危機へのワクチン、あるいは決断をめぐる密室実験

あなたは、気づくと見知らぬ乗用車のなかにいる――そうして始まる密室実験から解き明かされていくのは、〈危機〉というものそれ自体の構造である。危機はどのようにして私たちを捉えるのか? 危機によって阻害されることをいかにして防ぐことができるのか? あらかじめ危機に備えておくために必要なものを考える反政治的エッセイ。

Written by イサク

密室実験

あなたは、気づくと車のなかにいる。運転席に見知らぬ者が1人、後ろの席にもう1人、助手席にはあなたが座っている。あなたの腕のなかには、まだ幼い子どもが眠っている。車は動いていない。だが、窓から外を見ると、どうやら線路のうえに駐車されているようである。車から出ようとしたが、どこのドアも開かない。また窓を破ろうとしても、強化ガラスが使ってあるのか破れる気配もない。しかし、どうやら車は運転できそうである。互いに見知らぬ3人は、以降の選択を多数決で決めることに合意した。

助手席の窓から周囲を伺うと、100メートルほど先にトンネルが見えた。トンネルのなかはカーブしているようで、その先は光も見えない。また線路のまわりには住居や施設は何もなく、助けを呼べるような所持品も誰一人持っていない。

突如、あなたたちはトンネルの向こうから列車が迫ってきているのに気づく。このままでは車に衝突してみんな死んでしまう。あなたは、すぐに車を動かすべきだと主張する。しかし、運転席に座る者は、車を動かす方が危険かもしれないし、すべて投票で決めると合意したはずだと主張する。急いで投票が行われる。助手席のあなたは車を動かすことに賛成したが、運転席の者と後部座席のもう一人が反対票を入れ、車を動かす選択は否決された。反対票を入れた後部座席の者が言うには、必死に車を動かそうとするあなたの様子には何か陰謀めいたものを感じるし、そもそも列車がくるというのも、車が線路の上にあることから幻覚を感じているだけかもしれない、ということだ。

あなたは、どちらにせよまず車を動かすべきだと憤ったが、反対者の2人がまともに話をきく人物には思えなくなっていた。それでも再投票を促したが、いま投票結果が出たばかりのことに口を出すなと、反対者2人に突っぱねられてしまう。あなたは、ここの全員が列車の音も振動も感じているだろうと主張するが、2人はもう心を頑なにしてしまっているようで、音も振動もすべて風か何かのせいだと思い込もうとしているようだ。そのとき、トンネルから列車が顔を出した。列車の方を指さして叫んでも、反対者2人は見向きもしない。2人を説得する時間はもうない。列車がすぐ側まで迫る。もう時間がない。

さて、選択のときである。あなたたちに死が迫るこの瞬間、あなたは選択をしなければならない。あなたは助手席に座っているので、上手くやれば運転席の人間を殴り飛ばし、ペダルやハンドルその他を奪取することができるかもしれない。事実、あなたには、狭い車内で腕に子どもを抱きながらでもそれくらいのことができる能力がある。そうして車を発進させれば、全員助かるだろう。それともやはりそのような蛮行は慎んで、残りわずかな時間も説得に割くだろうか?――たとえ、実る見込みの薄いその説得の先に、死神が手ぐすねを引いて待っているとしても。

さあ、あなたは、どのような選択をするだろうか? 何か第三の方法が残っているだろうか? どちらにせよ、すぐに決断をしなければならない。

以下、本記事の続きは、こういった瞬間に自身がどのような選択をするかを決めたあとに読んでほしい。この種の物語は、常に何らかの現実とそのなかでの選択のあり方を示唆しているものである。できれば自身はどのような選択をする存在のかをよく見極め、また自身がこの乗用車に迫る危機という物語から、現実の世界におけるいかなる危機を想定したかを考えたあとに、以降の記事は読んでいただきたい。そうすることではじめて、この密室実験――言うまでもなく、この密室とは車内ではなく、あなたの脳内のことだ――は効果を発揮することになるだろうから。

