生を照らし出すカンボジア

筆者はこれまでに滞在してきたカンボジアで、そこでの人々の暮らしのみならず、この世界の様々な事柄についての思考を巡らせてきた。その地点から、筆者は自らの生へと眼を向け始める。生い立ちを時系列的に記す方法では見出せない自伝的経験のある側面がそこに現れる。

Written by 祖父江隆文

鋭さと鈍さが生み出すもの

この記事は、僕が研究対象として関心を持ってきたカンボジアと、僕自身の生を架橋する何かを探る、自伝的な試みである。今回は、カンボジアに生きる人々と僕との双方に見出せる生の在り方を、いくつかの比較を通して展開してみようと思う。

僕はカンボジアでの滞在中、主に都市部でフィールド先の人々に接していた。だが、そこでは「彼らと調査者としての自分はいかに異なるか」ということを問いの前提としていたために、両者が実は同種の経験をしているのではないかという認識に至りづらかった。

しかし、このカンボジアの人々と自分をつなぐ感覚の探求に手がかりを与えてくれたのは、わずかな期間に訪れた山岳地帯の村落で暮らす少数民族の人々の語りであった。その語りは、高地から見た低地=都市部の人々の暮らしを、首都プノンペンに住んでいた僕ではできない見方で異化してみせた。またそれは、普段から接していた都市部のカンボジアの人々のみならず、彼らに接する自分をも見通す視点を与えてくれたのだ。

カンボジアの東北の州に属するとある村落に到着したある日、そこは物々しい雰囲気に包まれていた。村人がここ数日立て続けに自殺し、占い師とともに残された人々が事態の収拾を図ろうとしていたところだったのだ。彼らの話をまとめると、この一連の村人の死は、ここしばらくの間、山の精霊を村人たちが蔑ろにしたことによる怒りに起因するという。状況の理解もろくに追いつかないままに、水牛を供儀にする儀礼や、村中の人々を集めての饗宴に参加した後、この儀礼についての話を村人たちに聞いた。プノンペンでは供儀の儀礼をするのを見たことがなかったと僕が漏らすと、彼らはこのように語ってくれた。

低地では皆慣習に従っているだけだ。仏教徒は人が死んでも慣習の通りに葬儀をするだけだろう。俺たちはそうじゃない。いつもと違うことがあったら、何かの兆候を感じ取り、決断しないといけない。だから村人が自殺した後、精霊を鎮める儀礼をすると決めたんだ。

こうした村人たちの語りには、次のような信条が込められていると僕は理解した。つまり、自分たちの暮らしを脅かす変化に鋭敏であること。そして、そうした危機をもたらすものに飲み込まれ、生活を自分たちの手から奪われないようにするには、それと対峙し、均衡していること。

この山岳地帯での時から引き出すことができた命題が、都市での暮らしとの対比の視点を与えてくれた。つまり、そこから見えるのは、人々の生活を覆う大きな潮流への同質化と、そうした危機に対する鈍感さである。カンボジアの政治や経済の面で、いかにそうした同質化と鈍感さが「要請」されているかは、別のところでも書いてきた。

だが、このことを自らの生との関わりで考えると、カンボジアの人々と「日本人」との関係の在り方が、とりわけその手がかりを含んでいるように思う。

ある「部族」がもつ精神

山岳地帯からプノンペンに戻って以降、カンボジアにビジネス目的でやってくる日本人について、カンボジア人の知人たちが話題にするやり方が気になるようになった。ここで彼らが言及する日本人とは、内戦期以降の自由市場経済への政策転換に伴ってカンボジアの開発に関与してきた、「開発部族」とも言うべき種としての「日本人」である。そしてこれは、単にカンボジアで認知されている日本人を話題にするというものではなく、都市に滞在する「日本人」を、「開発」の文脈に分類する、彼らの営みの一つであるようだった。

例えば、クメール語の授業を通じてポル・ポト政権時の実体験から呪術を用いた伝統医療まで、カンボジアのあらゆることを授業を通じて教えてくれたある教師は、個別に現地調査の一環としてインタビューを依頼しても応じてはくれず、代わりに同じ授業をかつて受けていた日本人事業者にカンボジアの話を聞きに行くよう促してきた。その事業者は、内戦終結以降の両国の「『交流』に貢献してきた先駆的な人物」であるのだという。

別の機会に友人の知り合いで役所で働く人たちと酒の席で一緒になると、彼らの口からはある開発系金融機関の元幹部の名が幾度か挙がった。つまり、カンボジア人が話すそういった「日本人」とは、カンボジアの政治家の傍で各々事業を行ってきた人々である。そして、そうした人々を僕に対して話題に出すのは、僕自身もそうした「開発部族民」という枠組みの中で暮らすべし、というメッセージであるかのようだった。

