都市空間のための三つのスケッチ

街歩きが好きな二人のライターの共作である本記事は、普段の都市歩きのなかから、彼らがふとしたときに考えたこと、気づいたことを集めてきた断章群だ。都市空間を、私たちにとってより充実したイメージ空間にするための、ある種のレッスンとして、この記事を読んでみたいと思う。

Written by 川上修生&イサク

はじめに

都市を歩くときに、それが慣れた場所であればあるほど、人がそこで何かに気づくこと、何かを発想することは難しくなってくる。そのようなときの都市というものは、まるで「あなたにはこれっぽっちも興味はありませんよ」というかのような無表情を、僕らに向けているような気がしてくるので、僕らもしらけた顔でイヤホンを付け、自分の世界に閉じこもってしまう。そうして、僕らと都市とのあいだには冷たく空虚な時間だけが流れていくわけだ。

だが、僕らが都市を見捨てられないのと同じように、都市もまた僕らを気にしているのではないだろうか? 都市は、実はあまり目立たないかたちで、僕らに合図を送っているのではないだろうか? 僕らがその合図に気づけていないだけではないだろうか?――僕らの認識を拡張し、新たな空間感覚、時間感覚を与えるような、つまりはそのようにして僕ら自身を決定的に変化させてしまうような合図に。

写真の一つも付かない本記事では、そのような合図を見逃さないようにしたいと願っている二人の物書きがふとしたときに書き留めたスケッチを、三つ並べてみた。ここに書かれた三つのスケッチが、都市空間に向けるまなざしのあり方を変化させ、都市との関係をより懇ろなものにすることに多少なりとも寄与できたらうれしい。

都市に開けるどこでもドア

新顔のコロナウイルスが東京にやってくる少し前のある日、ひさしぶりにH&Mに行って驚いたことがある。

ふと周りに目を向けると、買い物客の大半が、中国や東南アジア、欧米から来たであろう人たちだった。訪日観光客が過去最高を記録していることもあるのだろうが、その5年前とは明らかに店内の風景が異なっていた。

ここは香港かシンガポール? あるいはニューヨーク? …と見間違えるほどである。スタッフも多国籍だ。あのエレベーターのドアは、どこでもドアだったのか…。

おそらく、ここに来ている人たちは本国でも同じようにH&Mで買い物しているのだろう。時間と距離を乗り越え、ここは世界の都市とそのまま直結している。ここがどこだろうが、もはや問題ではないのだ。必然性を消し去った空間は増え続ける。

都市の隠れた生態系

これもコロナ禍が始まる一、二年前のことであるが、ある大学街の駅前広場で、不覚にも一夜を過ごすハメになってしまったことがあった。

いわゆる新歓シーズンということもあり、そこら辺りには近くの大学の学生たちが何百人も集まって、飲めや歌えや裸で踊れやのドンチャン騒ぎをしていた。誰かがすぐ近くのドンキで酒とつまみを買ってくる。あらんかぎりの下心を胸に抱えてやってきた男たちが、女の子たちを囲んでいる。男も女も、チークダンスを踊りながら「これぞ学生生活」と叫びだしそうなほどで、僕らは始発がくるまでのあいだ、彼らのその路上宴会の様子を観察しながら、隅っこで缶チューハイを飲んでいた。

しばらく見ていると、面白いことに気がついた。男が欲望へのチケットを見事手に入れ、女の子を連れて帰る際、地面にまだ未開封のつまみや飲みかけのワインボトルを置いていってしまう。すると、広場の周辺で身をかがめていたホームレスの方々がそこに駆け寄り、全部持って行ってしまうのである。そうして、彼らが一通り物色したあと、今度は、どこに隠れていたのか、ネズミたちが現れて一斉に走り出す。地面に落ちたスナックやら何やらを口に詰め込んで、すぐにまたどこかへ姿を消すのだ。それは明確に、一つの生態系と呼べるものだった。朝になる頃には、広場は案外片付いていた。

都市は、何も行政による計画やインフラによってだけ成り立つわけではない。サラリーマンや商売人によってだけ成り立つわけでもないし、さらに言うならば人間だけで成り立つわけですらない。予想外の回路や環境も含めた、それらのすべてが都市に、都市としての相貌を付与する。

僕らが歩く路上以外にも、ホームレスの人たちだけが知るさまざまな道や場所が、あるいは猫やネズミこそがよく知る縦横無尽の動線が、都市には走っている。それらも含めて、複雑かつ立体的な都市空間を捉えること。そうすることができたとき、都市は、いままでとはまるで異なる活用可能性を僕らに与えるはずだ。

記憶喪失の空間

よく知った道を歩いていると、時折、急に目の前に空間が開けて驚くことがある。いつの間にか、以前はそこにあった建物が取り壊されたのだ。

工事中の看板を見つつ、ふと考える――「えっと、ここには何があったんだっけ? アパート? いや、服屋か何かが…」。思い出せない。そこで何が営まれていたか、どころか、建物の色合いすら思い出せないのだ。毎日、目の前を通っていたはずなのに…。そのようなことが少なくない。

この〈思い出せなさ〉の体験は、実は貴重である。というのも、それは僕らがいかにそれらの空間と希薄な関係しか結んでこなかったかを端的に示すからだ。それは一つの徴候なのである――すなわち、都市との関係における経験的なものの不在という事態の。都市には記号が溢れているが、僕らはそこにある一つひとつの要素と決して経験的な関係を結んでいない。あるのは体験と習慣の束だけだ。毎日見てきたはずの建物の色すら思い出せない(ここで言う〈経験〉については、以下の記事を参照)。

だからこそ、この〈思い出せない〉という体験は貴重なのである。つまり、それは自らと都市との空虚な関係を教えてくれる合図なのであって、その認識を起点に、また違った関係を都市とのあいだに結ぶきっかけにもなるからだ。だが、僕らは忙しい。急に開けた、謎をまとった空間を前にしばらく茫然と立ちつくすも、時計を見て、また急いで雑踏へと戻ってしまうのだ。こうしてまた今日も、機会は失われる。

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