攪乱の果てにあるもの:映画『女神の継承』考察

7月末から日本で公開されているタイのホラー映画『女神の継承』(2021年)は、ある地域の山地社会を覗くのに留まらない時間を観る者に提供する。本作が銘打つ「新しいホラー体験」を恐怖と混乱の中から探っていくための一考察。※ネタバレ注意。

Written by 祖父江 隆文

『女神の継承』を初めて観た時は、タイ東北地方の精霊信仰がモチーフのホラー映画という情報以外はほぼ予備知識無しで映画館を訪れた。深い森に覆われた村落の様子や、シャーマンの日々の営みを追った良質なドキュメンタリーを観ているような感覚に包まれる序盤から事態が急転していく。予想だにしない恐怖と状況把握のために、脳を激しくシェイクされ続けるような怒涛の時間を過ごした。 

稀有なホラー体験

『女神の継承』で人々に信じられている精霊ピーや女神バヤンは、肉眼でもカメラでもその存在を確認できないものとして捉えられている。この、何が人に憑いているのか、そしてそれが何を考え、何をしようとしているのかが明確ではないことが観客を徐々に恐怖に陥れる。

この精霊の得体の知れなさを際立たせているのは、本作の監督バンジョン・ピサンタナクーンがこだわったという「リアルさ」の演出だろう。それは、本作がモキュメンタリーであることに加え、撮影舞台となった東北タイの村落で監督自身が現地調査を行い、その世界を精巧に作り上げた点などに見出せる。

一方で、その「リアルさ」の背景となる村落の状況や登場人物の人間関係など、本作の世界観に関わる点については劇中では詳細に明かされない。そのために、観客は精霊の不可思議さも相まって、終始想像を働かせて物語の中を模索する感覚を抱くことになる。

霊の存在を問う視点

こうした要素が支えとなって表現される本作の霊的存在の特異性を考えるために、まずは、本作と異なる(つまり典型的ともいえる)霊の表現をしているピサンタナクーンの長編デビュー作『心霊写真』(2004年)と本作とを比べてみたい(以下はピサンタナクーンのインタビュー記事。例えば「シャーマンのことは信じていない」と述べる点で、彼は東北タイの精霊信仰を外から見る位置にいる。)

『心霊写真』では、バンコクに暮らす写真家の青年タンや恋人ジェーンたちに恐怖を与える霊は、ある時を境に現像された写真に現れるようになる。

写真という装置を巡っては、ジェーンが写真論と思われる講義を大学で受けていた時に、写真は撮り方によって同じ対象を異なるように写してしまうと講師が述べるシーンがある。一方で、タンとジェーンが訪れたオカルト雑誌の編集者は、霊は生前愛していた者に死後も会いに来て、必ず写真に写り込むのだと告げる。

【9月に新文芸坐で1日限定公開されていた『心霊写真』のポスター。筆者撮影。】

こうした点で、『心霊写真』での霊は、レンズを媒介とすることでその存在が確認できる、倒錯した写実性の対象である。つまり、眼に見えないはずの対象がカメラを通して見えてしまうという、世界の客観性が揺らぐ不安(可視性に対する不安)が、恐怖を演出する要素となる。

だがその霊の表現は、人の眼でもカメラでもそれ自身の姿を捉えることはできない精霊ピーのそれと対照的である。東北タイのみならず、カンボジア等の東南アジアのあらゆる国や地域では、精霊は一般的に不可視なものとして捉えられるといわれ、本作でもその性質が活かされている。『心霊写真』の霊は見える上に、ピサンタナクーンが影響を受けたという日本のホラー映画で見られる典型的な霊の造形をしている。また、霊の表現を含むこの作品の筋書き自体も、必ずしもバンコクや東南アジアが舞台でなくても概ね成立すると思えてしまう。

こう考えると、『心霊写真』における霊と、本作の精霊ピーとでは、その在り方に相違がある。つまり、前者の「そこにいることが分かってしまう恐怖」とは異なる、後者の「そこにはいるが、それが何か分からない恐怖」をモキュメンタリーで表現し、観客にもそれを目撃させているのだ。

一方で、こうした霊を巡る視点の違いは、例えば以下のシーンで作中の村落世界での揺らぎを惹起する要素として入り込んでいるようにも見える。

本作で悪霊に憑かれてしまうシャーマン一族の少女・ミンの母であるノイは、娘を救うために、精霊やシャーマンの存在を否定していた態度を改め、バヤンへ祈りを捧げるようになる。だが、それでも残る霊の存在に対する疑念からか、ふと当代シャーマンで妹のニムに「バヤンが見えるのか」と尋ねる。このさりげない問いかけは、『心霊写真』のような霊の可視性を問題にする、村落世界の〈外部〉の視点に依っているように見える。この可視性を以て霊の存在を確認しようとする問いと、可視性が精霊の存在の決定的な基準にはならない村落での「何の霊か」という問いとでは、質的な差異があるのだ。

