怒るべきものの乱反射:高橋ヨシキ監督『激怒』考察

高橋ヨシキによる企画・脚本・監督の映画『激怒』。怒らなければならないことが随分多いこの世界で、僕らはどのように〈怒り〉を獲得することができるのか? 何に〈怒り〉を向けるべきなのか? 監督が描く〈怒り〉の感度に関心を向けつつ、本作の問題点とともに考察した怒れる者たちのための評論! ※ネタバレ注意

Written by イサク

滋養豊かな年長者

いま配信やDVDではなく映画館でこそ観た方がいい映画を挙げろと言われれば、ジョーダン・ピール監督『NOPE/ノープ』等と並んで、高橋ヨシキ監督『激怒』を挙げる手がある。たんに配信で観る機会が訪れるか分からないからではなく、この作品、特にオープニングとラストシーンは映画館の音響でこそよく映える。

高橋ヨシキといえば、主に映画関係のアートディレクターとして、元『映画秘宝』のコアメンバーとして、あるいは園子温『冷たい熱帯魚』(2010年)の脚本家として、よく知られてきた名前だ。スマホ以降の時代ではむしろ、ライムスター・宇多丸のラジオ番組「アフター6ジャンクション」にしばしば登場するゲストとして、あるいは彼自身が柳下毅一郎やてらさわホークらと放送しているYouTubeチャンネル「ブラックホール」や、ダースレイダー・チャンネルのゲストとしての方が、若い世代にとってはお馴染みであるかもしれない。

彼の意外と強固な文体よりも、酒を飲みながら映画や時代の趨勢についてあーだこーだと楽しげに――ときには怒りを混ぜて――語るその口調の方が、より多くの人びとを惹きつけたとしても驚くには値しない。彼の広範な知識は、もちろん書籍においても楽しめるが、酒とともに提供される滋養豊かなツマミであるときにこそ、その味わいを増すだろう。こうして僕の見るところだと、高橋ヨシキは、若い世代にとって、あまり多くはないため指折り数えあげるべき存在となった「尊敬に値する年長者」の一人になっているようだ。

今回彼が初監督と脚本・制作を務めた映画『激怒』について語る多くのコメントを見ると、現行の映画史的コンテクストよりも、高橋ヨシキという個人のコンテクストで観られている感がある。いわゆる「ヨシキさんらしい」というやつだ。そのようなコンテクストが薄らぎ、また本作に影響された作品が出たり出なかったりするなかで、はじめて本作は映画史的な位置を正当に考察されるのかもしれないが、以下では観た直後のメモを元手に、たんなる感想を少しでも〈批評的考察〉へと近づけるための用意をしようと思う。

【本作ポスター。】

装置を破壊しなければならない

信号機が赤く灯っている。車が来る気配は一切ないのに、大して長くもない横断歩道を前に、何人かの人びとが、信号が青になるのをひたすら待っている。映画では徹底的に不穏に見せているが、実際に時折見かける光景だ。しかしこれをあたかも良いこと、当たり前のことのように感じるのならば、よく考えてみて欲しい――と、画面の向こうで監督が言っているようである。信号機や横断歩道というものは、交通事故を減らすためにあるのであって、それ以上のものではない。もし右を見ても左を見ても車が来ていないのであれば、渡ってしまってもいいではないか。信号機という事物から出している指示記号を、何か道理以上のものとして受け取り、自らの思考と身体を硬直させていはしないだろうか。映画の中盤から「みんなが見ている」式の、これまたしばしば見かけるポスターが出てくるが、これも人びとに奇妙な従順さをもたらすにいたった信号機と同種のもの、というよりも、その従順さから生まれ出される抑圧的な装置である。監督は問いかけている。「命令的なポスターや貼り紙に何らかの強制力があるかのような錯覚が共有されていて、それに盲目的に従うことが是とされているとしたら、それはどういうことなのか」と(以下の記事参照)。

【筆者撮影:この手のポスターは街のいたるところに貼られている。通行者を潜在的な犯罪者として扱っていることの失礼さもあるが、このポスターの言うとおり、息をひそめてじっと通行者を監視している「住民」を想像して欲しい――僕が住民であったとすれば、そのような不気味な存在に思って欲しくない。】