緊急事態

もし運転権を奪取することを選ばず、そのまま列車が近づいてくるのを、身を震わして待っていることを選んだのだとしたら、あなたは間違いなく少数派であり、しかも貴重な少数派であるだろう。暴力に訴えることなき慎み深さの成果として、あるいは全員での投票結果を何より重んじるその姿勢、一見した状況に対する疑り深さ、それとも自殺願望か奇跡祈願などの成果として、あなたはほかの2人と一緒に死ぬことになる。しかもその運命を、あなたの腕のなかの子どもも、ともに享受することになる。目の前に迫っている危機の徴候をすべて無視した愚かな2人、そして奪取することを選ばなかったあなたは死ぬことを受け入れるべきだとしても、子どもに選択の責任はなかった。あなたは、未来を担うはずだった子どもの死に対して、残りの2人と同じだけの結果責任を負うのである。

しかしあなたは、大多数がするであろうと同じように、殴ってでも車を移動させることを選んだかもしれない。まずは生き残るという点に関して、それは正解である。列車は幻想などではないし、車を動かすことでとりあえず助かることはできたのだ。あなたは投票で決めるという約束を破り、暴力に訴えて車を動かすという意志を通した。

さてしかし、ここでこの危機についての物語が示唆しようとしているはずの現実を、あなたがどのように想像したかを振り返ってみる必要がある。

たとえばそれは、地球温暖化の問題であっただろうか? たしかに人間の経済活動によって地球環境の汚染は進んでいるし、温暖化は元通りにはしがたいほどに進行している。これは多くの科学者とともに、あなたも認める事実である。このまま進めば、居住可能地域の減少や食糧の決定的な不足といった危機が訪れることは想像に難くない。列車はたしかに存在し、こちらに突っ込んでくるのだ。あなたの命と子どもの未来を守る決断は、あなた(の世代)に残された使命であろう。巧みに現実逃避するわからず屋は黙らせなければならない――たとえば、そのようにあなたは考えただろうか?

あるいはそれは、侵略的隣国の問題であっただろうか? たしかに人間の政治・軍事活動によって紛争は止むことがなく続いているし、何かと理由をつけて行われる侵略は非現実的な絵空事になることなく行われている。これはこれまでの歴史が教えることであるとともに、あなたも認める事実である。このまま隣国に隙を見せ続ければ、ついに自国は軍事的に侵略され、自分たちの領土の減少や経済活動の決定的な抑圧といった危機が訪れることは想像に難くない。列車はたしかに存在し、こちらに突っ込んでくるのだ。あなたの命と子どもの未来を守る決断は、あなた(の世代)に残された使命であろう。巧みに現実逃避するわからず屋は黙らせなければならない――たとえば、そのようにあなたは考えただろうか?

あなたは、この物語からどのような現状を想定しただろうか? よく知られているように、以上の二つの危機は、しばしば政治的趣向の異なる集団によって想定されがちである。左派と右派という語を使ってしまうと、些か単純化がすぎるとしてもだ。あなたは、あなたが感じる現実的危機を語ってくれる政治家や発話者に心を寄せてきたことだろう。そのような者たちはあなたとともに「正しく」危機を認識し、またそうであるがゆえに危機に対応できる可能性を持っているからだ。そしてあなたは、危機を認識できていない者たち、むしろそのことによって危機をより一層現実のものに、回避しがたいものにしてしまっている愚か者たちに憎しみの心を抱いてきたことだろう。そのような者たちはあなたを巻き込んで危機を呼び込み、またそうであるがゆえにそれ自身として危機的な存在であるからだ。こうして、あなたは、決断をしなければならなくなる。

危機的思考、あるいは政治の核心

この実験が示しているのは、具体的な危機への対応ではなく、言うなれば〈危機〉という形式そのものについてであろう。それは〈危機という名の危機〉であり、政治と呼ばれるものの核心として考察されてきたものである。

