ヒップホップの精神

本年8月11日、ついに50周年を迎えたヒップホップ。音楽、ダンス、ファッション…。すでに巨大な文化産業と化しているヒップホップに、どのような批評眼を向ければよいのか。ヒップホップとは一体何なのか。ヒップホップ・カルチャーに20年以上触れてきた筆者による、ヒップホップの哲学的解剖、あるいは哲学のヒップホップ的解体!連載第一回!

Written by イサク

紙切れの上で

ヒップホップの原理とは〈構成〉である。ヒップホップを一つの哲学的な表現として生成し、またその水準を決定するのは、徹底的な構成の意志とその成果なのだ。

あらゆる真の構成がそうであるように、それは破砕から事を始める。ある文脈、それ自体の固有な流れ、固有な歴史として、諸々に意味と位置を与える全体を破り、そうしてその全体によってこそ意味を与えられていた部分を〈断片〉へと変える。そのような断片を賭金に構成は開始されるのだ。

そして構成における決定的契機としての〈引用〉の意識は、事柄の死化をとおした意味の新生であり、自らが身を置く世界を、異なる位置に置かれたものたちの飛躍的結合のなかに見出す、と同時に、常に潜在的に革命の可能な状態と見做す。

このような構成の身振りは、ヒップホップにおいてあらゆる局面における作用起点となる。試しに最良と呼びうるようなヒップホップ・ミュージックのアルバムを手に取ってみるとよい。そこでは、たんに一つの曲のビートだけでなく、隅々のリリック、韻の連なり、一つの作品としてのアルバムの楽曲の並び、さらにはそれを聴くだろう者たちの内部の意識と外部の状況にいたるまで、構成の意志が張りめぐらされているだろう。

絵の逃げた絵本

構成configurationという語には、それが何を主要な契機とするかということがあらかじめ書き込まれている。ちょうど博物館のパノラマや玩具屋がそうであるように、あるいはよく出来た群像劇がそうであるように、それは、形象figureを慎重に配置することで自らの展開を導くのである。

そしてこの形象というものもまた、構成の過程によってこそ獲得される。それは、しばしばそのように誤って主張されているような〈ありのままを描く〉などということではない。ここでの形象の構成とは、目の前の現実をありのまま提示することではなく、現実を砕き、余分なものを捨て、そうして手に入れられた諸断片に集中することで、より深く現実を描くことなのだ。

だからこそ、たとえばギャングであるがゆえに、ギャングスタ・ライフの現実をよく描けるなどということにはならない。むしろある種の鋭い観察者、ある種の優れた詩人にこそ、より高度な現実描写の王冠が与えられるのだ。

言い換えると、形象とは、天使や悪魔や恋人や英雄――すなわち、意味の充満したもの――になった現実なのである。

歴史のなかの狡知

あらゆる真の断片は、何らかの危機をその背景として持つ。両者の関係の仕方はさまざまであるが、危機の意識――すなわち、整序された習慣や社会体系に対する信頼のできなさ、自己ないし対他関係の持続的保存の困難、いまここにせり出そうとしている暴力や抑圧の予感といったものが、断片的表現の影には張り付いている。

ヒップホップの場合、それはさらなる加速をみせる経済的貧困と貧困からなお個々を庇護していた地域コミュニティの崩壊であっただろう。構造的抑圧が個々に迫る表現への志向性と、表現のための機材獲得の困難と、あまりに退屈なかたちで彼らを襲う危機のなかでの気晴らしの精神が、そこに危機に対する有効な抵抗の所作を生み出した。

ほとんどのものが楽器を手に入れることもできないという貧困状態から、安価なレコードに刻まれた先人の音を自分が表現するために引用するという作曲方法にいたる過程には、生活を覆う悪辣な貧困の運命論的力から、自己をその精神ごと引き剥がすという抵抗の態度があらかじめ埋め込まれている。欠乏が抵抗へと転化する。この関係がヒップホップ的なものの条件であるとともに、それに復讐者としての相貌を与えるのである。

(続く)

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