イサクの2022年映画ランキング・ベスト10

春風の気持ち良い3月、ふと過ぎ去りし年を想う――2022年の映画シーンはどのようなものであっただろうか? 忘れられない作品はあっただろうか? 本サイトで映画評などを書いている「イサク」が選ぶ2022年の映画ベスト10を、アカデミー賞2023の発表日に公開。もちろんネタバレもあるので、観ていない作品の短評を読むときは注意しよう!

Written by イサク

第10位:『ブラックフォン』

去年は珍しく多くのホラー新作映画を観た一年だったが、ブラムハウス製作の本作は、ホラー枠というより、胸が熱くなる兄妹モノ、あるいは友情モノ枠としてこそ忘れがたい魅力を放つ作品だった。というより、本来ホラー作品にはさまざまな魅力がたくさん詰まっているのであって、たんにビックリドッキリというだけではないそういった要素が、僕らに、ホラー好きの友人とのひと時をより楽しいものとして与えていると言えるほどだ。もっとも、本作にはなかなかのジャンプスケア・シーンが用意されているので、まだ観ていない方はお楽しみに。(そのシーンを存分に楽しみたいのならば、予告編は観ない方がよい。ほぼ完全にネタバレしています。)

原作はジョー・ヒル。ホラーの帝王スティーブン・キングの息子…と、きっと何万回も紹介されてきたであろう彼は、父親とはまるで違う、とは全く言えないが、父親の一部作品にどこか雰囲気の近い魅力的な作品を僕らに届けてくれた。こんなかっこよくて可愛い妹や、あんなイカした友人がいたのならば、主人公の少年はきっといい大人に成長するに違いない。喪われていった者たちの魂を胸に生きていくんだ…! 成長したら子供に優しい大人になるんだぞ…!

第9位:『トップガン マーヴェリック』

映画ファンもそれ以外の人々も、世界中を熱狂させた本作を第9位に。本物の戦闘機に俳優を乗せてまで撮られた鬼気迫る映像は、ジェット燃料の匂いとともに、コロナ禍で沈む僕らの日常に風穴を開けてくれたようだった。映画館で映画を観るということの喜び一つに絞るのならば、還暦近くのトム・クルーズが見せてくれた本作の破壊力は、去年のなかでもトップクラスだった。

とはいえ、多くの人が去年1位に選んでいる本作を9位に置くのならば、むしろマイナス点、というか、違和感を抱いた点を述べた方がよいかもしれない。それはずばり、トム・クルーズそのものである。映画の貴公子トム・クルーズが映画界を救ってくれた本作は、まさにトム・クルーズなしでは考えられない映画というまさにその裏面で、彼の(あるいは映画の)ナルシシズムのようなものを感じさせはしないか。ヒーローが活躍するのが映画だ。還暦でもヒーローはヒーローだ。なるほど、それも結構。しかし、テカテカしたヒーローよりはギラギラしたヒーローの方が僕は好みだし、マーヴェリックの恋愛と同じくらいには若い世代の色恋沙汰が描かれてもよいと思った。本作の画面はトムに満たされていて、ふと考えさせるような批評的要素がまるで感じられなかったのも少し物足りなかった点かも。

第8位:『オフィサー・アンド・スパイ』

ドレフュス事件を知らない人は、いまや随分多いと思う。簡単に説明すると、19世紀末のフランスで、陸軍参謀本部大尉ドレフュスがスパイとして逮捕された事件とその背景を指す。ドレフュスの逮捕は冤罪であったのだが、この冤罪事件を後押ししたのがフランス社会および政府・軍が抱いていた差別意識であった。ドレフュスはユダヤ人だったのだ。陸軍は冤罪可能性を認識したあとも証拠隠滅を図ってドレフュスをスパイに仕立て上げようとしたこと、反ユダヤ主義に対抗しようとした一部の知識人としてエミール・ゾラらが活動したこと、ドレフュスが無罪を勝ち取るのには10年以上の月日が必要であったことも忘れてはいけない。歴史的文脈も考える必要がある。ナチス占領以前からフランスに反ユダヤ主義があったことを象徴的に指す事件であるし、イスラエル建国に繋がるシオニズム運動が始まるきっかけとなった事件でもある。19世紀末に次の段階へと展開を始めた資本主義社会のあり方も、この現代的差別事件と無関係ではない。

監督はロマン・ポランスキー。ユダヤ系としてポーランドに生まれ、ナチスによってユダヤ人ゲットーへと押し込まれたあとも、親によってどうにかそこを脱出したという経歴がある監督だ。母親は、実際にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で殺されている。このような過去を持った監督がドレフュス事件を撮る。徹底的に取材して、しかもドレフュスの視点からではないところから撮る。ベル・エポックのパリの華美で退廃した空気も見事に織り込んで撮る。近年、過去の性的暴力を訴えられてからはアメリカからヨーロッパへの逃亡生活を送っているが、そのヨーロッパへの帰還が、もしかすると本作に何らかの影響を与えたと考える必要もあるだろうか?

