西荻窪で考える時間

東京都杉並区西荻窪駅周辺に住む筆者が、その街で考えたことを断章形式で語る。西荻窪で考える時間、人と過ごす時間というものが自分の人生のなかであったということを、より鮮明に記憶するために、ある人間やある瞬間の写真集でなく、ある人間やある瞬間との交わりのなかで過った〈思索の写真集〉。

Written by イサク

盛り場はすべての都市空間のなかで唯一、山林に似ている。そこは確かに人を惹きつけるような力を持っているわけだが、そこに興味を抱いている者、しかしまだその場に通じていない者に対しては結局、その恋心への報酬として孤独感しか与えない。だがある特定の盛り場をいくらかでも知っていくと、そこで見えてくるもの、感じることはまるで変わる。ある山林に通暁した者にとっては、ちょっとした獣道が、季節ごとの木々の様子が、動物の残したいろいろな痕跡が、あらゆる示唆を与えてくれるのと同じように、盛り場は徴候と余韻に溢れた場所となるのだ。つまり、たんなる空間とは違う、その者にとっての本当の意味での〈場所〉となるのである。

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ある夜に耳にした歌詞――「散文的な変わり目」。革命は詩的なものを含まなければならない。言い換えると、真に革命的な変化においては、常に詩的な要素が感じ取られるものなのだ。だとすると、そうではない変化、革命的ではない変わり目のことを「散文的」という言葉で表現できるかもしれない。散文的でしかない変化、いや散文的にしかなりえない変化…。毎日毎週繰り返される「終わりなき日常」、そこに漂う漠然とした不安、だからこそ求める「安定」の不安定さ、いろいろなことを誤魔化す――何より自分に向けて誤魔化す――ために流し込むさまざまな味の享楽…。これらは散文的なものだ。ちょうど、特に驚きもなく終わっていく恋愛関係や友情関係にも似て、さまざまな事柄が決定的ではないかたちで移り変わっていく。しかし、そうだとしても、日々に過ぎ去る「散文的な変わり目」のなかに、時折、一片の詩情が輝く瞬間のあることを見逃してはならない。そのような微かな詩的瞬間は、小さな革命でもないし、日々の慰めにもならないけれど、「ここではないどこか」や「こうではない自分」がもしかしたら存在して、それを自分以外の誰かが享受できるかもしれないということを、少しだけ想い出させてくれるのだ。

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他者に恩義を感じさせる人間という者がいる。しかし、最良のそれは、恩義を感じさせつつも他者に負い目を感じさせるわけではない。そのような人間において、恩義という概念は負い目という暗い概念から解放される。

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【西荻窪・柳小路:筆者がある日に撮影。】

酔いが、酔っぱらった者の内に秘められた本質を露わにするわけではない。酒が、本質の現れる場を用意するわけではないのだ。それほど事が単純であれば、人間の歴史や社会や心理について探求する学者や芸術家など必要とされることはなかっただろうし、あらゆる人間関係は酒の助けを借りることになっていただろう。酔いが表すのは酔ったそいつの、しかもしばしばその日の態度というだけだ。そしてその日の態度には、こちらからは伺い知れない事情があることもしばしばだ。このような事情を無視する巷の通俗社会学を破壊すること。逆に、酔った人間の表情や言動の一瞬に現れる〈何か〉を謎として――解き明かすべき謎として――受け取ること。酔いの問題にかぎらず、あらゆる本質顕現論を常に警戒しなければならないのは、他者を、謎を持った存在として考えること、こちらの理解が及ばない部分のある存在として待遇することを忘れさせてしまうからだ。

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おしゃべりや寂しがり屋にとって、孤独とはできるだけ避けたい時間である。しかし、まさにおしゃべりや寂しがり屋であるからこそ気づくことのできる孤独の愛おしい瞬間というものもある。そのようなとき、その者は自己の内部に対話的時間を獲得しているものなのだ。誰とも共有されることのない、豊かで孤独な友愛の時間。

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人の優しさに感じる特有の毒。そこには甘美なものがある。それは優しさのなかに秘かに説教臭さを隠し混ぜ込む、そのような手練れの方法論に由来するのではない。そうではなく、人間が他者に抱く好意(ないし興味)と嫌悪(ないし不安や恐れ)の不分明地帯が、そこに絶妙に感じられるからである。割り切れなさは、人間的な誠実さに属する貴重な毒味である。

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コミュニケーション能力と呼ばれるものが、最低でも二種はあるということは、盛り場でこそ痛感するだろう。ひとつは伝達内容の豊かさに関わる能力。それに長けた人間は、さまざまなジャンルについて、豊かな知識を、いくらかは専門的なノリと言語で伝えてくれる。それは世界への興味を動力として生きる人間にとって、素晴らしい時間である。しかしもうひとつのタイプは、それとは真逆だ。彼らが長けているのは、伝達内容の豊かさではなく、伝達が可能であるということそのものの、しかも豊かさではなく、技術的な巧さである。それに長けた人間は、あらゆる人間と、ある程度の会話を、しかもそつ無くこなす。驚くほど、そつ無くこなすのである。彼らは、内容ではなく、リズムと顔色で会話をする。それは、興味に生きる人間以外にも居心地の良さを与える。どちらが優れているということはない。しかしそうだとしても、コミュニケーションとは本質的にどちらに属するのかは興味深い問題だ。伝達される内容の豊かさと、伝達できる相手の多さ、伝えることと伝わること、この対比。

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