただただ信じることではなく、繰り返しの否定を経て意見は成長するんだ。結局、君たちはそういった努力を怠っているんだよ。

B:・・・・・・。私は私なりに努力をし、いろいろと調べて話しているのだが。

――二人の会話を黙って聴いていたKは、Bが高々と陰謀論を話し出したときから、最後は彼が黙る羽目になることを分かっていた。Bの意見は、愚かであるというだけでなく、どこか物悲しいものでもあるようにKには思われた。だが、Kが何度か口を挟みたくなったのはむしろAの意見に対してであった。結局、彼はそうすることをやめ、黙ってきいていることに徹した。そのことによって、この会話の品位は守られたのである。

その霧

現に不安を感じている人間に対して、「何の不安もない」と告げることは完全に逆効果である。彼は、いよいよ自らの不安の原因を外部に求め、ついには頭のなかに凶悪な敵を生み出し、そのイメージを頑なに信仰し始めるだろう。

一方、それとは真逆のアプローチも存在する。つまり、彼らの不安をどんどん拡張し、虚偽、誇張で良いので彼らに分かりやすい不安の原因を与えてやり、しかもできれば、その原因たる敵を名指しで教えてやることだ。そうすると、彼らは、自らの抱いた敵のイメージを信仰するのと同じくらいに、あなたのことを味方として、ときにはリーダーとして、信仰するだろう。

これは、現にあらゆる政治共同体で実践されている、人びとの支持を集めるための秘訣である。陰謀論という怪物が歩きまわるのは、このような〈不安〉という名の霧の世界である。いや、この霧によって、世界は、すでに「世界」と呼ぶには値しないのかもしれない。かつて「世界」という語が持っていた個々の人びとや事物のあいだにある空間としての響きは、現代においては濃い霧のなかに隠されてしまっている。そこでは僕らは、孤立した人間として生きるか、大衆という同一性のなかに融解することでしか生きていけないのであって、そのことがまた循環して著しい〈不安〉を各所に発生させているのだ。 まさにこれが、このようなかたちでの「世界」の問題であるとすれば、陰謀論とはそこでの目立つ徴候の一つにすぎないのであって、陰謀論的思考へと人びとをすがらせる状況そのものは誰に対しても等しく広がっているのである。

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