第7位:『モガディシュ 脱出までの14日間』

現在の韓国映画のレベルの高さ…という文句はもう飽きるほどだが、何度も思うのだから仕方がない。昨年、『モガディシュ』でそれをあらためて痛感した人も少なくないはずだ。ソマリア内戦を描いた映画といえば、抜群の緊張感とそれを経た上でのたっぷりの疲労感を感じさせる傑作として、リドリー・スコット監督の『ブラックホーク・ダウン』が浮かぶが、それにやや似た魅力も本作にはあるかもしれない。

しかし、リュ・スンワン監督が本作で見せた魅力は、リドスコの作品よりももう少し多様なものだったと思う。映画の第一幕はほどよくコメディだ。おっさんお仕事コメディ、あるいは異文化齟齬コメディ。そこから市街戦が始まって一挙に緊張が高まるのが第二幕。そして韓国大使館が北朝鮮大使館の人びとを受け入れて、マッドマックス的車改造&カメラワークが凄いカーチェイスで魅せる最終幕…。泣いて笑って戦慄できる、映画的な楽しみの詰まった2時間だ。「韓国映画のレベルの高さ」なるものの核心もここら辺りの「楽しみ統合力」にあるのかもしれない。

第6位:『ウエスト・サイド・ストーリー』

誰もが知る古典的ミュージカルを、もはや古典的と呼ばれるようになった老監督がリメイクした。しかもその老監督=スティーブン・スピルバーグにとって初のミュージカル作品である。観ないという選択肢はないが、観るとしたところで無限の不安が付きまとう…というファンの心境を、やはりというべきか、聡明なる映画の老王は簡単に吹き飛ばしてくれた。

冒頭からして凄まじい。戦地と見紛うほどの瓦礫の山をカメラが舐めていき、バンっと地下扉が開いたらあの有名なスナップが始まる。体育館でのダンスシーンは、永遠に続いて欲しいほどカッコよく、名曲「アメリカ」のシーンもその彩りと女性たちの華やかなダンスに釘付けになる。いまこの分断の時代にこの名作をリメイクする意味、その覚悟は、アメリカ公開時にあえてスペイン語への英語字幕を付けないという選択をしたことからも窺える。今回蘇った現代版ロミオとジュリエットは、まさにそのような背景とともに、21世紀世代の若者たちにとって、過去作を軽やかに超える作品となった…と言ってしまってもいいだろう。

第5位:『MEN 同じ顔の男たち』

何ヶ月か前に予告編を観たときから「これは絶対観る!!」と決めていたが、年末にようやく観ることのできた本作は、高まっていた期待を超える傑作ホラーだった。トンネルに反響する声、木々の美しいエバーグリーン、忘れがたい最悪の記憶、田舎町の穏やかな落ち着き、視野のなかにふっと現れる恐怖の影、そして衝撃のマトリョーシカ式出産=分裂…。美しさと不気味さが、まるで必然的な調和であるかのように折り重なる。数々の素晴らしい映画を製作してきたA24印の作品群のなかでも、とりわけ印象的な逸品となった本作は、理解可能領域の縁へと観客を誘うだろう。

しかし本作の美点は、映像と音響の魅力や展開の衝撃力だけではない。監督・脚本を務めたアレックス・ガーランドによって、それら技術的要素に包んで突き出された社会に対する批評力もまた、本作を一段と価値あるものとしている。主人公ハーパーが庭の林檎を千切って食べる象徴的なシーン。そこで示唆されているのは、もちろんイヴの物語である。アダム=男性は、イヴ=女性のせいで楽園追放の憂き目にあったとし、それを男性支配の根拠とした。多くの問題、特に幸福な時間の終わりに関わる問題、幸福が阻害されるという問題に関して、男性はしばしば女性側に原因を押し付ける。女のせいにするのである。そしてその点において、男たちは似ている。同じ顔をしているのだ。

第4位:『NOPE/ノープ』

響き渡る不気味な低音、急に空間のすべてが呼吸を止める瞬間、電化製品がまばたきを始め、風も不器用に流れを変える――空に“何か”がいる・・・。「未確認飛行物体(UFO)」というものをロマンの対象ではなく、恐怖の対象として感じたのはいつ以来であったろうか。ジョーダン・ピールが今回描いてみせたのは、これまでの作品の延長線上にありながらも、それらとはずいぶんと違う味わいを与える作品だ。しかもそのことが、より一層ピール風社会派スリラーの特徴を際立たせているようだから面白い。