ニムは、実際自身にもバヤンが見えていないのだから否と言うほかなく、「バヤンがいると感じるのだ」と応答する。だが、こう答えることで、ニムはバヤンや霊に対する〈外部〉の基準を内在化し、疑念を深め、「バヤンがいるかなんて初めから分からなかった」と告げる最後のシーンに至ったのかもしれない。

浸食が生む揺らぎ

本作は、このように村落世界と、その〈外部〉の要素とが絡まり合いつつ展開していく。本作では序盤から、ピーやそれに関する村落に暮らす人々の慣習とともに、それらから成る世界とは別の、それ故に村落に緊張をもたらしてきたであろう、〈外部〉がそこに混在していることが示唆される。

ミンやその親族は、あらゆる点でそうした〈外部〉の世界を受容しながら村落で暮らす、村民の生活のあり方を体現している。ニムの一族が受け継いできたシャーマンとしての定めを拒絶してキリスト教徒となった母親ノイや、産業を村落にもたらした父の家系であるヤサンティア一族などの存在がそれである。

【ニムに対峙する悪霊が憑依したミン。横の二人はノイ、ミンの叔父・マニ。公式ページより引用。】

本作のなかで、こうした村落での変化を象徴しているのが、犬である。本作を通して、犬は様々なシーンで登場するが、死を通して描かれている点では共通している。

例えば、ノイは市場の犬肉屋で働いている。他方で、ノイたちの家には、小型で純白のいかにも「ペット用」の犬がいるが、これもまた、昨今ペットブームであるというタイの「近代的な暮らし」を象徴しているように見える。ノイは撮影スタッフに家で犬を飼っているのに犬肉を売るのかといったことを聞かれ、「魚を飼う人だって魚を食べるじゃないか」と答える。ここで問題なのはこの応答自体というよりも、精霊やシャーマンに否定的な態度をとりつつも、昔からの「慣習」として犬達を(おそらくはノイが)日々殺していることだ。

上述したノイの主張は、ペットとして生かすべき動物と、食用等として死んでも問題ない動物の区別を人間がする限りでその正当性が保たれる。

しかし、精霊からすれば、人間がいかに精霊やそれが住まう「自然」への認識を変えようとも、あらゆるピーが至る所に在る世界が変わることはない。ここからは、村落の〈内部〉(精霊が住まう世界)とその〈外部〉——ペット犬を飼うことやノイの主張、さらにはその背景にある精霊の畏怖等の慣習の周縁化——とが、齟齬をきたしながら混在している事態が垣間見える。

攪乱され続ける世界

前述した〈外部〉による村落世界の揺らぎは、そこに生きる人々がどう行動すべきかについての価値基準が混在し、あらゆる規範が並存する〈あいまいさ〉が生じているからとも受け取れる。

ところで、本作にはそうした〈あいまいさ〉とは別種の〈あいまいさ〉も登場する。それは、精霊ピーが持つ性質としての〈あいまいさ〉である。ピーの「そこにはいるが、それが何か分からない恐怖」も、〈あいまいさ〉が醸成された状況の中で生じる。

恐怖の対象としての霊とは、人に災いをもたらす〈悪〉の対象として捉えられる傾向がある。その傾向の下では、人を脅かす霊的存在は、安寧を得るために克服されるべきものとして、その位置が固定化される。例えば『心霊写真』では、タンに執着の念を持つ元恋人が霊として現れる。そして、物語は彼らがその霊の念を解き、平穏を取り戻す過程を描いていく。それ故に、霊の正体が判明する中盤以降では、対象そのものへの恐怖は減少してしまう。

他方で、本作の精霊ピーは、そのような性質の固定化はなされない。ニムは序盤のインタビューで、この村落には様々なピーがおり、良い霊もいれば悪い霊もいる、と述べる。これはさらにいえば、霊は良いものにもなり得るし、悪いようにもなり得るということだ。これはつまり、東南アジアの精霊は、人間に利益をもたらすこともあれば、災いをもたらすこともあるという不確かさとともに認識されるということである。本作がその性質を極限化して表現していることもあるが、ピーが持つ善悪の両義性は、その不可視性と相まって、予測不能な不安が喚起する恐怖を生み出す。

【牛の頭を精霊に捧げる供物台。カンボジア山地にある某州で筆者撮影。】

そうした〈あいまいさ〉の一つの形態として本作で見られるのは、霊の善としての性質と、悪としての性質とが裏返しになるかのような現象である。この〈善悪の反転〉が一気に顕在化するのは、本作終盤のミン除霊する儀礼での、女神バヤンを巡るシーンでである。

