一人の若きラップスタア Skaaiの活躍を見守りながら、筆者は彼と同じ大学院卒の身として、自身のヒップホップファンとしてのあり方を問い直すこととなる。善いヒップホップヘッズとは何なのか? ささやかなエールと共に送るヘッズ論!
Written by 東亜茶顔
あるラップスタアの誕生
後追いで聴いた¥ellow Bucks がかっこ良かったことや、元々好きだったRalphが優勝したこともあって、『ラップスタア誕生』は何となく観ていた。審査員の体制が変わり、はたしてどうなるやらと思って観ていた2021年、多くの出場者がトラップビートを選ぶ中、わずかキャリア1年半の1人のラッパーが毛色の違うビートで本戦に勝ちあがってきた。それがSkaaiだった。
人物紹介によると、父は中国系マレーシア人、母は韓国人。教育熱心な親の教育方針から海外を渡り歩き、アトランタで過ごした時期もあるが、地元は九州だと言う。
しかも当時、彼は現役の文系大学院生だ。博論こそ出したものの就活がうまくいかずに悶々としていた一人のヘッズである自分には、洒脱でテクニカルかつ、リリカルにかます彼の姿が眩しく映った。決勝にこそ残れなかったが、間違いなく2021年の回で最も爪痕を残したラッパーの1人だったと思う。
番組のシーズン終了前後、「Period.」という曲をリリースし、改めてその才能を印象付けた。ちょうどその頃、自分は就職が決まり、オフィスに通いながら何となく彼のことを気にかけて過ごしていた。仕事に慣れ始めた頃、Skaaiはレッドブルがキュレートする企画「RASEN」で、tofubeatsのトラックの上でラップしていた。他のメンツはBIM、田我流、Bose(スチャダラパー)、いずれも先輩格に当たる。
その後も、幕張メッセで2日間にわたって行われたヒップホップフェス「POP YOURS」出演など、活躍はめざましかった。
そして2022年9月21日、SkaaiのトレードマークをタイトルにもジャケットにもあしらったEP『BEANIE』がリリースされた。オフィシャルリリースされた初めてのまとまった作品がこれ(現在、フルアルバムはまだリリースされていない)、ということからも、彼のサクセスのスピード感が伝わるだろう。
高学歴とヒップホップ
Skaaiの音楽性やマルチリンガル、マルチエスニシティなバックボーンは、それはそれで目を引いた。だが、最も自分が注目したのは文系大学院生という学歴、元研究者志望からのラッパー転身だ。彼自身、インタビューの中で、
ラップ自体はずっと好きだったんですが、自分がやるものじゃないし、やったところでどうにもならないと思っていたし、研究者になろうと思っていたので、ずっと聴く専門で。リリックを書くのも時間がかかるし、そこに時間を割くなら勉強したほうがいいんじゃないかって。
以下の関連記事から引用。
…と語っている。
この一節はまさに、自分が回答したのではないかと思うほどだ。もっとも、高校時代に路上ライブをしていたり、コロナ禍を経て楽曲をSoundCloudにアップする中で活動を始めていたりする点は、コロナ禍で博論執筆の手を休めていた自分との大きな違いだが。
ともあれ、重要なのは、Skaaiがずっと一人のヘッズとしてヒップホップを聴いてきたこと、そして一人のプレイヤーとなったことだ。たしかに、Moment Joonなど大学院に通うラッパーはいるし、KRS-ONEやQuestlove、9th Wonder、Lupe Fiascoのように、大学で講義するヒップホップ関係者もいる(それぞれ以下の関連記事参照)。また、Talib Kweliのように、両親や兄弟が学者というアカデミックな家庭環境に育ったラッパーもいる。外在的な面だけ見ても、実はヒップホップとアカデミアはそう遠くない場所にある。
ストリートの定義と立ち位置
他方で、アカデミアと距離が近いからといって、彼らが内在的な苦闘と無縁なわけではない。彼らのようなアメリカのラッパーは、人種・エスニシティ上の困難や戦い、コンシャスネスの中に身を置いている。この点はSkaaiも共有している点が多々あるだろう。実際、『ラップスタア誕生』応募時のラップでは、自身の出自について言及する点があった。また、Moment Joonのように、自身のヒップホップにおいてこれらのテーマをはっきり掲げる者もいる。
こうした彼らのヒップホップに思いを馳せるとき、ひとつの言葉が脳裏をよぎる。ストリートだ。
一見すると容易に設定可能なこの語の定義はしかし、リスナーとしての自分を苦しめる。私見では、どのような立場であれ、ストリートに立つ人こそがヒップホップにおける真のプレイヤーであり、その文化を担い、実りを享受すべきだと思っている。
この点、貧困もドラッグもギャングも家庭問題も人種問題も縁遠く、東の島国でマジョリティ男性として悠々と大学院まで行けるような人間が、はたしてヒップホップが好きなどと大っぴらに言って良いものか。何をもって自分はストリートに、彼らの伴走者なり何なりとして立ち、どのようにかしてヒップホップに何か貢献できるのか。どんなストリートの定義をもって、自分はヒップホップの土俵に立つことができるのか――。
こうした、かねてから抱えてきた葛藤にひとつの回答を投げかけたのが、Skaaiが「I Know」という曲のリリックを解説した際の、以下の言葉だった。
ストリートの定義は多分、定義づけられないと思うんですよね。特に回答、定義はこれだぜっていう、普遍的な定義は多分言ってなくて。でもそれぞれが、自分がストリートだと思ってたら多分それはストリートで、自分の中に葛藤なり悩みなり、這い上がる精神なりあれば、文脈はどうであれそれって多分ストリートだと思うんですよ。異論は多分絶対あると思うんですけど。で、自分もこういう典型的な家庭環境、ヒップホップの家庭環境ではなかったし。でも自分には絶対ヒップホップに、ヒップホップとの親和性を感じる何かがあったからこんなにヒップホップにハマってるわけで。それがストリートが所以じゃなければ何なんだってすごく思うんですよね。だから、見た目とか喋り方がヒップホップじゃなくても、絶対ストリートの定義の中に自分は必ず含まれているはずだっていう。
以下の動画を参照。
プレイヤーとなった彼から発せられたこの言葉は、一院卒者のヒップホップヘッズの筆者にとって、大いに勇気づけられるものだった。自分にとっての「ヒップホップとの親和性」、少なくとも、その親和性の感覚までは疑わずとも良いのではないかと思わされたのだ。この一点においては、いかに脆弱であろうとも自身の足をストリートに置いても構わないと信じることができた。
善きヘッズであるために
だからといって、善きヒップホップヘッズとは何か、ストリートによりしっかりと足をつけたあり方とはいかにして可能か、という問いは依然目の前に横たわっている。
少なくとも自分にできるのは、リスナーとしてよく楽しみ、楽しみ方を掘り下げ、共有していくことくらいかもしれない。それはかつてヒップホップの5番目の要素として示された、Knowledgeのあり方ではないか、と勝手ながら思う次第である。 Skaaiはプレイヤーとなったが、自分はあくまでもリスナーであり続けている。。プレイヤーが取りうる行動の選択肢とリスナーが取りうる行動の選択肢は、自然と異なってくるだろう。だがもし、かつて同じく学問を志し、アカデミアに身を置いたことがある経験がかの文化のために活きるとすれば、頭を抱え唸りながら、このささやかな文章をしたため続けるのだろう。とかく、彼の幸先の良いキャリアがますます豊かになることを願う。