実は去年、最も書きたかった映画評は、本作に対するものであった。日々の多忙と怠け癖のせいで完成されなかったその記事のテーマは、ジョーダン・ピールの動物論(正確には諸動物およびその表象間の関係論)。『ゲットアウト』における鹿の表象にまで遡りながら、本作における諸動物――何頭かの馬たち、チンパンジーのゴーディ、Gジャン、人間たち、特にアフリカ系の主人公らとアジア系のジュープ――の意味上の配置を考察しようと考えていた。本作を読み解くキーとなるのは、ゴーディの血塗られた挿話であろう。本作が描き出す、見る/見られる関係に横たわる権力性と暴力性は、その裏地に動物論的としか呼びようのない抵抗と解放の思想を忍ばせているのだ。

第3位:『ベルファスト』

田舎を出る。自分の幼少期から少年期の記憶が染み付いた場所を離れる。僕を含め多くの人間が胸に抱えるこの心象風景に、本作は接続してきた。ケネス・ブラナー監督が、例の予算たっぷりポワロシリーズの裏で、たとえ少ない製作費であったとしても真に撮りたかったものは、北アイルランド・ベルファストを舞台とした彼の自伝的作品だったのだ。なぜモノクロ作品にしたかというと、あの頃のベルファストはまさにモノクロ的世界であったからだと、監督は語る。大人たちが宗教上の対立を深めていく灰色のベルファストで、主人公の少年の目には、たとえば『チキ・チキ・バン・バン』のような映画や舞台作品こそが、美しいカラーで映る“向こう”の世界として少年の眼を輝かせる。

田舎を出る。いや、捨てる、と表現してもよいかもしれない。田舎を捨てる――愛があるかないかとは関係なく、自身の意志とも限らないかもしれないが、「捨てる」と表現するしかない、そういう離れ方というものがある。とはいえ、僕の場合は間違いなく自らの意志であった。それでもその我儘な選択を、僕を育ててくれた祖母にも応援して欲しかった。祖母の予言どおりに、彼女の死の瞬間に側にいることのできなかった僕には、本作が最後に映す「行きなさい 振り返らないで」という(少年の)祖母による力強い後押しは、現実に僕が生きた人生には欠けてしまった、大事なピースの行方を教えてくれるようだった。

第2位:『RRR』

神話化された革命など願い下げだが、神話と革命という二つの概念が相互に浸透して見事な塩梅をなすのならば、その相互浸透を生み出す核心にある何かを見過ごすわけにはいかない。本作の場合、それはブルース・リー、あるいはその名で象徴可能なある性質、ある領域であるだろう。そこでは、圧倒的暴力――特に広義の意味での植民地的暴力――に対する革命的抵抗は、破壊的であると同時に救済的な、妙に血の匂いのしない、特異な暴力のあり方として表象されることになる。『バーフバリ』で世界をいくらかは魅了したS・S・ラージャマウリ監督は、この種の暴力に接近することで、きっと(かつてインドを植民地化した)大英帝国市民をも含むであろう広汎な世界的支持を勝ち得た。

とはいえ、この映画の問題性もまたそこにある。この革命的暴力の神話性は、現代インドのナショナリズム、あるいはヒンドゥー至上主義的傾向とやはり結びついている。平和と融和を訴えたガンジーが独立のために活躍した先人たちのリストから外されているエンディングは、ここらあたりの事情と関係しているのかもしれない。…といったようなことはあるとしても、この映画の魅力が減じるわけではないのだが。むしろ映画を存分に楽しんだあとに、適切な警戒を一服することが、映画の楽しみを下手に損なう可能性を避けることだってあるのだ。

第1位:『TITANE/チタン』

去年の4月に本作を観てからというもの、世界の見え方が少し変わった気がする。性と死(殺害)は以前に増して接近して見えるようになったし、現実が幻想に優しく心を許すような瞬間を目が探すときがある。鑑賞後の一年間を支配したという意味で、本作は疑いなく2022年のナンバー1映画であった。もし観ていない方がいるなら、逃さず観てほしい。そうすれば、アガト・ルセルなる女優が演じるアレクシアは、全く前例がないようなかたちで心のヒーローになるだろう。

自らに性欲を向ける相手に殺意を抱く癖のあるアレクシア、そして彼女は車に対して欲情し、車と交わり、車との間に子をもうけるわけだが、この物語はTITAN、すなわちタイタン(巨人)がギリシャ神話において異種間の子どもであったことを想起させる。しかし、僕はあの妊娠はやはり彼女の幻想だと考える。息子の影をアレクシアに重ねるヴァンサン。お腹が大きくなる度に、見た目の男性性を増すアレクシア。異種間の境界が揺れる。そして感動的なラストシーンは、孤独に自らの幻想を生きるしかない二人の、その孤独な幻想がついに合流し、二人の現実になった瞬間だったのではないだろうか?

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