映画的時間についてのいくらかの註解

まひろによって執筆された記事「映画の時間:押井守の映画論から考える映画的快楽」への応答として、思いつくままに書かれた注解。映画的時間を身体的時間として捉え、画面への〈陶酔〉と動き回る〈思考〉の様子を論じた映画体験エッセイ。

Written by イサク

以下の記事は、先に次の記事をお読みになってから読むことを推奨します。

体感時間

舞台演劇が空間の芸術であるとすれば、映画とは時間の芸術である――という言葉を、僕が一体どこで聞きかじったのか、もう覚えていない。しかしこの言葉は、時折、たとえば良い映画を観た帰りに電車で揺られているときや、勤務先の近くの蕎麦屋で昼飯を食べながら何か映画について考えているときに、まるで風に飛ばされた布切れのようにやってきて、思考の端っこに引っかかる。

映画、あるいは〈時間〉、映画的時間。僕が映画を観ているあのとき、時間とは、一体どのようであったろうか・・・と、考える。そもそも時間とは、何だったろうか――こんな具合のボヤけた考えがふわっと現れるのだけれど、時計に目をやれば、おっといい時間だ、そろそろ蕎麦屋を出て…と、結局、この想念は、まるで煙のように、忙しく財布を用意する指先からすり抜けていくのだから、つまるところ何も真剣に考えるにはいたっていないのだ。時計が示すような「時間」――時計というものは、しばしば休憩時間を意地悪く測っているストップウォッチのように見えて好きになれないのだが――は、実はこちらが時間について思考することをあの手この手で邪魔してくるものではないだろうか。

何も真剣に考えていない、といえば、映画館で席に着く、あのときもそうだ。隣に人が来なければいいな、というくらいのことしか考えていない。座席に座っていると空間に暗みが与えられる。少し鼓動が早くなる。しかしそれは胸が高鳴っているというわけではなく、画面と暗がりの圧迫感に対して生物的な反応を我が心臓が示しているに過ぎない。

いよいよ辺りが暗くなる――「映画の時間」の始まりだ。新作映画の予告やら盗撮防止の何とかやら上映マナーのあれこれやらが終わり、僕らが〈観る〉ために必ず通ることになる敷居、日常的世界から「画面の向こう」の世界へと僕らを渡らせる、あの敷居が、暗闇のなかに立ち現れる。もしそれが如何ともしがたく惹きつけられる出来であったとすれば、僕らの集中力は嫌でも上がっていく。

こちらの身体活動は限りなく静止し、言語活動は完全にどこかに追いやられ、僕らがただ注視するだけの存在へと変わっていく・・・まさにその向こう、僕らが注視する視線の先で、世界の方はぐんぐんと稼働していくのである。この身体と世界の対照性。そうしてついには、その世界を流れていた〈時間〉もまた一応の終わりにたどり着くだろう。もしもその〈時間〉が僕らの集中力を最大限に引き出す魅力を持っていたならば、ふと見た時計が2時間後を指していることに不思議な錯誤を感じるだろう。体感ではまだ15分程度だったのに!

【たとえばこの映画の劇場体験は、僕らの胸元からいとも簡単に2時間を抜き去った。】

身体的時間

ところでいま、押井守が言う「映画の時間」という言葉を少しずらして使ってみた。

冒頭のまひろの記事が引用するように、押井の言う「映画の時間」とは「映画が醸し出す、独特の映画のなかだけで成立する時間」であり、「映画だけに流れる特権的な時間」とも表現される(押井守『押井守の映画50年50本』立東舎、2020年;119頁)。そして冒頭に掲げた記事で、まひろは、この押井の概念を火に焚べて叩き直し、それを「映画の中に『主観的時間』を骨子とする諸種の時間を接合し、その “つながり” を視聴者が自覚的に見出すことで、映画特有の快楽を得る時間」という言い方によってひとつの形に留めている。

まひろの言い方にしたがうならば、ここで僕が「映画の時間」として語ったものも、正確には「映画の時間」を構成する時間の一つ、要素の一つであって、強いて呼ぶなら〈映画の身体的時間〉とでもしておこう。それは、計測的な時間ではなく、まったく体験的な、身体において展開される「主観的時間」である。

陶酔と思考

僕らは、画面で繰り広げられている祭祀に向けて、仰々しく〈注視〉を捧げる。映画のなかで試みられる諸々の工夫が、この〈注視〉を引き出す。そこでは観客の活動が静止することによって、画面の上を流れる時間と観客の過ごす時間との距離はかぎりなくゼロになる――もっとも、理想的な「接合」が行われるのであれば、であるが。

その「接合」の場が身体である。身体とは、物理的・生理的な肉体の概念とは異なり、僕らと世界との「接合」の舞台そのものを示しうる概念である。劇場で結ばれる諸関係は、身体を舞台に行われるのであり、またそこでのゼロ距離化はある種の〈陶酔〉と呼ぶべきものである。その点で、劇場とは最も原始的な儀礼空間と多くを共有している。劇場とは、現代が引用する原始である。

しかしそれはまた、どこかの誰かにとっては日々のなかで決して失うわけにはいかない、特別な〈思考の時間〉でもある。静止した身体は、思考がちょろちょろと動きまわるのに都合がいい。画面の流れを追う目の奥では、流れ込んできた光の記号が解読され、演出と物語が描く筋道に批評的な位置づけを与えようとする。しかし、この過程は僕の意志というよりも、劇場の意志とでも言いたくなる何かではなかったか? 劇場のアフォーダンス――。

https://www.youtube.com/watch?v=msQHUsLXuj4
【もっとも、あまり〈思考〉に隙を与えない傑作映画というものもある。そこではネズミのように動き回る思考は、しばしば〈陶酔〉を促す画面向こうの人物たちによって踏みつぶされてしまうのだ。】

映画館は、観客に著しく〈注視〉を強いる空間だ。テレビやスマホで観るのでは及ぶことのできない劇場の力が、僕らに〈注視〉を強制する。そこで僕らは〈見る〉機械となるしかない。そして〈見る〉という行為は、常に物事や事物との対象化を含むものであって、またそれは対象とのあいだに距離を設けることを意味する。それはやはり、〈注視〉であっても含み持つしかないものなのだ。

このまなざしが与える距離というやつが、しかし、例の〈陶酔〉とは真逆の〈思考の時間〉をも可能にするのである。僕らは、顔を光に照らされながら、ふと考え始めてしまう。もちろん、〈陶酔〉の魔法が消えたわけではない。しかし批評が生まれるのは、この微かな照らし出しの〈瞬間〉においてである。〈思考を禁止する時間〉と〈思考を促す時間〉は、ここで僕らの身体的時間として同時に訪れる。熱気と冷気があわせてやってくるのだ。 押井の言う「映画の時間」が終われば、〈陶酔〉の時間も終わる。映画館を出たあとになお残る残留物は、「余韻」と呼ばれている。一方、〈思考〉はというと、〈陶酔〉よりは持続的に活動を続ける。瞼の裏に何度も劇場で観たものを再現しようと、想起の力が必死に動く。〈思考〉が事態を整理していく。論理と物語の道筋が次々と整備される。そうして気持ちという荒野に開拓の手が加わっていくたびに、「映画の時間」も遠くなっていくような気がする。〈思考〉の灯までもが消えたとき、辺りは真っ暗になる。もしそれが嫌であれば、また映画を観るか、誰か話せる相手でも求めて街に出ればいい。別の時間だってあるのだ。

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