「映画の時間」に関するイサクの応答への返信。映画的時間と身体的時間を媒介する視座として、映画における空間の編成(ミザンセン)が「映画の時間」に及ぼす影響を思考する。思考の素材は、マイク・ミルズ監督『カモン カモン』(2022年)。
Written by まひろ
※以下の記事は、先に次の記事をお読みになってから読むことを推奨します。
映画『カモン カモン』の美しさ
福島県福島市に出張に出かけた日のことだった。その日は現地泊だったので、仕事終わりに上司から飲みに誘われたわけだが、それを5秒くらいで丁重に断ってから「フォーラム福島」へと足を向けた。『トップガン マーヴェリック』もやっているし、『シン・ウルトラマン』を観ても良い。ところが、僕が実際に選んだ映画はマイク・ミルズ監督の『カモン カモン』だった。
マイク・ミルズのことは全然知らなかった。けれども、ホアキン・フェニックスが出演しているし、モノクロのポスターのデザインも良い。自分が好む映画の雰囲気がにじみ出ている。受付でチケットとビールを買って座席に座り、別の映画の予告編を眺める。館内の照明が落ち、上映開始のブザーが鳴る(鳴ったと記憶しているが、実際はどうだったかな)。
――そして、映画がはじまる。ポスターが示す通り、画面の色調は全時間を通してモノクロだ。柔らかなクラシックのBGM、登場人物達のたたずまい、それらの重奏が「映画の時間」の中に僕を引き込む。ドビュッシーの「月の光」が流れると思わず頬がゆるむ。好みの映画の中に好きな曲が流れること。映画と僕の距離が親しみを伴ってはっきりと近づいてゆく。やがて、画面にあらわれる都市の風景。美しい――僕は息を呑む。「映画の時間」の中へと引きずり込まれる。
この原稿を書きながら、『カモン カモン』を観たときの記憶をたぐり寄せている。映画の印象は明瞭だが、映画の中の固有名や細部はさっぱり思い出せない。あれは、確かニューヨークの景色だったと思う。僕は映画を見ていて、こんなに静かにニューヨークの美しさを映像で表現できるのか、と心底驚いたのだ。次々と切り替わる場面に合わせて現れる都市の風景。このとき僕は映画の中に没入し、イサクの表現を借りるなら、確かに〈陶酔〉していた。映像の時間と観客の時間が、僕の身体を媒介として「接合」されたのだ。
けれども、その「接合」は〈時間〉においてだったのだろうか。そうだ、この「接合」が〈時間〉を含んでいることは間違いない。だが、僕がこの「接合」を思い起こそうとするとき、浮かび上がる『カモン カモン』の情景は、ニューヨークの都市を歩く中年男性と子どもの一枚絵だ。言い換えれば、この場面が、その空間が、映像の時間と僕の身体的時間の容器となって、〈時間〉を静止させたのだ。こうして、「映画の時間」をめぐる僕の思考は、時間と空間の関係へと延長していく――。
「映画の時間」の器としてのミザンセン(mise en scène)
マイク・ミルズが映画における時間と空間について語っていることを参照してみよう。
時間をどのように扱うか、それこそが映画づくりでいちばん面白いことのひとつだと思います。私は時計が示す実際の時間よりも、「感情の時間」に強く心を惹かれます。
特に映画は時間による構築物であり、時間をめちゃくちゃにできるのは映画の素晴らしいトリックであり、特権といえます。同じ場面を繰り返してもいいし、そうすることでまた違った見え方ができる。
私の愛する映画には、「空間」に対する意識と、それらをどう配置するかという「ミザンセン(舞台に配置すること、演出のような意味を持つフランス語)」の存在がはっきりと感じられます。たとえばジェーン・カンピオンの映画もそうですね。カンピオンの作品には、空間における空気、そこにある光、本質的な存在の感覚をたしかに見て取れる。そこが本当に好きです。
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マイク・ミルズの語りからは、少なくとも彼が客観的な時計の時間とは異なる「感情の時間」を映画作りにおいて意識していることが窺える。さらに言えば、直接的に語られているわけではないが、「感情の時間」を空間の配置という「ミザンセン」によって演出しようとする意志があるように思われる。
映画の映像とは、スクリーンに投じられた単なる平面図ではない。それは、監督が意図する諸種の図像や記号を采配して生み出された表現である。単なる画像の連続であれば、わたしたちはそこから物語としての起承転結のような筋を見出すことがひどく難しくなる。
もちろん、映画的時間を映像によって構成することは特に珍しい試みではない。というよりも、映画監督は自らが映像を通して表現したいことを構成するために、何を撮り、何を排除するのかを意図的に選ぶものだ。映画の始まりから終わりまで、どのような映像を配置し、音楽を選び、物語の起伏をつけ、エンディングを迎えるか。これらを総体的に演出できるかどうかに監督の手腕がかかっていると言っても良いだろう。
とはいえ、監督の映画的演出がそのまま観客に受容されるとは限らないこともたびたびある。イサクが述べるように、観客も映画を見ながら〈身体的時間〉を構成し、体感するのであり、映画的時間と〈身体的時間〉が接合し〈陶酔〉をもたらすかどうかは、映画の質や演出もさることながら、映画を観る者のその日の体調や気分にも大きく影響される。
だからこそ、われわれは映画館に足を運び、何を観るのかを選ぶ際、そのときどきの身体状態や、劇場の属性(劇場の規模、音響効果、混雑の有無など)を加味した上で、作品を選んでいる。仕事終わりの僕が、『カモン カモン』の静謐な美しさを求めたように。