ある20世紀の政治哲学者は、政治的なものの本質を敵と味方の区別に見出した。またその学者は、法体系や議論ではなく、決断にこそ政治における最も重要なモメントを認めた。これらの点において、彼は全く危機的思考の持ち主であった。危機は、しばしば二重に敵と味方を分ける。危機が、想定される現実的な政治上の敵対者によって引き起こされているとされる場合、なおかつその危機を認めずに味方を不利にする者たちが、いわば内部の敵対者と認識される場合、この二つの場合において危機は敵と味方を分ける。敵や味方の観念が危機を生む以上に、危機の認識が敵と味方の峻別をすすめるのである。そして危機に対応するための行為が求められ、その行為へ向かう決断が要請される。これが政治の核心とされる。ある文学者は、政治の本質を〈敵を殺せ、さもなければ殺す〉という命令に見出したが、それも以上のような関係を見て取ってのことである。

政治とは、危機の持続そのものへの隠れた信仰である。実際に、すべての時代のあらゆる場所で、政治は落ち着きなく、大小さまざまな危機を訴えてきた。危機の実際の内容などどうでもよい。危機という形式が、政治家たちの女神なのだ。車のなかでついには運転席の者を殴り飛ばしたであろうあなたも、その仲間である。

危機は認識に関わり、そして関わった瞬間から認識を裏切りだす。人びとは何らかの認識に基づいて、危機を認める。しかし、危機という形式そのものの力によって、その認識が正しいか誤っているか、優れているか劣っているかは熟慮の外へと追いやられてしまう。本来、決断というものの理想的なあり方においては、認識の深さと広さは何よりも重要なことである。認識が事柄の多義性を捉えれば捉えるほど、そこから一義的な決断へといたる飛躍は価値あるものとなる。ところが危機とは、まさにそれが差し迫るものであるがゆえに、多義的なる事柄や世界を認識する余裕を与えようとしない。認識に基づいているはずの危機は、認識に充分な時間を与えないのである。このことから、政治とは(ほんのわずかな優れた例外を除いて)常に認識の欠如という愚かさを纏ってきた。多くの人びとが〈分かりやすい危機〉――侵略を企む悪の国家とか、特別な利権を貪る〇〇人とか、社会を裏で牛耳る謎の組織といった――にばかり飛びついてきたのも、大衆的愚かさによってではなく、危機という形式の持つ認識を阻害するという性質に由来していた面も多分にあるはずだ。逆に〈優れた危機認識〉とは、ひと昔前なら弁証法的統合でも呼ばれたであろう貴重な代物なのだ。

とはいえ、現実の危機というものは存在する。しかし、危機が差し迫ったものである以上、認識はしばしば敗北する。列車に引かれてしまうのも、運転席を暴力的に奪取するのも、ともに認識にとっては敗北なのである。では、どうすればよいのか。そのすべては危機が予感されたあと、認識や議論がまだ可能なわずかな時間にかかっている。あの乗用車のなかでは、説得がまだ可能であったあの時間であっただろう。〈説得〉とは、危機に認識を裏切らせない唯一の社会的実践である。

あなたには〈説得するという能力〉が足りなかった。また他の2人には、〈説得されるという能力〉が欠けていた。説得は常にこの両面によって為されるのであり、〈説得するという能力〉に欠けた者に議論は不可能であり、〈説得されるという能力〉に欠けた者とは議論する意味がない。そうして危機が迫ってきたときには、もう相手を暴力的に弾圧してでも危機を回避しなければならない。必要なのは決断だけになってしまうのだ。自らの危機への認識が正しいかどうかは、そこではもはや問題にならない。こうして〈説得〉が不可能なとき、僕らは危機の女神に譲渡される。危機的思考が僕らを支配し、僕らは危機に従属する。

もしあなたがまだ認識に時間を与える余裕があるのならば、このような〈危機という名の危機〉についての密室実験をあらかじめ繰り返しておくとよい。そして危機というものへの認識を深く、深く研ぎ澄ませておくとよい。その習慣は、あなたにとって危機へのワクチンとなるだろう。

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