この儀礼の最中、ノイは突然「バヤンが自分の中にいる」と主張しだす。だが、不可視の霊が本当にバヤンなのかは周囲には分からない(ニムや、この儀礼をそれまで行ってきた呪術師サンティといった、この状況を分析できそうな霊の知識を持つ職能者は既に死亡している)。そればかりか、儀礼を再開する時にノイが線香を逆さに立てたことを発端に、サンティの弟子たちに何かが憑依し、撮影スタッフたちを襲う。

つまり、不可視の霊が何であるかを捉えられない〈あいまいさ〉の中で、〈善悪の反転〉が起こっているのだ。ノイの言葉通りであれば、この儀礼まで、人々の畏怖の対象であり、村落に利益をもたらす〈善〉なる霊であるはずのバヤンが、何故かこの儀礼では混乱した状況をさらに凄惨なものにしていることになる。こうした理解が追いつかない展開によって、観客は恐怖を増加させる。

他方で、この儀礼での「バヤン」は、善悪の性質が逆転しただけ、すなわちニムに憑いていたバヤンが悪霊化しただけとも言い切れない。ノイは、霊を大量にそこにいる者たちに憑依させた後、それでもミンに憑依した霊を祓おうとしたからだ。この点で、人間に災いをもたらしたという意味ではノイや彼女に憑いたものは悪かもしれないが、娘を救おうとしたという意味では善でもあり得るのだ。

だが、ノイはミンに葛藤を生じさせてきた母親であり、また、産業や財のために多くの命を奪ったヤサンティア家と、霊を災いとして対処するシャーマン一族の系譜にいる者でもあるとすれば、ミンや霊にとって、ノイや「バヤン」はやはり悪かもしれない……。

この儀礼は、こうした精霊が持つ〈善悪の反転〉が繰り返され、そのいずれにも帰着することのない〈あいまいさ〉が展開する点で、予測不能のホラー体験をもたらす本作の真骨頂だろう。

あいまいであるが故の強度

こうした霊がもたらす恐怖を劇場でひとしきり体験した後になると、ここまで記してきた〈外部〉―村落世界の混淆による〈あいまいさ〉と、霊が持つ性質としての〈あいまいさ〉との間に相違があることに気づく。それは、両者にある連続性と非連続性の相違だ。

〈外部〉による村落世界を揺るがす〈あいまいさ〉は、その〈外部〉の世界――すなわち産業化や合理化といったものをもたらす近代化していく世界――に移行していく連続性の過程で見出されるものである。

村落で縫製工場を経営してきたヤサンティア家は物語の当初から破綻の道を辿ってはいたものの、それでも村落は〈外部〉と同質化を果たしてきているようだ。ミンは序盤では雇用センターに勤めていたが、その存在は、村落には既に多くの賃金労働があり、またそれだけの労働者を経営者たちが欲していることを示している。

また、タイに限らず、東南アジアの山地は、少数民族を含めた多くの人々が暮らす場でもある一方で、経済発展に利用しようと様々な開発事業が介入し、また国家が人々を「国民」として統制しようと行政の力を及ぼしてきた地域でもある。

【本作の舞台である村落の風景。予告編より引用。】

こうした〈外部〉からすれば、近代化と村落世界とが混在する〈あいまいさ〉は、こうしたある世界から別の世界への移行に伴う際の「症状」のようなものというわけだ。ノイの言動に見られる村落世界とのズレや、シャーマンとして生きるニムの葛藤も、こうした近代化への過程の中に含まれてしまうのかもしれない。

他方で、精霊の持つ〈あいまいさ〉は、そうした〈外部〉に向かう連続性が生む〈あいまいさ〉とは異なる性質を持つ。それは、すなわち、精霊が持つ〈善悪の反転〉という〈あいまいさ〉それ自体故の、〈外部〉とは独立した非連続的な性質である。最後の儀礼では、精霊の善悪の不確かさが、そしてそれが持つ力が、〈外部〉の侵入にかかわらず発揮されるということが示されている。

この〈善悪の反転〉を起こす精霊の〈あいまいさ〉は、「人間の存在を脅かすものを統制した『善き』世界へ向かう」という〈外部〉がもたらす潮流に、楔を打つものと捉えられる。つまり、精霊の持つ性質は〈外部〉の「発展」という連続的な時間認識に蝕まれることがない強度を持っていること、そしてそれが発揮されることで、〈外部〉とは別の世界の在り方を我々に確認させるのだ。

善悪の〈あいまいさ〉が顕在化するからこそ、村落世界とまぜこぜになっている〈外〉との境界を認識し、後者から距離を取ることができる。本作のホラー体験は、そうした特異性をも持ち得るものである。

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