そうであるならば、「ミザンセン」という概念は、映画作品における空間の編成という意味のみならず、映画を起点とする作品や劇場、鑑賞者の身体の布置とその編成という概念へと拡張できないだろうか。そして、それらの要素が統合的に「接合」されたときにこそ、あの映画を観るときにしかあらわれない魔法の時間、すなわち「映画の時間」が訪れるのではないだろうか。
このことを考慮しながら、あらためて映画を観るときのわれわれの身体の位置づけを考えてみよう。そこには「映画の時間」を形成するための、身体的「ミザンセン」とでも呼ぶべき編成が見えてくる。
映画を受け入れる身体
僕らは、画面で繰り広げられている祭祀に向けて、仰々しく〈注視〉を捧げる。映画のなかで試みられる諸々の工夫が、この〈注視〉を引き出す。
映画館は、観客に著しく〈注視〉を強いる空間だ。テレビやスマホで観るのでは及ぶことのできない劇場の力が、僕らに〈注視〉を強制する。そこで僕らは〈見る〉機械となるしかない。そして〈見る〉という行為は、常に物事や事物との対象化を含むものであって、またそれは対象とのあいだに距離を設けることを意味する。それはやはり、〈注視〉であっても含み持つしかないものなのだ。
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イサクの記事からの上記の引用は、映画館の中でわれわれが「映画の時間」を体感するときの状況を上手く表現している。けれども僕はこの表現にもう一つの注釈を加えたい。僕らは映画という映像の祭祀に〈注視〉することで受動的な存在となることを、あらかじめ自覚的に受け入れている、と。
映画監督が映像による「ミザンセン」によって「映画の時間」を形成することを意図しているように、映画を観る者もまた、映画館の中で行われることを受け入れ、自らが「映画の時間」のための器になることを企図している。映画の鑑賞者という役割を意識的に演じている、とも言えるかもしれない。
このことは、映画館という劇場において映画を観るか、そうでないかで決定的に鑑賞者の器としての姿勢を峻別しているように思われる。この違いは村上春樹の以下の言葉にも明確にあらわれる。
しかしこのような長くつづいた儀礼としての映画館通いも、結婚し仕事を始めると同時に急速に色褪せ、終息してしまった。遅かれ早かれ我々は――世間の大部分の人間はということだが――あの懐かしくてあたたかく、そして暫定的な暗闇に別れを告げ、別の種類の暗闇へと歩を進めなければならないのだ。ちょうど胎児が暫定的な子宮の暗闇を十ヵ月後には離れなくてはならないのと同じように。そして我々は習慣的に映画館に通うことをやめ、あの開演を告げる単調なブザーの音や、休憩時間にかかるわけのわからないレコード音楽や、二番館の椅子のクッションの固さや、開場したばかりの映画館のがらんとした物憂さや、最上級のロードショー劇場のカーペットを踏むときのあの高揚感を失ってしまうことになる。
村上春樹・川本三郎『映画をめぐる冒険』講談社、1985年、8頁。
村上春樹は上記の著書において、劇場で映画を観るという行為が「祝祭的儀式」であったと述べている。そうして、その「祝祭的儀式」の中で参加者が果たさなければならない諸種の儀礼を挙げているのだ。このとき、参加者は一見すると、ただ儀礼をこなすだけの受動的な存在であるかのようにも映る。だがその一方で、儀礼なくして儀式を執り行うことはできないことも明白である。祝祭を迎えるためには、儀礼を通じて参加者が儀礼の中に位置づけられることこそが肝要なのである。
僕が言いたいことは、「映画の時間」は鑑賞者の姿勢やふるまいによっても、その時間が形成されるかどうかに影響があるということだ。さらに言えば、僕らは「映画の時間」を受け入れるための身体や空間をいかに形成するかという課題を引き受けなければ、「映画の時間」がもたらす映画的快楽を追求できない。それは一つの作法であり、身体技法でもある。
カモン カモン(C’mon C’mon)
僕は外国に旅行に行ったとき、教会や寺院に立ち寄ることが好きなのだが、そこで聖堂を眺めながらクラシックの音楽を聴いていると、そこでしか立ち現れない時間が現出しているように感じることがある。この種の時間は、聖堂の建築的意匠にもよるのだろうが、上から降り注いでくるように感じられる。
そして、「映画の時間」もまた、僕にとっては上から降りてくるようなイメージだ。スクリーンを物理的に見上げるような劇場でなくとも、やはり「映画の時間」は降りてくるものだと思っている。
どうやったら「映画の時間」を過ごすことができるのだろうか。映画監督の腕? 出演俳優の演技? 音楽? 映画館の雰囲気? 僕の体調? 座席の固さ? 今朝快便だったかどうか? brabrabra, brabrabra.
そのどれかかもしれないし、いずれかの組み合わせなのかもしれない。
Whatever you plan on happening, never happens.
Stuff you would never think of happens.
So you just have to, c’mon.
C’mon, c’mon, c’mon, c’mon.
C’mon, c’mon, c’mon.
以下の映画予告編から引用。
日本語訳では、 “C’mon, c’mon” を「進み続ける」と訳しているが、僕は字義通りに「カモン カモン」で良いと思っている。「やってくるものを受け入れる」ことがこの映画の主題であると考えるからだ。「映画の時間」もまたいつ現れるのかはわからない。それでも、それがやってくることを受け入れることはできる。諸種の儀礼を踏まえながら、映画の中に没入することを引き受けることはできる。――その姿勢こそが、「映画の時間」への信仰である。