信号待ちの人びとを無視して、主人公・深間は渡っていく。この対比は、本作の描かんとするものをあらかじめ象徴しているだろう。オープニングがそこに重なる。中原昌也による重く、冷たい、ネオンのうつりこむ都会の泥水のような音が劇場を包む。来るべき破壊に期待が膨らむ――僕らをsubject(主体=従属)化しようとする、あれらの装置が破壊されるという期待が。この映画を批評するいくつかのラインがあるとすれば、本作が提示するはずの〈装置破壊〉の作法は明らかにその一つになるだろう。

僕らは何に怒るのか

さて、結論から言うと、本作が糞っタレの装置ないし主体化作用をぶち壊してくれるかと言うと、半分はYes、半分はNoといったところだ。したがって、映画的快楽としての解放感も半分というわけである。半分のYesは、すでに問題提起のあり方自体に表現されている。このような問題が提起される瞬間に、すでに装置の破壊は始まっていると言える。対象化は、すでにそのものとの距離化を含んでおり、そのような距離化はここでは装置にとって破壊的に働くのだ。

【本作予告から引用:沈痛な面持ちの主人公・深間。深間を演じた川瀬陽太の演技は素晴らしく、この映画が観客を画面に惹きつけ続けるための主要な要素となっている。】

しかし、問題は次の点にある。敵が、すなわち本作の主題である〈怒り〉の向かうべき先が、曖昧なのだ。本作序盤で描かれる町内会組織――引きこもりの中年男性の家に押し寄せ、結果男性に監禁されて主人公に助けられる彼/彼女らは、上述した、車が来る気配もないのに信号待ちしている人びとと明らかに同種である。腰が引けていて、同調圧力の被害者であると同時に積極的な発信者であり、無思考的であり、安っぽい正義――「ご近所様への迷惑」式の――を掲げて群れで押し寄せてくる。個人主義者やアナーキストでなくても、心ある者ならば、この手の連中には苛つきを感じるだろう。彼らは、「みんなが見ている」式ポスターと主体化効果の形式を共有している。要するに、あの装置の領域に属しているのだ。下手なパノプティコンの哀れな信仰者たち――。

ところが、主人公が暴力沙汰の結果、アメリカの病院に送られて精神面の「治療」を受け、数年後に帰ってくると、町は様変わりしている。町内会の見回り組は、もはやかつてのような組織では微塵もなくなっている。新たな組織を構成する彼ら――ぱっと見た限りでは男性だけで構成されている――は、街中でホームレスや若い男女カップルを見ると、問答無用で襲いかかり、酷たらしい手口でリンチし、美女であれば誘拐して、さらには平気で殺人まで犯していることが明らかになっていく。度が過ぎた暴力が街を支配しているのだ。警察も見て見ぬフリをし、むしろ協力しさえする彼らの所業に〈怒り〉を感じない者は確かにいないだろう。

【本作予告から引用:暴走する自警団たちを注意したところ、逆に頭を下げさせられる深間。特にこの巨体の男性の存在感は圧倒的で、巨体と力にまかせた、まったく混じりけの無い暴力がこの街を包んでいることが分かる。】

けれども、このような横暴は映画冒頭で示された気持ち悪さ、あの装置による主体化作用とはまた別の領域に属している。ともに〈怒り〉を向けて破壊すべき対象ではあるとしても、である。彼らはもはや行政から承認された凶暴な――僕らの身の回りのリアリティからはやや離れた――民兵集団とでも呼ぶべきものであって、歴史的・社会的イメージのなかでは、信号を待つあの人びとよりも、征服した街で略奪を許された兵隊に近い。

監督は、両者のあいだに量的な相違しか見てとっていないが、ここには質的に区別した方がよい相違が――仮に紙一重であったとしても――あり、映画序盤に描かれていた事柄とは話が変わってしまっている。要するに、〈怒り〉の対象が変わってしまっており、僕らは話が誤魔化されたような気がしてくるのだ。そうなると、こちらは民兵モドキどもに追加で〈怒り〉を感じるにしても、序盤に振り上げたはずの〈怒り〉の拳は向かう先を失って、来るべき〈装置破壊〉にたどり着くことなくそっと下ろされるか、そうでもなければ新たな敵に向けるしかなくなってしまうわけだ。〈怒り〉やイラつきはしばしばその当の向けるべき対象には向けられず、また別の対象に向けられてしまうものだ。しかし、それは恥ずかしいことではないだろうか?