カンボジアの人たちが言及したその種の人たちとは、抑圧的な社会状況が経済発展との交換条件であるかのような現状と歩を共にしてきた人々でもある。上にあげた元金融機関幹部は、内戦直後の緊張関係にあった周辺国との提携をフン・セン首相に持ち掛け、国の経済成長やインフラの充実を実現させたとウェブ上の記事で語り、現政権は「民主的な選挙」を通した「平穏な社会」を実現させたと述べる現地シンクタンクの顧問も務める。だが一方で、その首相がもたらしてきた圧政については言及しない。

語学教師がお墨付きを与えた事業者は、「自分はビジネスとして政治家と関わっているのであって、彼らの言動を批評することはない」といったことをネット上で述べつつも、「この国の経済成長や発展を顧みれば、これまでの政治状況を批判するばかりではダメだ」という立場を表明しておくのにも余念がない。

つまるところ、日本のビジネス様式でもなじみ深い、「コネ」という名の忖度ネットワークが今日の発展と抑圧の交換関係をもたらしたというわけだが、それが醸成するのは、少数民族が持つ機微を捉え、それに対処するものとは対照的な、鈍感で、人々に同質的で従属的であることを求める社会精神であろう。

日本とカンボジアという事業拠点をこうした精神の回路でつないでしまえば、両国で起こる現象の場所による差異は、あまり考慮しなくても良くなる。つまり、どちらの国にも、「たとえ低くても、賃金を得られる幸せだってあるのだ」と言う日本の経営者がいるのに対応して、「中国企業よりはましだ」「それでも稼いで家族にお金を送らなければ」と述べるカンボジアの労働者がいるというわけだ。

【プノンペンにある、メコン川とトンレ・サップ川との合流地点付近。メコン川は、カンボジアの山岳地帯を通る支流ともつながりつつ、ここまで南下してくる。筆者撮影。】

垣間見える慧眼

だが、都市部に暮らすカンボジアの人々は、ある面では鈍感であるようでいて、どうやら別のある面においては非常な鋭さを発揮するらしいことが分かってきた。その面とは、彼らの文化に対する防衛の意志である。諸事情で日本に帰国せざるを得ない時が迫ってきたある日、市内の寺院に暮らしていた知り合いの若者に、自分もそこで暮らしたいと伝えた。彼とは、寺院はカンボジアの仏教社会を学ぶのにこの上ない場だと、空き部屋が出たタイミングで住職に推薦してもらう約束を取り交わしていたのだ。ところが、いざ滞在の希望を伝えると、「お前が寺院に住んでどうするんだ?外国人が寺院にいるといろいろと大変なんだよ。お前、本が好きなんだろ?文化を勉強したいのなら、書店で本を探すのを手伝ってやるから」といった調子ではぐらかされ続け、その寺院での居住は叶わなかった。

これまでも、この種のはぐらかしやそれに伴う約束の反故は幾度となく受けてきたが、ここに至って、これまで今一つ解せなかった彼らの対応のつかみどころのなさに、ある核となるものがあると認識するようになった。つまり、これらの出来事からは、単にラポール形成というものの失敗例の証ではなく、「『開発部族民』が我々の世界にこれ以上踏み込むな」という彼らの拒絶の念を取り出すべきなのだ。この種の「部族」に経済だけではなく知的領域にまで及ぶ搾取を受けるのを避けようとするにせよ、物質的支援を通した「交流」のみを期待しているにせよ、それは、何か大きなものに呑まれることに対する、彼らなりのギリギリの防衛の意志の表れと理解すべきなのである。

拒絶が映し出す時

抗いがたい大きな流れの中に身を置き、同質化し、鈍感であることに努める一方で発揮される拒絶の精神——カンボジアの都市部の人々が「日本人」との関係の中で経験していることをこのように見ることは、他方で、僕自身の経験を記述の対象にする際の起点となるようにも思う。両者の経験を突き合わせてみると、そこにはある類似性が存在するように思えるからだ。

その類似性とは、抗しがたい潮流に身を置かれ、それに同化することを求められるという感覚と、それに対する拒絶ではないだろうか。僕が10代前半だったころ、「少年世代の暴力」といったものがしきりに社会で論じられていた。僕が小学校高学年だった時に起きた酒鬼薔薇聖斗事件や、その3年後に当時17歳の少年が起こした西鉄バスジャック事件などを通して、マス・メディアが、10代の青年には何か「内奥に潜んだ残虐性」というようなものがあると煽り立てていたのだ。