暴力と救済の神話構造

さて物語は進んでいき、町内会の横暴はさらに極まっていく。主人公の知人であった若者たちは、かつての生活を失って廃墟へと追い詰められており、主人公が映画序盤に気にかけていた若い女性・杏奈(演・彩木あや)はどうやら町内会長に攫われたらしいことが分かってくる。そして結局、若者たちの大半は焼き殺され、杏奈は酷い拷問――そしてはっきりは描かれないが、おそらくは強姦――の被害にあったものの、どうにか救出され、クライマックスの〈激怒〉へといたることになる。

だがどうだろう、ここではまた別の怒るべき理由が、再び追加されているのではないだろうか? 話は再び変わってきてはいないだろうか? というのも、身内に――自分の友人や恋人や家族に――手を出されることへの〈怒り〉は、薄ら寒い規範主義や暴力的組織ないし社会への〈怒り〉とは区別可能なものだからだ。後者の二つはいわば一般的な〈怒り〉であるのに対して、前者は完全に私的であり、また普遍的な〈怒り〉である。結局、深間は、身内に手を出されたことをきっかけに、ついにブチギレたというだけなのだろうか? それとも、深間にとって、とっくに〈激怒〉すべきこの社会に対してまるで怒れなくなるほど、アメリカでの「治療」は効果的であったと考えるべきだろうか? (もっとも、それはありそうな話だ。僕らがあまり怒ることができなくなっているとしたら、深間のようにアメリカに渡る必要もなく、同様の効果を浴びてしまっているということだ。)

ところで、このクライマックスには、さらに派生的な別の問題も含まれているように思われる。というのも、自分が気にしていた女性が、暴力的手段によってほかの男性(支配者)の手に落ち、それを奪い返すという物語にも見えてしまいかねないのだ。確かに深間が、杏奈にどのような意味で好意を抱いているか――恋愛的対象として、それとも娘のような存在としてか――は分からない。二人のあいだに、かつて何があったのかも描かれていない。しかし、物語の構造上、町内会長=男性の手から深間=男性の手に、女性の位置が移動しただけのようにも見えるのだ。

【本作予告より引用:「安心安全」な街づくりに成功したこの町内会長。彼は、序盤では女性蔑視的な言動とともに登場し、後半では女性を侍らせてないとトイレにも行けなさそうな権力者として登場する。】

映画序盤で、監督は、ポールダンサーである杏奈にしつこくからむ男性客や、女性所長を明らかに女性だからと下に見ている町内会長の様子を嫌らしさたっぷりに描いている。その点からしても、本作が女性蔑視的であったり、家父長的であったりするようには特に見えない。しかし、そのような描写があるからこそ、この物語構造が余計に目立つのかもしれない。

このような構造は、神話の時代から物語の筋にしばしば見られてきたものである。ヤマタノオロチを殺したスサノオノミコトは、オロチの所有物になるはずだった娘を自身の所有するところにした。見かけにおいては救済的であったとしても、構造的には、ある男性が別の男性から女性を奪う(あるいは譲られる)というだけに過ぎないこの筋書きにおいて、女性はというと、たんなる所有の対象でしかない。男性同士のあいだを女性が行きかうことで、男性間の支配関係や敵対関係や友情関係、あるいはその変化が表現されるという具合である。

ところが、ジョージ・ミラーはそうではなかった。僕らの時代に新たな神話を提供してくれた彼は、そのような構造そのものを見事に破壊してみせたのであった。『マッド・マックス 怒りのデスロード』(2015年)において、主人公マックスは、イモータン・ジョーに所有されていた女性たちと協力し、ついにこの支配者を打ち倒す。ところが、マックスは新たな支配者になるつもりも、女性たちを自身の所有物にするつもりもない。気づけば、群衆に紛れて去っていくのである。まさにこのあっさりとした振る舞いにおいて、彼はスサノオよりもはるかに英雄的であった。この作品に含まれた「怒り」(もっともこれは邦題特有であるが)は、たんに物質的な破壊描写や怒れる女性の描写に留まるのではなく、気づきにくい装置や厄介な物語構造にいたるまで破壊の手を緩めなかったのだ。この作品が「現代の」神話と呼ばれる所以である。

そうすると、ほんのちょっとした描き方の違いで、この点における本作の印象はまるで変っていたかもしれない。屋上で、煙草で、青い小鳥の最後のシーンではなく、たとえば、「俺もうちょっと殺してくるわ」と行ってバイクで走り去る、きっともう戻ってくることのない深間の背中――肩には青い小鳥――が最後であったとすれば、解放感はより増していたかもしれない。組織や権威によらず、個人で責任を持つ、あの暴力者が去っていく背中を見送る最後であったとすれば。

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