僕もそうした事件自体にそれなりにショックは受けた。だが、それよりも自分にとって深刻だったのは、それを報じるメディアへの反応として、「自分も含めた若者世代は、そうした事件を引き起こす程の恐ろしい衝動性を本質として持っているのではないか」という不安が漠然とつきまとうようになったことだった。

しかし、学校生活において、この「残虐さを隠し持つ少年世代」という問題を正面から我々の前で論ずる教師はおらず、同級生の間でも何かこの問題は言及すべきでないかのような空気が満ちていた。若者の危機が煽り立てられる一方で、それに抗う生き方が先回りで提示されては消費され、潰される感覚も、テレビメディアを通してもたらされていた。

例えば、ちょうど放映時、劇中の生徒たちと僕たちがほぼ同い年であった学園ドラマは、一見「優秀」であったり「良い子」であったりする若者こそが持つ破壊衝動と、その背景にある社会的な抑圧という当時の典型的な若者像に迫っていたが、結局は「実は子供は純だ」という前提に強引に寄せていく所が余りにも現実から乖離していた。加えて、淡々と業務をこなすだけの現実の教師たちが、そういったドラマ上の教師のような役目を果たすことすらないという確信——それどころか、その教師たちが抱いているのは、生徒たちへの、そして教師自身への根本的な不信であるという確信——が、僕らの失望感を増大させた。

一方で、過剰に「ガチ」と「やらせ」の境界を突く内容のテレビ番組や黎明期のインターネットが、そうした現実の溜飲を下げるかのように若者世代に受け入れられていたのも僕が中学生の頃だったが、それもメディアから提示される予定調和的な世界観への反応の裏返しであるようだった。そうして、「テレビやネットが現実を変えることは何もない」ということを感じ取っていた自分たちに与えられた道は、こうした抗いがたく重苦しい潮流の中に身を置き、ただそれと同化して生きることだという諦念めいたものが共有されていたように思う。周囲がそれでも各々生活を送る中にあって、僕が学校生活にまともに参加することさえ放棄し始めたのは、こういった避けがたい潮流への反応、つまり消極的な拒絶であったのかもしれない。

綻びへと向かう指針

この時期に僕が経験していた鈍感であろうとする感覚もまた、カンボジアでの滞在中に人々から感じたものとどこか通じるものがあるように思う。メディアが危険視する若者像というものは自分たちには無関係だと言い聞かせて、自身の心に平穏を保とうとする意識が、若者が持つ危機に対して何もしない大人と同様、自分たちも鈍感になって学校生活を処理さえすれば良いのだ、という感覚を醸成してもいただろう。

だが、それでも解消されない漠然とした不安と付き合って生きようとした結果であろうか、中学入学当初はそのペースを保てば地元の進学校に通える程度には残せていた成績が、選べる高校がなくなるほどに低下していった。そして、それを目にしてきたはずの担任教員らが何らの対処もなく、機械的に僕を叱責するのみであった時期から、自らの生に対する無感覚さに拍車がかかっていった。多くの同級生は、淡々とした日常に何とか意味を見出しながら鈍感さと付き合っていたものと思うが、僕の場合、鈍感であろうとすることが、生活への適応よりもその破綻を逆にもたらしたようだった。

【通学路として使っていた高校付近の川沿いの道。その風景は、この写真のような、どこか陰鬱とした空模様とともに今も記憶されている。筆者撮影。】

中学卒業後も、「堕落した生徒」への不信の目を向け叱責するのみの教師たちにますます鈍感であろうと努め、彼らの前で沈黙を決め込むようになっていった。そうした僕に対し、ある日、ついに「お前は異常者だ、精神病院へ行け」と進学先の高校教師は面談で罵倒を始めた。その教師を前に、なお装おうとした無感覚の奥で、学校そのものへの確固たる拒絶の念を覚えていた。ほどなくして、僕は進学して半年ばかりの高校を退学した。

***

これまで、時系列に自分の行動を理屈立てながら語るにしても、とある地点を強調して語るにしても、自分の生い立ちはあまりにもでたらめであるために、それを自伝という形式で記すのは困難だと思ってきた。しかし、大きな力に対する山岳地帯の人々の鋭敏さとは対照的な都市部の人々の鈍感さや、一方であり方は違えど両者に発揮される拒絶の意志——こうした比較が、他方で彼らと僕自身との比較をも可能にするならば、この民族誌と自伝の近似性が、僕とカンボジアとの関係の在り方に光を当てることだろう。

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